疲れたので、降りました【後日談・アデル視点】
アデルが書斎から居間へ戻ると、ソファの上でリュシエンヌが寝落ちていた。
机の上に、飲みかけの紅茶と開きっぱなしの本。
――また、ここで寝ている。
アデルは音を立てないように近づき、そっと抱き上げた。
相変わらず、驚くほど軽い。
静かな足取りで、寝室に向かった。
――最初に会った時は、美人で真面目だな、くらいにしか思わなかった。
王太子の周りは、いつだって忙しかった。
仕事は増えるばかりで、誰かが当たり前みたいに彼女へ押しつける。
なんで、ここまでやるんだ。
貧乏くじを引いているのは、こっちじゃなくて――彼女だ。
平民上がりの自分には、余計にそれが目についた。
押しつけられる側の理不尽が、よく分かる。
ある日、ふと口にした疑問に、
彼女は淡々と答えた。
「家のためよ。……それと、自分のため」
彼女は、ただ耐えているわけじゃない。
選んで立っている。
その瞬間、見る目が変わった。
それでも、自分は支えるだけだ。
相手は王太子の婚約者、俺は――男爵になったとはいえ、平民上がりだ。
線を引くのは、当然だった。
婚約破棄の話を聞いた時、
最初に浮かんだのは心配だった。
次に、遅れてきた安堵。
……あんな男と、別れてよかった。
項垂れる彼女を見て、胸が痛んだ。
声をかけたかった。
けれど、出来なかった。
身分が違う。立場も違う。
俺が近づけば、彼女をもっと縛る。
夜会で久しぶりに会った時、
無事だったことに、ほっとした。
同時に――思ってしまった。
……綺麗だ。
心配してくれたことが、嬉しかった。
戻ってきてほしい、とも思った。
でも言えなかった。
きっと、この人は誰かに嫁いでいく。
――それが、普通だ。
だからこそ、あの場で殿下が言った言葉は、
どうしても許せなかった。彼女に対する、明確な侮辱だった。
平民上がりの男に、
彼女の人生を押し込めようとするなど。
そして何より怖かった。
彼女が、これ以上傷つくことが。
――その時、彼女が言った。
「……お受けします」
ざわめきの中で、俺の心臓が止まった。
「ただし、わたくしが、嫁ぎます」
驚き、戸惑った。
喜びより先に、恐れが来た。
……俺で、いいのか。
あなたの人生を、受け止められるのか?
「……本気ですか」
「本気よ。……あなたは、嫌?」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
嬉しかった。
信じられないほど、嬉しかった。
だから、答えは一つしかなかった。
「……あなたが望むなら」
――そして今。
寝息は静かで、昔のような張りつめた影はない。
アデルは寝室のベッドへ彼女を下ろし、掛け布を整えた。
起こさないように、そっと頬に触れる。
指先に伝わるぬくもりが、まだ少しだけ怖い。
「……ここが、俺の居場所だ」
彼は小さく息を吐き、灯りを落とした。
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