夏の天使
朝になって目が覚めると、天使が天井に浮かんでいた。
あまりに非現実的な光景だったので夢かと思い、寝なおした。正確には寝なおそうと思って目を閉じただけだったが、夏の暑さ特有の湿った空気が寝苦しさを助長してくれやがって、どうにも寝付けない。何度か寝返りをうったあと、諦めて再び目を開けた。
当たり前の話だが、天井はいつもの壁紙の白でしかなく、天使などどこにもいなかった。大きく伸びをして、頭のうしろをがしがしこすりながら周りを見渡すが、部屋の中も、部屋の外も昨日の夜から明るさ以外何も変わっていない。
そりゃそうだ。何を期待してんだか。
一人呟くと時刻を確認してから洗面所に向かった。
今日は平日、いつもどおり会社に行かなきゃならない。
寝ぼけたまま歯を磨く。鏡に映る自分の姿を見れば、寝癖がついてぼさぼさの頭が際立ってなんだか凄く貧相な感じを受けた。適当にシャワーで髪をとかし、ドライヤーで乾かす。余り時間は無いので熱風で。鏡をぼんやりと眺めて寝癖が無いことを確認しつつ寝巻きを脱ぎ捨て、とりあえず洗濯機の中につっこんでおく。
そうやってパンツ一枚になったところでトイレに向かったが、まだ眠気は取れておらず、視界の半分は閉じたままだった。そんな状態でも何にぶつかることも無くトイレに辿り着けるのは単にそれが長く続いた習慣だからに過ぎない。
トイレにつくとドアを開けてすぐさまトランクスを腿までずりさげた。
「え、ちょっと、なっ、なななな…」
「はん?」
いきなり声がしたことに驚き、半分閉じた目がいっきに全開になってようやく気付く。トイレには目も覚めるような美しい天使が座り込んでいた。しかし、もうすでに放水準備万端だ。止められるわけも無い。
そのまま黄金の水が天使に向かって降り注ぐ。
「いやっ!待っ!口入っ…いやああああ!」
大口開けて悲鳴を上げた天使が突き出した手を避けるすべなどあるはずも無く、俺は黄金色の水しぶきを辺りに盛大に撒き散らしながら転倒した。どすん、と尻餅をついてから、聖水、そして洗礼という言葉が脳裏をよぎる。
顔にかかった。
「あー、その。誰?コスプレ泥棒?」
頭の輪っかの光り具合といい、羽の質感といい、着ているローブっぽい服といい、人間とは呼ぶには憚られる美貌といい、ゆったりしたローブっぽい服に隠れているようで隠れていない豊満な胸といい、どう見てもそれが現実的なものであるとは思えなかったが、一応常識で類推できる範囲内で問いただす。
「うう、うううう……。その質問に答える前にタオルをください……」
ごもっとも。聖水を浴びてしまったのはこちらだけではなかったようで。
少し泣きそうな、震える声でしゃべる天使にタオルを渡し、洗面所の方へ誘導したあと、びしょびしょになったパンツを脱ぎ捨てる。もう一度着る気にはなれなかったので、そのままゴミ箱にポイだ。
まさかこの年になって漏らす感覚を味わうことになろうとは夢にも思わなかった。というかこれは夢なんじゃなかろうか。明晰夢だったか、妙に現実感を伴う夢があったはずだ。そんなもの実際に見たことは無かったが。
まるでありがちな漫画のようだと思いながら、これまたありがちに自分の頬をつねってみる。
痛い。
夢じゃないのか。それとも、単に寝起きの状態から思考がぼやけたまま幻覚を見ているのか。
「考えたってわかんねえよなあ……」
その呟きでごちゃごちゃした思考をまとめて吹き飛ばす。とりあえず、顔にかかった聖水を台所で洗って着替えることにした。
洗面所の方から水の流れる音がする。金髪の天使が必死に口と顔を洗っているのだろう。言葉どおりの穢れを落とすために。問題はどれだけその浄化に時間がかかるかだ。こういうのは本人の気が済むまでやるだろうから、すぐに終わるとも思えない。
「時間が無いな」
時計を見ればいつもなら既に家を出ている時間になっている。会社を休むべきか。いやしかし、丁度忙しい時期の今、休むというのはよろしくない。後に響いて困るのは俺自身だ。
「取られて困るものだけ持っていけばいいか」
正体不明の金髪天使を家に一人にするのも嫌だが背に腹は変えられぬ、といったところだ。
印鑑と通帳、財布と携帯、あと煙草。とりあえず思いつくものだけ手早くバッグに押し込んでから洗面所を覗き込む。天使は水を出しっぱなしにしたままタオルに顔をうずめていた。足元には既に使ったのであろうタオルが数枚散乱している。
「俺会社行くから。話は帰ってから聞く」
返事はなかった。タオルを通して、くぐもった、すすり泣くような声が聞こえてくるだけだった。
「んじゃ」
どうすればいいのかわかりゃしない。
段々めんどくさくなってきてもいたので、言うだけ言って家を出た。
◆
そして残業で疲れた体を引きずりつつ帰ってくるとアパートが光っていた。紛れも無く光っていた。というか、アパートから遥か上空まで光の柱が立っていた。
俺はその光の柱を見上げながらあんぐり大口を開けてアパートの前に突っ立っていた。付近の住民も、隣の部屋の須藤さんも、そのまた隣の原田さんも同じように突っ立っていた。あっけにとられ、ただぼんやりと巨大な光を見上げていた。
「見てください!このアパートから光の柱が天に伸びています!」
気付くとTVのアナウンサーらしき女性がマイクを握り締めてカメラに向かって叫んでいた。
「あぁっ!?光の柱から翼の生えた…女性!女性が現れました!あれは天使なのでしょうか!?」
確実に天使だ。あんな怒りに満ちた表情は見たことないが、今朝出会った天使で間違いない。
彼女は俺を殺気の篭った目でにらみつけている。
なんとなくそんな予感はしていたが、この超常現象、やはりこの天使が原因か。突き詰めれば俺が原因であることには目を背けておこう。
「穢れた人間どもよ……」
アナウンサーのけたたましい声を阻害するように重々しい声が頭の中で響く。
「天使に不埒を働きし愚かなる者どもよ……」
俺のことだ。間違いない。黄金水で汚した俺のことで間違いない。
「汝らの所業、もはや見逃せぬ……己の過ちを嘆き、悔やみ、そして滅ぶがよい……。今から三日後、世界は終わりを告げるだろう……」
なんてことだ。このままでは俺の黄金水のせいで世界が滅ぶ。
まずい。
なんとかしないと本当にヤバイ。この頭に響く声、有無を言わせない真実味がある。周囲の人間も誰一人疑うことなく信じ込み、青い顔で絶句している。
俺はなんとか打破しようと、汚された、もとい俺が汚した天使に向かって叫ぶ。
「こんなことはやめてくれ!やるなら俺一人にしろ!」
「それは無理な話です。神の意思は絶対…何者にも曲げられはしません」
「そんなこと言うなよ!あんた天使なんだろ!?だったら神様に言ってくれ!俺が悪かった!穢れたなら俺が清める…いや、俺に責任を取らせてくれ!」
「どのように?もはや神の怒りは静まりはしない…」
「結婚しよう!必ず幸せにするから!」
思わず口をついて出た言葉に天使は驚き、ややあって微かに頬を染めた。
純情天使。そんな造語が頭に湧いた。
◆
そういった始まりがあって、俺は今ここにいる。
悪魔の力を借りたり、ドワーフに神殺しの武器を作ってもらったり、エルフに魔術を教えてもらったり、四大天使と戦いの末和解したり、色々あったが件の天使と共に世界の滅亡を止めようと奮闘している。
神は目前、物語も終盤だ。
「愚かなる人間よ……神に逆らうとは……呆れ果ててものも言えぬ……」
「神よ!私はこの人間と共に生きると決めました!世界を滅ぼすなどおやめください!」
「堕天の言葉など聞く耳持たぬ……」
「てめえの意見なんざ知るか!俺はコイツと結婚すんだ!他人の恋路を邪魔する奴は、神だろうと馬に蹴られて死んじまえ!」
どう見てもチェーンソーにしか見えない神殺しの刃を手に、俺は駆ける。
あの夏の日に出会った天使と共に俺は駆ける。
愛のために、未来のために、超常の力を持って頂上の力を打ち倒す。
ああ、どこで間違った俺の人生。
二人の愛が世界を救うと信じて…!ご愛読ありがとうございました!(超展開)