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歴史

斬られる側の名

作者: くるみ
掲載日:2026/05/06

 後の世は,斬った者の名をよく覚えている.


 近藤勇.土方歳三.沖田総司.

 浅葱の羽織は,血の匂いさえ物語に変える.池田屋という名を聞けば,人はまず,新選組が踏み込んだ夜を思い浮かべる.刀の音,階段を駆け上がる足音,暗い二階に飛び散った血.


 だが,斬られる側にも名はあった.


 吉田稔麿という.


 その名を,今の世で口にする者は多くない.けれどあの夜,彼はまだ死者ではなかった.長州の志士でも,池田屋事件の犠牲者でもなく,ただ一人の若い男として,雨の京を歩いていた.


 雨は細かった.


 降るというより,闇の中から滲み出ているような雨である.京の路地は濡れるほどに狭くなり,軒先の灯は水の膜に包まれて,遠い火事のようにぼやけた.


 稔麿は足を止めた.


 三条小橋のたもとに,少年が立っていた.


 傘も差さず,旅装でもなく,町家の子にしては上等すぎる白い小袖を着ている.奇妙なのは,その袖がまったく濡れていないことだった.雨は少年の肩に落ちているはずなのに,水は布に触れる前に消えているように見えた.


「どこの子だ」


 稔麿が問うと,少年はゆっくり顔を上げた.


 幼い顔であった.だが,目だけが老いていた.人の生まれる前からそこにあり,人の死んだ後もなお残るものの目である.


「お待ちしておりました」


「わしをか」


「はい」


 稔麿は笑おうとした.だが,笑えなかった.


 京では奇妙なものを見ても,すぐに否定してはならない.この都には,死んだ者の数だけ辻があり,恨みの数だけ橋がある.人の世とそうでない世の境目など,雨の晩には畳の目ほどにも薄くなる.


「名は」


「名はありません」


「名もない者が,人を待つのか」


「名のある者を,待つのです」


 少年はそう言って,稔麿の顔を見た.


「吉田稔麿さま」


 その声に,稔麿はわずかに眉を動かした.


 名を呼ばれることには慣れている.同志の間で,あるいは長州藩邸で,あるいは密議の席で.だが,この少年の呼び方は違った.生きている者を呼ぶ声ではなかった.墓前で名を読み上げる声に似ていた.


「用件を言え」


「今夜,池田屋へお行きになりますか」


 雨の音が,一瞬やんだように思えた.


 池田屋.


 その名は,まだ後の世のものではない.芝居にも,小説にも,講談にもなっていない.ただ三条小橋の近くにある旅籠の名にすぎなかった.仲間が集まり,国の行く末を語り,時には怒号も漏れる,京の無数の宿の一つでしかなかった.


 だが少年の口から出た瞬間,その名は,すでに血の匂いを帯びていた.


「なぜ知っている」


「知っているのではありません.覚えているのです」


「妙なことを言う」


「これから起こることは,私にとってはもう昔のことです」


 稔麿は黙った.


 少年は川面を見た.雨粒が黒い水を叩き,小さな輪を作ってはすぐに消えていく.


「近藤勇が来ます」


 少年は言った.


「沖田総司が続きます.永倉新八,藤堂平助の名も,その夜に刻まれます.浅葱の袖が階段を駆け上がります.そして遅れて,土方歳三の足音が夜の出口を塞ぎます」


 稔麿の手が,知らず刀の柄に触れていた.


「新選組か」


「はい」


「ならばなおさら,知らせねばならん」


 稔麿は低く言った.


「同志が危ういなら,わしは行く」


「行けば,あなたも帰れません」


「それは,おまえが決めることではない」


「いいえ」


 少年は首を振った.


「決めたのは,あなたです」


 稔麿は少年を睨んだ.


 決めた.


 その言葉は,不思議なほど胸に重く落ちた.


 死を望んでいたわけではない.まだ成すべきことがあった.長州の行く末も,この国の形も,何一つ見届けてはいない.松陰先生が夢見たものが何であったのか,その答えにさえ,まだ手が届いていない.


 だが,どこかで知っていた.


 自分の道が,老いるための道ではないことを.


 京に来てから,幾度も死の気配を感じた.御所の火,捕縛の噂,仲間の失踪,夜道に潜む足音.死は常に背後にあり,ある時は前を歩き,ある時は隣に並んだ.志とは,死を遠ざける言葉ではない.死に意味を与えてしまう言葉である.


「おまえは何者だ」


 稔麿は尋ねた.


 少年は答えなかった.ただ小さな手を差し出した.掌には,一枚の紙片があった.


 濡れているようで,濡れていない紙だった.


 稔麿は受け取った.そこには一字だけ書かれていた.


 帰.


 帰れ,ということか.

 帰る,ということか.

 あるいは,帰れなかった者たちの怨みか.


 筆跡は,師のものに似ていた.


 稔麿は一瞬,萩の空を思い出した.松下村塾の狭い部屋.畳に座る若者たちの熱気.師の声.人は志を立てねばならぬ,という声.狂であれ,という声.正しさだけでは世は動かぬ,という声.


 だが,師はこうも言ったのではなかったか.


 人を愛せぬ者に,国を愛することなどできぬ,と.


 雨が強くなった.


 稔麿は紙片を握りしめた.


「帰れぬ」


 その声は,自分のものとは思えぬほど静かだった.


「なぜです」


「友がいる」


「友のために死ぬのですか」


「違う」


 稔麿は言った.


「友を死なせぬために行く」


「同じことです」


「違う」


 今度は強く言った.


「死ぬために行くのではない.生かすために行くのだ」


 少年は,その言葉を聞いて,初めて少しだけ表情を変えた.悲しむような,笑うような顔だった.


「後の世は,あなたをそうは覚えません」


「後の世など知らん」


 稔麿は吐き捨てるように言った.


「わしは今夜を生きている」


 その瞬間,遠くで声がした.


 人の声である.雨に潰され,言葉にはならない.だが,ただならぬ気配があった.誰かが走っている.誰かが呼んでいる.京の夜が,急にざわめき始めた.


 少年の姿が薄くなった.


「吉田さま」


「まだ何かあるか」


「名は,残ります」


 少年は言った.


「多くの者は忘れます.けれど,完全には消えません.誰かがいつか,斬った者ではなく,斬られた者の名を呼びます」


 稔麿は答えなかった.


 少年は雨の中へ溶けていった.白い小袖も,古い目も,最初からそこにはなかったように消えた.残ったのは,掌の冷たさだけだった.紙片も,もうなかった.


 稔麿は歩き出した.


 三条小橋を渡る.水の匂いがした.油の匂いがした.遠くで,誰かが新選組の名を叫んだように聞こえた.


 池田屋の灯が見えた.


 まだ血は流れていない.

 まだ畳は乾いている.

 まだ人は,自分が死ぬことを知らずに息をしている.


 稔麿はその灯を見上げた.


 後の世は,この夜を池田屋事件と呼ぶだろう.近藤勇の踏み込みを語り,沖田総司の剣を語り,永倉新八の刃を語り,藤堂平助の傷を語るだろう.そして少し遅れて到着した土方歳三の名は,やはり夜を締める名として残るだろう.浅葱の羽織は幾度も描かれ,斬った者の名は幾度も呼ばれるだろう.


 だが,稔麿には関係がなかった.


 彼にあるのは,今この夜だけだった.雨に濡れた京の道と,二階にいるかもしれぬ友と,まだ終わっていない自分の息だけだった.


 稔麿は戸口に手をかけた.


 内側から,人の熱気が漏れてくる.酒の匂い,汗の匂い,焦りの匂い.そして,まだ形を持たぬ死の匂い.


 彼は振り返らなかった.


 帰れ,という声は胸の奥に残っていた.

 それでも足は前へ出た.


 吉田稔麿は,池田屋の夜へ入っていった.

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