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1-1 入社式の朝

第1章 昭和100年の世界にようこそ!

2026年4月 第一週水曜日


朝8時17分。


東武野田線の車窓に、桜が流れていた。


相田亮介(24)は、ネクタイの結び目を何度も触っていた。


鏡がないから確認できない。

窓に映る自分の顔は、電車の振動でぶれて使い物にならない。


結び目がまっすぐかどうか。ただ、それだけが気になっていた。


新しいスーツは、まだ身体に馴染んでいない。

腕を上げると脇が引っ張られる。


ポケットにはハンカチとティッシュ、それから昨夜母親が持たせてくれた5円玉。


「ご縁がありますように」


恥ずかしかったが、捨てられなかった。


入社式は本社の4階、会議室。


電車を降りてから徒歩12分。途中にコンビニが1つと、小さな公園がある。


相田は公園の前で足を止めた。


桜は満開を過ぎて、花びらが歩道に薄いピンクの絨毯を作っていた。


踏みたくなかった。


理由は分からない。


初日から靴の裏を汚したくないという気持ちもあったし、きれいなものを踏むのがなんとなく嫌だという感覚もあった。


とにかく、僕は花びらをよけながら歩いた。


会社のビルは4階建て。築30年以上。外壁のタイルが数枚剥がれかけている。


正面玄関の自動ドアは、反応が遅い。一拍待ってから、ゆっくりと開く。


「おはようございます。入社式の方ですか?」




受付に立っていた総務部の女性社員に案内されて、エレベーターに乗った。


4階

大会議室


パイプ椅子が50脚ほど並べられている。


新入社員は7名。相田は3番目に着いた。


一番前の右端に座った。パイプ椅子の座面が硬い。


スーツの背中が椅子の背もたれに当たると、まだ折り目が立っている生地がカサカサと音を立てた。


5番目に入ってきたのが、眼鏡の男だった。


やせ型。髪は短く、ワックスはつけていない。スーツは新品だが、着方に気負いがない。

ネクタイの結び目は一発で決めたように、きちんとしている。


相田の隣の席に座った。会釈もなく。


目が合った。相田は反射的に「よろしくお願いします」と小声で言った。


眼鏡の男は、軽く頭を下げた。

それだけだった。


笑わなかった。正確に言えば、この場で笑顔を作ることに意味を見出していないような目をしていた。


8時55分

総務部長が壇上に立ち、式の開始を告げた。


「本日は、入社誠におめでとうございます。これより、令和8年度入社式を執り行います」


国旗と社旗が壇上の左右に立てられている。


社旗の色は臙脂。相田は、社旗というものを実物で見るのは初めてだった。


「社長より、訓示がございます」


壇上に上がったのは、白髪の男だった。


社長。68歳。二代目。


創業者である父親から会社を引き継いで、もう20年以上になる。

背は低いが、背筋は伸びている。


灰色のスーツ。

ネクタイはえんじ色。

社旗と同じ色。


「本日、諸君を迎えることができ、大変嬉しく思います」


声は、かすれていた。しかし、マイクを通さなくても聞こえる程度の声量はある。


「我が社は、昭和51年に私の父が創業いたしました。今年で50年。半世紀にわたり、製造業のお客様に部品と資材を供給し続けてまいりました。バブルの崩壊も、リーマンショックも、東日本大震災も、コロナ禍も、一度も赤字を出すことなく乗り越えてまいりました」


相田はメモを取ろうとしたが、手元にペンがなかった。


カバンの中だ。今さら出すのは目立つ。


「それは、諸先輩方が築いてきた『信頼』のおかげであります。信頼は、一朝一夕には築けません。毎日の挨拶、毎日の訪問、毎日の報告。その積み重ねが、信頼になる。お客様は、商品を買っているのではありません。人を買っているのです」


社長は、そこで一度、咳をした。


「私からは、一つだけお願いがあります。変わらないでください」


相田は、その言葉を聞いた。


「世の中は変わります。技術も変わります。しかし、人と人との信頼は変わりません。我が社が50年間やってきたことは、お客様の顔を見て、声を聞いて、困りごとを解決することです。それだけです。それだけを、続けてください」


社長が壇上を降りた。

拍手が起きた。

相田も拍手した。


「変わらないでください」


その言葉は、相田の胸に素直に響いた。

50年間、赤字なし。

それだけで、この会社には揺るぎないものがあると思えた。


隣の眼鏡の男は、手を合わせていた。

しかし音は出ていなかった。




9時30分。配属発表。


「相田亮介くん。営業部」


「はい」


相田は立ち上がった。声が少し裏返った。


「田中慧くん。総務部。社内システム管理兼任」


隣の眼鏡の男が立った。


田中慧


声は小さいが、一音一音がはっきりしている。

滑舌がいい。


(田中くん、か。同期だ)


他の5人は、製造部2名、品質管理部2名、経理部1名。


配属先を告げられた後、各部署の部長や課長が迎えに来た。


「おう。営業部の新人はどこだ」


声が大きかった。会議室の空気が一瞬、張り詰めた。


権藤課長。60歳。身長180cm超。体重はおそらく90kg近い。


灰色のスーツの肩が悲鳴を上げている。


「相田くんか。いい面構えだ。こっちに来い」


僕は立ち上がった。


権藤課長の近くに行くだけで、何かの力場に入り込むような感覚がある。

声の圧、手の厚み、肩幅、存在感。空間を占有する力が強い。


「営業部は3階だ。行くぞ」


権藤課長は振り返りもせずに歩き始めた。


廊下。階段。3階へ。


その途中で、ちらりと振り返った。


田中慧はまだ4階の会議室にいた。

総務部長が何かを説明している。

田中はメモも取らず、ただ聞いていた。


(同期か。これから一緒に頑張ることになるんだろうな)


相田はそう思った。


田中は、相田のことを見ていなかった。

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