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「貴女など不要だ」と捨てられた私ですが、毎夜私を攫う仮面の公爵様の正体が判明した結果、夜明けに溶ける口づけで全てが変わりました

作者: uta
掲載日:2026/04/10

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

第一章 断罪の夜


「——セラフィーナ・エルデヴァイス。貴女との婚約を、本日をもって破棄する」


王太子エドワード殿下の声が、煌びやかなシャンデリアの下に響き渡った。


(ああ、やっぱり)


私は広間の中央で、何百という視線を浴びながら静かに息を吐いた。驚きはなかった。この日が来ることを、私はずっと前から知っていたから。


「殿下、突然のことで……理由をお聞かせ願えますでしょうか」


完璧な角度で膝を折り、完璧な声音で問いかける。五年間、王太子妃候補として叩き込まれた所作は、こんな時でも身体に染みついていた。


(本当は理由なんてどうでもいいんだけどね)


「理由? 理由だと?」


エドワード殿下が、芝居がかった仕草で腕を広げる。金色の巻き毛が燭台の光を受けてきらきらと輝いていた。絵に描いたような王子様。そして、絵に描いたような——愚か者。


「この期に及んでしらばっくれるか! マリアベルに何をした!」


殿下の背後から、すすり泣きが聞こえた。蜂蜜色の髪をした少女が、大粒の涙を頬に伝わせている。


マリアベル・フォン・シュテルン。半年前に現れた「光の聖女」。


(また泣いてる。よくまあ、そんなに涙が出るものね)


「マリアベル様に、私が何かを?」


「とぼけるな! マリアベルの薬を盗み、彼女の奇跡を妨害しようとしただろう!」


……は?


「この国を癒す聖女を害そうとするとは、貴様は国を蝕む毒婦だ!」


(いや、ちょっと待って。意味がわからないんだけど)


私は思わず顔を上げそうになり、寸でのところで堪えた。淑女は感情を顔に出さない。それが私に課せられた鎖。


「身に覚えがございません」


「嘘をつくな! マリアベルが見たのだ! 貴様が夜中に彼女の部屋に忍び込むところを!」


周囲からざわめきが広がる。好奇、軽蔑、そして——歓喜。地味で影の薄い婚約者が断罪される様を、彼らは愉しんでいるのだ。


(昨夜は一晩中、薬草の調合をしていたのだけど)


でも、そんなことを言っても無駄だろう。殿下の目には、涙を流すマリアベルしか映っていない。


「セラフィーナ様は、わたくしが憎いのです……」


マリアベルが、震える声で言った。翡翠の瞳が潤み、頬が桜色に染まっている。完璧な「傷ついた少女」の顔だった。


「殿下のお傍にいるわたくしが……許せないのだと……」


(すごいな、この子。女優になれるんじゃないかしら)


「聞いたか! これでもまだ言い逃れをするつもりか!」


殿下が私を指差す。その指が震えているのは、怒りのせいか、それとも興奮のせいか。


「エルデヴァイス伯爵! 貴殿の娘の不始末、どう申し開きをする!」


私は反射的に父の方を見た。


父は——目を逸らした。


銀灰色の髪。疲れた菫色の瞳。私と同じ色をした、私の父。


その口が開く。


「……殿下の御裁可のままに」


(ああ)


わかっていた。わかっていたはずだ。父にとって私は、家を守るための駒でしかなかったと。でも。


(少しくらい、期待してしまったじゃない)


胸の奥が、きしりと軋んだ。


「よかろう! セラフィーナ・エルデヴァイス、貴様を社交界から追放する! 二度と王宮に近づくことを禁じる!」


歓声が上がった。拍手する者さえいた。


私は深く頭を下げた。震える膝を、誰にも悟られないように。


「——仰せのままに、殿下」


顔を上げた時、マリアベルと目が合った。


泣き濡れた顔の奥で、翡翠の瞳が——笑っていた。


(ああ、そう)


全部、仕組まれていたのだ。最初から。



私は踵を返した。背中に浴びせられる嘲笑を、一身に受けながら。


広間を出て、廊下を抜けて、気がつけば夜の庭園にいた。


月明かりが薔薇園を青白く照らしている。昼間は華やかなこの場所も、夜はまるで墓場のようだ。


(私の居場所は、もうどこにもない)


膝から力が抜けた。冷たい石畳に崩れ落ちる。


涙は出なかった。泣き方を、いつの間にか忘れてしまったから。


「——泣くな」


声がした。


低く、深く、夜に溶けるような声。


顔を上げると、月光の中に人影があった。


銀色の仮面。漆黒の髪。そして——蜂蜜を溶かしたような、深い琥珀色の瞳。


「泣くな」


その人は、もう一度言った。


「貴女の涙は、もったいない」


(……誰?)


問いかける声も出なかった。ただ、その琥珀の瞳に見つめられて、私は動けなくなっていた。


どこかで見た気がする。この色を。この眼差しを。


遠い昔、幼い私が——


「夜が明ける前に」


仮面の人が、手を差し伸べた。


「ここを離れなさい。貴女を害そうとする者が来る」


(……どうして、あなたが私を助けるの)


問いたかった。でも、身体が先に動いていた。


差し出された手を取る。驚くほど温かかった。


その瞬間、庭園の向こうから複数の足音が聞こえてきた。


「こっちだ」


仮面の人に手を引かれ、私は夜の闇へと消えていった。


背後で、誰かが叫ぶ声がした。


「いないぞ! あの女、どこへ行った!」


「探せ! 殿下のご命令だ!」


(やっぱり。殺すつもりだったのね)


婚約破棄だけでは飽き足らず、口封じまで。なんて周到な——なんて、愚かな。


「もう安全だ」


気づけば、私は王宮の外れにある小さな東屋にいた。仮面の人が、私を庇うように立っている。


「……ありがとう、ございます」


ようやく声が出た。掠れて、情けない声だった。


「礼には及ばない」


仮面の奥で、琥珀の瞳が細められる。笑っているのだろうか。


「私は、夜明け前にしか現れない。貴女がこの夜を生き延びたなら——また会える」


「待って」


思わず手を伸ばした。でも、指先は虚空を掴むだけだった。


仮面の人は、影のように消えていた。


後に残されたのは、かすかな薔薇の香りと——手のひらに残る、温もりの記憶だけ。


(夜明け前にしか現れない……?)


意味がわからなかった。何もかもが。


でも、一つだけ確かなことがあった。


あの琥珀の瞳を、私は知っている。


遠い昔、森の中で——傷ついた少年を助けた、あの日。


「……まさか」


呟きは、夜風に溶けて消えた。


東の空が、ほんの少しだけ白み始めていた。



第二章 仮面の紳士


社交界から追放されて、三週間が経った。


「お嬢様、お食事をお持ちしました」


リーゼロッテが、質素な盆を手に部屋へ入ってくる。パンと薄いスープ、それから小さな林檎が一つ。かつての豪華な食事とは比べるべくもない。


「ありがとう、リーゼ」


私は窓辺の椅子から振り返り、微笑んだ。


「……お嬢様」


リーゼロッテの灰色の瞳が、痛ましげに揺れる。


「そのように無理にお笑いにならなくても」


「無理じゃないわ」


(半分くらいは本当よ)


父に勘当され、王都の外れにある古い屋敷に追いやられて。使用人もほとんど去り、残ったのはリーゼロッテただ一人。


でも、不思議と心は穏やかだった。


「もう誰かの期待に応えなくていいと思ったら、少し楽になったの」


「お嬢様……」


「それより、今日の患者さんは?」


話を変えると、リーゼロッテの表情が少し明るくなった。


「三人いらしています。風邪の方がお二人と、火傷の方がお一人」


「わかった。すぐに行くわ」


私は立ち上がり、作業用の上着を羽織った。


社交界を追われた元伯爵令嬢に、できることは限られている。でも、幼い頃から独学で身につけた薬学の知識——それだけは、誰にも奪えなかった。


貧民街の人々の間で、「癒しの令嬢」の噂が広まったのは、ほんの二週間前のこと。



「あの聖女様より、よっぽど効くって評判ですよ」


患者の一人が、そう言って笑った。


「聖女様の祝福を受けても治らなかった傷が、お嬢様の薬で三日で塞がったんですから」


(そりゃそうよ。あの子の『奇跡』は、ただの薬草の効果を聖女の力と偽っているだけだもの)


最初から知っていた。マリアベルの「奇跡」の正体を。でも、誰も信じてくれなかっただろう。地味で影の薄い婚約者の言葉など。


「ありがとうございます、お嬢様」


火傷の患者——まだ幼い少女が、包帯を巻いた腕を大事そうに抱えて頭を下げた。


「痛くなくなりました」


「よかった。三日後にまた見せてね」


少女が母親に手を引かれて去っていく。その小さな背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。


(こういう生き方も、悪くない)


誰かに必要とされること。誰かの役に立てること。それがこんなにも——温かいなんて。


王太子妃候補として過ごした五年間、私は一度もこんな気持ちになったことがなかった。



日が暮れて、リーゼロッテが就寝の挨拶をして去った後。


私は窓辺に佇んでいた。月が昇り、星が瞬き始める。あの夜から、私は夜空を眺める癖がついていた。


(また、会えるかしら)


あの仮面の人。夜明け前にしか現れないと言った、琥珀の瞳の——


「待っていたのか」


声がした。


振り返ると、窓枠に腰掛けた人影があった。銀色の仮面。漆黒の髪。月光を受けて、琥珀の瞳が金色に輝いている。


「あなた——!」


「驚かせたな」


仮面の人が、軽やかに部屋へ降り立つ。


「窓に鍵をかけていなかった。不用心だ」


「……あなたが来ると思ったからよ」


我ながら大胆な言葉だった。でも、不思議と恐怖はなかった。


あの夜、この人は私を助けてくれた。殺されかけていた私を。


「名前を聞いてもいいかしら」


「名乗れない」


即答だった。


「知れば、貴女に危険が及ぶ」


「じゃあ、何と呼べばいいの」


「……好きに呼べばいい」


仮面の奥で、かすかに笑みが浮かんだ気がした。


「私も、貴女を呼ぶ名を持たない。『夜明け前の貴婦人』とでも呼ぼうか」


(なにそれ。詩人みたいなことを言うのね)


「じゃあ私は、あなたを『仮面の紳士』と呼ぶわ」


「紳士か。光栄だな」


仮面の紳士は、窓辺の椅子に腰を下ろした。まるで自分の部屋にいるかのように自然な仕草で。


「貴女の噂を聞いた」


「噂?」


「『癒しの令嬢』。貧民街で評判だそうだな」


「……耳が早いのね」


「私の耳は、貴女に関することだけは特別に早い」


どきりとした。仮面の奥の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「どうして」


「それは——」


仮面の紳士が、言葉を切った。窓の外を見る。東の空が、ほんの少し白み始めていた。


「夜が明ける」


立ち上がる仮面の紳士。私は思わず手を伸ばした。


「待って。まだ話したいことが——」


「また来る」


私の手を取り、仮面の紳士がその甲に唇を落とした。


かすかな温もり。薔薇の香り。


「夜明けに溶けるまでの、束の間の夢だ」


「夢って——」


「貴女と過ごす時間は、私にとって夢のようなものだから」


仮面の紳士は、窓枠に手をかけた。


「だが、夜明けが来れば夢は終わる。私は、光の下には立てない」


「どういう意味——」


でも、問いかけは届かなかった。


仮面の紳士は、影のように夜へ消えていった。


後に残されたのは、手の甲に残る唇の感触と、胸の奥で燻る疑問だけ。


(光の下には立てない……?)


東の空が、茜色に染まり始めていた。



それから、仮面の紳士は毎夜のように現れた。


「今日は何を調合していた」


「熱冷ましの薬よ。貧民街で風邪が流行っているの」


「成分は」


「柳の樹皮と、蜂蜜と、それから——って、あなた詳しいのね」


「多少は」


仮面の紳士は、驚くほど博識だった。薬学だけでなく、歴史、文学、天文学——あらゆる分野に精通している。


「あなた、何者なの」


「夜明け前にしか現れない、ただの夢だ」


「夢は、こんなに知識を持たないわ」


「そうだな」


仮面の奥で、笑みが浮かぶ。最近は、仮面越しでも彼の表情がわかるようになっていた。


「貴女は聡明だ。私が最も——惹かれる部分だ」


また、心臓が跳ねた。


「……お世辞を言っても、何も出ないわよ」


「世辞ではない」


仮面の紳士が、私の手を取る。


「貴女の価値を理解しないあの王子は、愚か者だ」


「……」


「貴女は光だ。闘の中でこそ輝く、本物の光」


東の空が白み始める。いつものように、仮面の紳士が立ち上がる。いつものように、私の手に口づけを落とす。


でも、今日は——違った。


仮面の紳士が、私の顔を両手で包んだ。


「——え」


唇が、額に触れた。


柔らかく、温かく、まるで祈りのように。


「また、夜に」


そう言って、彼は消えていった。


私は、燃えるように熱い額を押さえて、しばらく動けなかった。


(なんなの。なんなのよ、あの人は)


心臓がうるさい。頬が熱い。息が苦しい。


こんな気持ちになるのは、生まれて初めてだった。


エドワード殿下の婚約者だった五年間、一度も——一度も、こんな気持ちにはならなかった。


(私、もしかして——)


窓の外で、朝日が昇り始めていた。


「夜明けに溶ける、か」


呟いて、私は目を閉じた。


溶けてしまうなら、このまま夜が明けなければいいのに。


そんな愚かなことを、初めて思った。



第三章 溶ける仮面


疫病が、王都を襲ったのは初秋のことだった。


「お嬢様、また患者が増えています」


リーゼロッテが、青ざめた顔で報告する。


「王都だけで、もう三百人を超えたそうです」


「聖女様の祝福は」


「……効いていないようです」


(やっぱり)


マリアベルの「奇跡」は、普通の病には効果があった。薬草の力だから当然だ。でも、この疫病は違う。特別な調合が必要な、厄介な病だった。


「私に、できることがあるかもしれない」


「お嬢様?」


「昔、文献で読んだことがあるの。この症状に効く薬の調合法を」


私は立ち上がった。


「材料を集めて。できる限り早く」



三日三晩、私は薬を作り続けた。


仮面の紳士は、毎夜現れて手伝ってくれた。彼の知識は、私の調合をより精密なものにしていった。


「ここに、この薬草を加えれば効果が増す」


「……本当ね。どうしてそんなことを知っているの」


「我が国では、百年前に同じ疫病が流行った。その時の記録が残っている」


(我が国——?)


問いかけようとした時、仮面の紳士が窓の外を見た。


「夜明けだ」


「待って。あなた、どこの——」


「薬が完成したら、王宮に届けろ。貴女の名誉を回復する機会だ」


「でも——」


「信じろ」


仮面の紳士が、私の手を握った。


「私は、貴女の味方だ。いつまでも」


そう言って、彼は消えていった。



薬は、劇的な効果を示した。


投与された患者は、次々と回復していった。王都中に、「追放された令嬢の薬が疫病を救った」という噂が広まった。


「セラフィーナ・エルデヴァイスを、宮廷に召喚する」


王からの勅命が届いたのは、疫病が終息に向かい始めた頃だった。


「お嬢様、どうなさいますか」


リーゼロッテが、心配そうに問う。


「行くわ」


私は微笑んだ。


「逃げる理由なんてないもの。私は、何も悪いことをしていないのだから」



王宮の大広間は、あの断罪の夜と同じように、大勢の貴族で溢れていた。


でも、雰囲気は全く違っていた。


「あの方が、王国を救った令嬢……」


「なんて美しい……」


ささやき声が、私を包む。かつての嘲笑ではなく、畏敬の——そして、罪悪感を含んだ声。


「セラフィーナ・エルデヴァイス嬢」


玉座に座る国王が、私を見下ろした。


「そなたの功績、真に見事である。王国を救った恩人として、改めて称えよう」


「もったいないお言葉です、陛下」


私は深く頭を下げた。


「ところで——」


国王が、傍らに立つエドワード殿下を見た。


「我が息子が、そなたに謝罪したいと申しておる」


エドワード殿下が、一歩前に出た。金色の髪は乱れ、青い瞳は充血している。以前の傲慢な輝きは、どこにもなかった。


「セラフィーナ」


「殿下」


「私は——間違っていた」


殿下が、膝をついた。大広間に、驚きのざわめきが広がる。


「マリアベルに騙されていた。彼女の『奇跡』は偽りで、彼女が——貴女を陥れたのだ」


「……そうですか」


「許してくれ。もう一度、やり直させてくれ。婚約を——」


「お断りします」


私の言葉に、殿下が顔を上げた。


「なぜだ」


「殿下は、私の何を知っていますか」


「——」


「私の好きな花は? 好きな本は? 得意なことは? 夢は?」


殿下は、答えられなかった。


「五年間、婚約者でありながら、殿下は私を見てすらいなかった。『地味で退屈な婚約者』——そう思っていたのでしょう?」


「それは——」


「私はもう、誰かの期待に応えるために生きるのはやめたのです」


私は、穏やかに微笑んだ。


「殿下のお傍には、もっとふさわしい方がいらっしゃるでしょう。どうぞお幸せに」


踵を返そうとした、その時——


「待て」


広間の扉が開いた。


現れたのは、漆黒の髪と、深い琥珀の瞳を持つ青年だった。


堂々とした足取り。冷たくも気高い雰囲気。まるで氷の彫像のような美貌。


そして——


(その、瞳——)


私は、息を呑んだ。


蜂蜜を溶かしたような、深い琥珀色。夜ごと私を訪れる、あの仮面の紳士と——同じ色。


「ヴァルトシュタイン公爵……!」


国王が、驚きに目を見開いた。


「隣国からの訪問とは聞いていたが、これほど早く……」


「失礼を承知で参りました、陛下」


青年が——レオンハルト・ヴァルトシュタイン公爵が、一礼した。


「どうしても、会いたい方がいたものですから」


その琥珀の瞳が、私を捉えた。


(まさか。まさか——)


「十年探した」


公爵が、私の前に立った。その口元が、かすかに——でも確かに、微笑んでいた。


「やっと見つけた、私の光」


「あなた——」


「覚えているか。森で迷った、幼い日のことを」


記憶が、蘇った。


十年前。森で迷った私は、傷ついた少年を見つけた。血を流し、意識を失いかけていた異国の少年を。


私は必死に傷を手当てし、大人を呼びに行った。少年が運ばれていく時、彼は私の手を握り、かすれた声で言った。


『名前を。君の名前を——』


でも、私は答えられなかった。人見知りで、声が出なかったから。


「ずっと探していた」


公爵が、私の前に跪いた。


広間に、悲鳴に近いざわめきが広がる。隣国の最高権力者が、追放された令嬢の前で膝をついている——


「あの日、貴女に命を救われた。それから十年、貴女を探し続けた」


「じゃあ、夜会での——」


「ああ。断罪の夜、貴女を見つけた。そして——夜ごと貴女の元を訪れた」


(やっぱり。やっぱり、あなただったのね)


「どうして、名乗ってくれなかったの」


「私の正体が知れれば、貴女に危険が及んだ。王太子は、私を最も恐れているからな」


公爵が、エドワード殿下を一瞥した。殿下は、蒼白な顔で立ち尽くしていた。


「だが、もう隠す必要はない」


公爵が、私の手を取った。


「セラフィーナ・エルデヴァイス。私の妻になってほしい」


時が、止まった——ように感じた。


広間が静まり返る。国王も、貴族たちも、呆然と私たちを見つめている。


「今度は私が、貴女を迎えに来た」


琥珀の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。夜ごと訪れてくれた、あの温かな眼差しのままで。


「夜明けに溶ける夢ではなく、光の下で貴女と歩みたい。永遠に」


(ああ)


涙が、頬を伝った。泣き方を忘れていたはずなのに。


「……夢は、もう溶けないの?」


「溶けない。約束する」


公爵が——レオンハルトが、微笑んだ。仮面の下で見た、あの穏やかな笑みと同じ笑顔で。


「はい」


私は、彼の手を握り返した。


「私も——あなたと歩みたい」


広間に、歓声が上がった。


拍手が、波のように広がっていく。


その中で、エドワード殿下だけが、絶望に染まった顔で立ち尽くしていた。


(さようなら、殿下)


私は、もう振り返らなかった。



第四章 夜明けの誓い


「セラフィーナ」


輿入れの前夜、エドワード殿下が私の元を訪れた。


「……殿下。このような夜更けに、何のご用でしょうか」


「もう一度だけ、話を聞いてくれ」


殿下の顔は、以前の傲慢さが嘘のように憔悴していた。青い瞳は潤み、金色の髪は乱れている。


「私は愚かだった。貴女の価値がわからなかった」


「……」


「マリアベルに騙されていたんだ。彼女が——彼女が全て悪いんだ」


(ああ、やっぱり)


私は小さくため息をついた。


(この人は、最後まで——何もわかっていない)


「殿下」


私は、穏やかに微笑んだ。


「マリアベル様が悪いのではありません」


「何——」


「殿下が、ご自分で判断なさらなかったことが問題なのです」


殿下が、言葉を失った。


「マリアベル様の言葉だけを信じ、私の言葉には耳を貸さなかった。真実を確かめようともせず、公衆の面前で断罪した。それは全て、殿下ご自身の選択です」


「だが——」


「私を殺そうとなさったのも、マリアベル様の入れ知恵ですか」


殿下が、凍りついた。


「あの夜、庭園で。追手を差し向けたのは殿下でしょう」


「それは——」


「もういいのです、殿下」


私は、一歩退いた。


「私はもう、殿下を恨んでいません。ただ——もう、関わりたくないだけです」


「セラフィーナ——」


「さようなら、殿下。どうぞお幸せに」


私は扉を開け、廊下で待っていた護衛に目配せした。


「王太子殿下がお帰りです。お見送りして差し上げて」


殿下は、護衛に促されるまま、力なく去っていった。


その背中を見送りながら、私は何も感じなかった。


憎しみも、怒りも、悲しみも——もう、何も。


「お嬢様」


リーゼロッテが、心配そうに駆け寄ってきた。


「大丈夫です」


私は微笑んだ。今度は、本当の笑顔で。


「もう、夜明けを恐れなくていいのですから」



輿入れの朝は、雲一つない快晴だった。


白銀のドレスに身を包んだ私は、屋敷の前で待つ馬車に向かって歩いていた。


「セラフィーナ」


声に振り返ると、レオンハルトが立っていた。


漆黒の正装。深い琥珀の瞳。そして——仮面を、つけていない。


「おはよう」


彼が、微笑んだ。


朝日を受けて、その顔が輝いている。夜しか見たことのなかった彼の顔が、光の中でこんなにも——美しいなんて。


「おはよう、ございます」


私は、少し照れながら答えた。


「なぜ、ここに? 馬車で待っているのではなかったのですか」


「どうしても、ここで伝えたかった」


レオンハルトが、私の前に立った。


「もう、夜明けに溶けたりしない」


その手が、私の頬に触れる。


「永遠に、貴女の傍にいる」


唇が、重なった。


朝日の中で。光の下で。


夜ごと交わした額への口づけとは違う、本当の——約束のキス。


「っ——」


長い長いキスの後、私は息を切らせながら彼を見上げた。


「……朝から、破廉恥です」


「夜明け前には、もっと破廉恥だったが」


「——っ!」


「冗談だ」


レオンハルトが、声を上げて笑った。初めて聞く、彼の笑い声だった。


「貴女の顔が赤くなるのを見るのが好きなんだ」


「……性格、悪いですね」


「ああ、知っている」


彼が、私の手を取った。


「さあ、行こう。私の国——いや、私たちの国へ」


「はい」


私は、彼の手を握り返した。


馬車に乗り込む直前、振り返ると、見送りの人々の中に——父の姿があった。


銀灰色の髪。疲れた菫色の瞳。私と同じ色をした、私の——元の家族。


「セラフィーナ」


父が、一歩前に出た。


「私は——すまなかった。あの時、お前を守れなかった。許してくれとは——言えない。だが——」


「お父様」


私は、穏やかに微笑んだ。


「私は、もう恨んでいません。ただ——もう、家族ではありません」


父が、顔を歪めた。


「でも」


私は続けた。


「いつか——本当に私を娘として見てくださる日が来たら。その時は、また話しましょう」


父は、何も言えずに立ち尽くしていた。


私は馬車に乗り込み、レオンハルトの隣に座った。


「よかったのか」


「ええ」


私は、彼の肩に頭を預けた。


「私は、もう誰かの期待に応えるために生きるのをやめました。でも——誰かを許さないまま生きるのも、やめたいと思ったのです」


「貴女は、強いな」


「あなたが、強くしてくれたのです」


レオンハルトが、私の髪を撫でた。


「夜明けが来ても消えないと、教えてくれたから」


馬車が、動き出した。


窓の外で、王都の景色が流れていく。かつて私を断罪した王宮。私を追放した社交界。私を見捨てた——かつての居場所。


でも、もう振り返らない。


私の前には、新しい朝が——新しい人生が、待っているのだから。



馬車が王都を出る頃、後ろから叫び声が聞こえた。


「偽聖女だ! マリアベルは偽物だった!」


「王太子殿下が、偽聖女に騙されていた!」


「王家の恥だ!」


レオンハルトが、窓の外を見た。


「予定通りだな」


「……予定?」


「マリアベルの『奇跡』の正体を暴く証拠を、しかるべき場所に届けておいた」


私は、目を丸くした。


「いつの間に——」


「貴女が薬を作っている間に。クラウスが頑張ってくれた」


「殿下」


御者台から、銀髪の青年——クラウスが顔を出した。


「頑張ったのは私ですので、何かご褒美をいただきたいのですが」


「考えておく」


「考えておく、ではなく、確約をいただきたいのですが」


「黙って馬車を走らせろ」


「……承知しました」


クラウスが、やれやれという顔で引っ込んだ。


私は、思わず笑ってしまった。


「仲がいいのですね」


「腐れ縁だ」


「それにしても——マリアベル様のこと、調べてくださっていたのですか」


「当然だ。貴女を陥れた者を、放っておくわけがない」


レオンハルトが、私の手を握った。


「貴女の敵は、私の敵だ。これから先、ずっと」


「……ありがとうございます」


私は、彼の手を握り返した。


窓の外で、朝日が高く昇っていく。


夜明けは、もう怖くない。


この人が、私の傍にいてくれるから。



馬車が国境を越える頃、リーゼロッテが報告をくれた。


「お嬢様、王都から知らせが届きました」


「何かしら」


「マリアベル様が、社交界から追放されたそうです。偽聖女として、修道院に送られるとか」


「……そう」


「それから——王太子殿下は、廃嫡の危機だそうです。偽聖女に騙されて国の令嬢を冤罪で追放した責任を問われて」


私は、何も言わなかった。


ただ、レオンハルトの手を、少しだけ強く握った。


「後悔しているか」


「いいえ」


私は、微笑んだ。


「自業自得です。あの方々は、自分で自分の運命を選んだのですから」


「そうだな」


レオンハルトが、私の額にキスを落とした。


「だが、もう考えなくていい。あいつらのことは」


「ええ」


私は、窓の外を見た。


見たことのない景色が、広がっている。緑の丘。青い空。遠くに見える、白亜の城。


「あれが——」


「私たちの家だ」


「家——」


「貴女と私の。そして、いつか——私たちの子供たちの」


「っ——!」


顔が、一気に熱くなった。


「ま、まだ結婚もしていないのに——」


「すぐにするさ」


「——っっっ!!」


レオンハルトが、声を上げて笑った。


「だから言っただろう。貴女の顔が赤くなるのを見るのが好きだと」


「……本当に、性格悪いですね」


「ああ、知っている」


彼が、私を抱き寄せた。


「でも、そんな私を——愛してくれるだろう?」


私は、彼の胸に顔を埋めた。


「……考えておきます」


「さっきの仕返しか」


「ええ」


「意地悪だな」


「あなたほどでは」


レオンハルトが、また笑った。


私も、笑った。


馬車の中に、二人の笑い声が響く。


窓の外では、朝日が高く昇り——私たちの新しい人生を、祝福するように輝いていた。



こうして、私——セラフィーナ・エルデヴァイスは、新しい人生を歩み始めた。


婚約破棄された令嬢は、夜明けの口づけで真実の愛を知り——


二度と、夜明けを恐れることはなくなった。



——完——

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