斬られる側の名
後の世は,斬った者の名をよく覚えている.
近藤勇.土方歳三.沖田総司.
浅葱の羽織は,血の匂いさえ物語に変える.池田屋という名を聞けば,人はまず,新選組が踏み込んだ夜を思い浮かべる.刀の音,階段を駆け上がる足音,暗い二階に飛び散った血.
だが,斬られる側にも名はあった.
吉田稔麿という.
その名を,今の世で口にする者は多くない.けれどあの夜,彼はまだ死者ではなかった.長州の志士でも,池田屋事件の犠牲者でもなく,ただ一人の若い男として,雨の京を歩いていた.
雨は細かった.
降るというより,闇の中から滲み出ているような雨である.京の路地は濡れるほどに狭くなり,軒先の灯は水の膜に包まれて,遠い火事のようにぼやけた.
稔麿は足を止めた.
三条小橋のたもとに,少年が立っていた.
傘も差さず,旅装でもなく,町家の子にしては上等すぎる白い小袖を着ている.奇妙なのは,その袖がまったく濡れていないことだった.雨は少年の肩に落ちているはずなのに,水は布に触れる前に消えているように見えた.
「どこの子だ」
稔麿が問うと,少年はゆっくり顔を上げた.
幼い顔であった.だが,目だけが老いていた.人の生まれる前からそこにあり,人の死んだ後もなお残るものの目である.
「お待ちしておりました」
「わしをか」
「はい」
稔麿は笑おうとした.だが,笑えなかった.
京では奇妙なものを見ても,すぐに否定してはならない.この都には,死んだ者の数だけ辻があり,恨みの数だけ橋がある.人の世とそうでない世の境目など,雨の晩には畳の目ほどにも薄くなる.
「名は」
「名はありません」
「名もない者が,人を待つのか」
「名のある者を,待つのです」
少年はそう言って,稔麿の顔を見た.
「吉田稔麿さま」
その声に,稔麿はわずかに眉を動かした.
名を呼ばれることには慣れている.同志の間で,あるいは長州藩邸で,あるいは密議の席で.だが,この少年の呼び方は違った.生きている者を呼ぶ声ではなかった.墓前で名を読み上げる声に似ていた.
「用件を言え」
「今夜,池田屋へお行きになりますか」
雨の音が,一瞬やんだように思えた.
池田屋.
その名は,まだ後の世のものではない.芝居にも,小説にも,講談にもなっていない.ただ三条小橋の近くにある旅籠の名にすぎなかった.仲間が集まり,国の行く末を語り,時には怒号も漏れる,京の無数の宿の一つでしかなかった.
だが少年の口から出た瞬間,その名は,すでに血の匂いを帯びていた.
「なぜ知っている」
「知っているのではありません.覚えているのです」
「妙なことを言う」
「これから起こることは,私にとってはもう昔のことです」
稔麿は黙った.
少年は川面を見た.雨粒が黒い水を叩き,小さな輪を作ってはすぐに消えていく.
「近藤勇が来ます」
少年は言った.
「沖田総司が続きます.永倉新八,藤堂平助の名も,その夜に刻まれます.浅葱の袖が階段を駆け上がります.そして遅れて,土方歳三の足音が夜の出口を塞ぎます」
稔麿の手が,知らず刀の柄に触れていた.
「新選組か」
「はい」
「ならばなおさら,知らせねばならん」
稔麿は低く言った.
「同志が危ういなら,わしは行く」
「行けば,あなたも帰れません」
「それは,おまえが決めることではない」
「いいえ」
少年は首を振った.
「決めたのは,あなたです」
稔麿は少年を睨んだ.
決めた.
その言葉は,不思議なほど胸に重く落ちた.
死を望んでいたわけではない.まだ成すべきことがあった.長州の行く末も,この国の形も,何一つ見届けてはいない.松陰先生が夢見たものが何であったのか,その答えにさえ,まだ手が届いていない.
だが,どこかで知っていた.
自分の道が,老いるための道ではないことを.
京に来てから,幾度も死の気配を感じた.御所の火,捕縛の噂,仲間の失踪,夜道に潜む足音.死は常に背後にあり,ある時は前を歩き,ある時は隣に並んだ.志とは,死を遠ざける言葉ではない.死に意味を与えてしまう言葉である.
「おまえは何者だ」
稔麿は尋ねた.
少年は答えなかった.ただ小さな手を差し出した.掌には,一枚の紙片があった.
濡れているようで,濡れていない紙だった.
稔麿は受け取った.そこには一字だけ書かれていた.
帰.
帰れ,ということか.
帰る,ということか.
あるいは,帰れなかった者たちの怨みか.
筆跡は,師のものに似ていた.
稔麿は一瞬,萩の空を思い出した.松下村塾の狭い部屋.畳に座る若者たちの熱気.師の声.人は志を立てねばならぬ,という声.狂であれ,という声.正しさだけでは世は動かぬ,という声.
だが,師はこうも言ったのではなかったか.
人を愛せぬ者に,国を愛することなどできぬ,と.
雨が強くなった.
稔麿は紙片を握りしめた.
「帰れぬ」
その声は,自分のものとは思えぬほど静かだった.
「なぜです」
「友がいる」
「友のために死ぬのですか」
「違う」
稔麿は言った.
「友を死なせぬために行く」
「同じことです」
「違う」
今度は強く言った.
「死ぬために行くのではない.生かすために行くのだ」
少年は,その言葉を聞いて,初めて少しだけ表情を変えた.悲しむような,笑うような顔だった.
「後の世は,あなたをそうは覚えません」
「後の世など知らん」
稔麿は吐き捨てるように言った.
「わしは今夜を生きている」
その瞬間,遠くで声がした.
人の声である.雨に潰され,言葉にはならない.だが,ただならぬ気配があった.誰かが走っている.誰かが呼んでいる.京の夜が,急にざわめき始めた.
少年の姿が薄くなった.
「吉田さま」
「まだ何かあるか」
「名は,残ります」
少年は言った.
「多くの者は忘れます.けれど,完全には消えません.誰かがいつか,斬った者ではなく,斬られた者の名を呼びます」
稔麿は答えなかった.
少年は雨の中へ溶けていった.白い小袖も,古い目も,最初からそこにはなかったように消えた.残ったのは,掌の冷たさだけだった.紙片も,もうなかった.
稔麿は歩き出した.
三条小橋を渡る.水の匂いがした.油の匂いがした.遠くで,誰かが新選組の名を叫んだように聞こえた.
池田屋の灯が見えた.
まだ血は流れていない.
まだ畳は乾いている.
まだ人は,自分が死ぬことを知らずに息をしている.
稔麿はその灯を見上げた.
後の世は,この夜を池田屋事件と呼ぶだろう.近藤勇の踏み込みを語り,沖田総司の剣を語り,永倉新八の刃を語り,藤堂平助の傷を語るだろう.そして少し遅れて到着した土方歳三の名は,やはり夜を締める名として残るだろう.浅葱の羽織は幾度も描かれ,斬った者の名は幾度も呼ばれるだろう.
だが,稔麿には関係がなかった.
彼にあるのは,今この夜だけだった.雨に濡れた京の道と,二階にいるかもしれぬ友と,まだ終わっていない自分の息だけだった.
稔麿は戸口に手をかけた.
内側から,人の熱気が漏れてくる.酒の匂い,汗の匂い,焦りの匂い.そして,まだ形を持たぬ死の匂い.
彼は振り返らなかった.
帰れ,という声は胸の奥に残っていた.
それでも足は前へ出た.
吉田稔麿は,池田屋の夜へ入っていった.




