06
ティンクスが恥ずかしい告白をしてしまった夜から遡ること五日前。
「お嬢様、最近元気があまりないご様子ね……」
「そりゃ、ティンクス様が先代様の命を受けて、留守になさっているからよ。婚礼は二十日とちょっとしかないから……」
「そういえば、お舘様、婚礼を先延ばしにするようお嬢様におっしゃったとか……」
「そうそう、けれど、お嬢様はうんとはおっしゃらなかったみたいよ。だから、お舘様はフォレスティア公爵様にそれとなく延期の話をなされたご様子で」
「まあ、それだとますます元気が無くなってしまうわね」
「そうね……」
二人の女中はそんなことを話しながら、廊下を歩いていった。
二人の姿が消えると、一人の人物の姿が現れた。
その人物は軽くため息をついて、足早にこの家の姫である、ラリナの部屋へと向かった。
ノックの音に、ラリナはゆっくりとドアのほうへ振り向いた。
「どうぞ」
「失礼します」
礼儀正しく入ってきたのは、ティティーズ家の女中で、ラリナの乳母の娘であり、そして、ラリナの一番心を許しているネルだった。
「あら、ネル」
「お嬢様……」
ネルはラリナの顔を見てひどく落胆した。顔が青白い。ティンクスとの婚約が決まったときは、あの頬をばら色に染めていただけに、その差はひどくネルに心配をかけさせた。
「お嬢様、あまり夜、寝ていらっしゃらないのですね」
「ええ……。ついつい、夜空を見てしまうの。……ティンクス様もこの空をどこかで見ていらっしゃるのではないかと……」
「大丈夫です。ティンクス様はきっとすぐ戻られますよ。あと二十五日もあるんですよ? 必ず、間に合います」
「私もそう思っているのだけれども……、私も何か手伝えることがあれば、今すぐにでも手伝うのに……」
そういってラリナは、結い上げもしていない長い黒髪をいじった。
(ああ、本当にお嬢様はつらいのね……)
そのしぐさを見て、ネルはしみじみそう思った。小さい頃から一緒に育ってきたネルにとって、ラリナはすばらしい姉であり、主人であり、そして友人であった。彼女はしかられたり、痛かったりすると、無意識に指で自分の髪をいじる癖がある。そのことを知っているのはネル以外、誰もいない。
ネルは大好きなラリナをティンクスにとられる思いがして、最初は婚約を快く思っていなかった。けれど、ティンクスは申し分ない男性で、そしてラリナを心から大事にしていることが分かると、すぐにその考えは消え去った。そしてなにより、ラリナ自身がこの婚約を、一番喜んでいたからだ。
ネルは知っていた。ラリナは、決して口では言わなかったが、実はティンクスのことが好きだったということを。
だからネルは、誰よりも二人の婚約を祝っていた。
ネルはしばらく何も言わなかった。しかし、覚悟が決まったのか、ゆっくりと顔を上げて口を開いた。
「……お嬢様、ティンクス様を助けたいと思っているのですね?」
「ええ、今すぐにでも」
思っていたより、しっかりとした声で返事が返ってきた。
「ならば、ティンクス様を追いかけませんか?」
「追いかける?」
「はい。一緒に、ヴァジェスタ皇子を探しませんか?」
ティンクス様と……。
ラリナはネルの瞳をゆっくりと見た。
「……お父様が許してくださらないわ」
「そうです。だから、こっそり屋敷を抜け出すのです」
「あなたがすごく叱られるわ」
「それぐらい、大丈夫です。ここを辞めさせられることになっても、職はたくさんあります」
どん、と胸を叩いてネルは言った。
「……でも、今から追いつくことが出来るかしら?」
「実は……わたし、ティンクス様から道筋を伺っておきました」
「本当?」
「はい。もしかしたら、こういう事態が起こるかもしれない、って考えていたんです」
「ネル……!」
ラリナはネルに抱きついた。
「お、お嬢様っ」
「やはり、ネルは賢いわね。私の最高の妹で、友人よ!」
ネルはラリナ自身からそんな言葉を聞くことが出来て赤面した。
「そ、そんな……お嬢様」
「そうと決まれば、今すぐにでも出発しましょう!」
「ま、まってください。用意とか、色々しなければいけないことがあるでしょう?」
「大丈夫、ほら」
そういってラリナは大きな自分の寝台の下から、小さめのかばんを二つ、取り出した。
「何かあるかもしれないって、こっそり準備していたの」
にっこりと微笑みながら言うラリナに、ネルは唖然とした。
どちらかといえばおっとりとしたラリナが、こうも行動的になるとは……。
(恋ってすごい……)
ネルはそう思った。
(20111003)