00:プロローグ
その男は両腕に抱えきれないほどの花束と果物(実際、男の足元には色とりどりの花束が置いてあった)を持って、私の前に現れた。その男は、淡い茶色の髪と若葉のような瞳を持っていた。
「会いたかったよ、俺の花嫁」
開口一番、その男はにっこりと微笑みながら言った。
「は……花嫁ぇ~?」
私はかろうじて、そう言うことが出来た。あまりにも突拍子のないことを言われ、脳が正常に働かなかったようだ。
「そうだよ。やっぱりきれいになったね。俺の思った通りだ」
男は手にしていた花束を私に突き出して(男にとっては差し出して)そう言った。
私はその花束には手を出さずに、男を睨みつけた。
「失礼ですが、何か勘違いしているのではないですか? 私はあなたの事など一切知りません」
「やっぱり、俺のこと、覚えてないか…。無理もないかぁ、出会ったのは十年前だもんなぁ」
男は仕方がない、といったふうに首を振った。
「十年前…って、私が六歳の時じゃないですか! そんな昔のこと、覚えているはずがない」
思わず、丁寧な言葉遣いを忘れ、地が出てしまった。
いいようのない怒りが、ふつふつと湧き上がってきた。
「まあ、一から愛を育むのもまた一興。なかなかいいかもしれない」
「ちょっと! 人の話を聞いているのっ!?」
本気で切れそうになったとき、私にとっての救いの神が現れた。
「どうした、シュリナ。大声を出して…」
「父さんっ!」
体格のいい五十歳ぐらいの男が私─―シュリナに声をかけた。
「父さん、この人、どうにかしてほしいんだけど…」
「お久しぶりです、ジェンダ殿」
男はシュリナの父、ジェンダに向かってそう言った。
「はて、どちらさん…で……」
ジェンダはまじまじと男の顔を見た。
「お忘れでしょうか? 十年前、こちらの道場でやっかいになった者ですが」
「十年前…。ああ! あの時の!」
ぽん、と手を鳴らしジェンダは言った。
「たしか、ヴェクター・ヨムイエル、といったかな?」
「そうです! 覚えていていただけたんですね」
「ああ、よーく覚えているとも。出来がよかったからな。久しぶりだな。また、稽古をつけてほしいのか?」
「いえ、今日は別の用件で参りました」
「ほう、して、それは何かね?」
「お嬢さんと、シュリナさんと結婚させてください」
怪しげな男――ヴェクターのその一言に、シュリナはもちろん、ジェンダも止まった。
「…なっ!」
先に息を吹き返したのはシュリナだった。彼女は先ほども同じようなことを聞かされていたため、立ち直りがジェンダより早かった。
「さっきから! 何を言っているの!?」
「本当は十年前に結婚したかったんだけどね、いかんせん、シュリナは六歳、俺は十五歳だったからな、法に違反していたからな」
しかたがなかったんだよ、と、ヴェクターはつぶやいた。
「……ヴェクター、本気か?」
ようやく立ち直ったジェンダがそう尋ねた。
「はい、本気です。決してお嬢さんを不幸にはさせません」
「こいつはわしの唯一の娘でな、わしの妻にそっくりなんだ。生半可な男にはやれん」
「大丈夫です、何事においても自信はあります」
「その言葉、うそ偽りはないと誓えるか?」
「誓えます」
ジェンダはヴェクターの瞳を正面から見据えた。ヴェクターは瞬きもせず、ジェンダの視線を受け止めていた。
「よかろう」
ジェンダの口がようやく開いた。
「父さんっ」
その言葉に一番驚いたのはシュリナだった。
「しかし、こちらの条件を飲まなければならぬ」
「なんでしょうか?」
ヴェクターの顔は心なしか上気している。
「まず、シュリナを絶対に泣かせないこと、辛い思いをさせないこと、家事は二人で分けること、もちろん、育児もだ」
「任せてください。家事、育児は得意です」
胸を張ってヴェクターは答えた。
「そしてっ! この条件を満たさなければ、結婚は認めん」
「それは?」
「この道場にいる者全てに勝てなければならぬ。それぐらいの力量が無いやつに、シュリナを守らせることはできない」
「父さん!」
シュリナは喜んだ。道場にはジェンダの弟子だけでゆうに三十人はいる。それに、彼女の兄もいる。もちろん、父もだ。
「わかりました。その条件を飲めば、お嬢さんとの結婚を認めてくださるのですね?」
「ああ」
ヴェクターはくるりとシュリナのほうに向き直っていった。
「じゃあ、がんばってくるよ」
満面の笑顔でヴェクターは言い、そして先に進むジェンダの後をついていった。
シュリナは残された花束と果物を見ながら、つぶやいた。
「無理に決まっているのに…」
それから、花束を道場と家中の花瓶に挿して回った。
こうして、シュリナの運命をかけた戦いが始まった…。
(20110918)