感情降水帯
水面から差し込む光
君の淡い赤髪は
眩く漂い揺れる
僕は美しいと思った
空気の無いこの世界で
二人は何処までも沈んでいく
「おい、また線上降水帯だってさ。夕方から本格的に降るらしい。道路が水没するかもしれないな。帰り気をつけろよ。あまりひどい様なら無理に帰ろうとするな。マンホールの蓋が無かったり、水路に気がつかないで落ちたりする人もいるみたいだから」
「はいはい、親父も気をつけてね」
今年は六月に入るや猛暑日が続いた。梅雨は熱波で吹き飛び、年々加速する温暖化は降水量の記録を更新し続ける。
「ねえ、聞いてる颯太?」
「ん? ごめん、何だっけ?」
「ほら、やっぱり聞いてないんだから。この前の神社。あの時、何をお願いしたのって聞いたの」
「ああ、あれか……忘れちゃったな。何だったっけな」
「あのさ、私は君とずっと一緒にいられるようにってお願いしたんだよ? 何だっけなって何なのよ」
「ごめん、あまりそう言うの信じない方だから」
「まったく……何でも良いから今度からはちゃんとお願いしなよ」
桃香とは同じ音楽サークルで知り合った。初対面の時から何となく話しやすく、気が付くと付き合っていた。鍵盤を担当する桃香はその真面目な性格もありコンマスを務めている。
「それで、今日はこの後どうしよっか? 悠木達は飲みに行くって言ってたよ。合流しても良いし、二人だけでも良いけど」
駅前の居酒屋にいる悠木達と合流する為に学校を出ると、ポツポツと雨が降り始めた。傘をさすと桃香が体を密着させて来た。
「傘あるだろ? 歩き辛いよ」
「また昨日もいたの。電柱の陰から部屋を覗いてた」
「また? 顔は見たの?」
「ううん。暗くて分からなかった。でも女の人だと思う。赤く染めた長い髪が見えたの」
桃香からストーカー被害にあっていると相談を受けたのは一昨日だった。先月辺りから何者かの視線を感じる様になったという。最初は気のせいだと思っていたが、次第に頻度を増し最近では物陰から見つめる人影も見るようになった。
「一度警察に相談した方が良いかもね。何かあってからじゃ遅いから」
「動いてくれるかな? 物理的な被害は無いし、ただ見られている気がするっていうだけだから」
「分からない。でも、今度一緒に行ってみよう」
「ありがとう」
「だから歩き辛いって」
居酒屋のある雑居ビルに着くと、雨脚が強まり水滴が打ち付ける様に降り始めた。横殴りに飛沫をあげる雨はエレベーターホールにまで吹き込む。あと数分遅ければずぶ濡れになっていた事だろう。
「おっ! 颯太、コーンバター頼んでおいたぞ」
悠木達は二階にあるチェーン店の個室にいた。十人以上が座る部屋の隅には空のジョッキが並んでいる。席に着くやビールが運ばれて来た。
「それじゃ改めて、カンパーイ!」
悠木は既に五杯以上は飲んでいそうだ。坊主頭が朱色に染まっている。
「なあ桃香、今度の曲はやっぱりもう少しテンポ速くやりたいんだよな」
「またそれ? ドラムは気持ち良いかもしれないけど、コーラス聴かせるなら今のテンポがベストなの」
所属する音楽サークルの定期コンサートが近いので、今は楽曲の最終的な詰めを行っている。管楽器やコーラス隊も擁するバンド形態でアシッドジャズやR&Bを演奏するサークルは、ロック一辺倒の軽音部やジャズ研からは斜に構えていると言われている。
ドラムの悠木は事あるごとにコンマスの桃香に意見する。後から聞いたのだが、入部当初から桃香に好意を抱いていたらしい。そんな事を知らずに俺が桃香と付き合っている事を告げると、「許す」と一言だけ返された。高校時代はヘビメタ一筋で肩まで伸ばした髪を振り回していたが、大学に入ると心機一転、洗練された音に目覚めたらしい。
「颯太、お疲れ」
幼馴染の槇田遣都が隣に座る。楽器未経験の俺をこのサークルに誘ったのも遣都だ。俺達は瀬戸内海の小さな島で育った。俺は父親の仕事の関係で中学までをその島で過ごし、遣都は大学進学と共に上京した。同じ大学に入ったのは全くの偶然だった。
「昨日久々にお袋と電話したんだけどさ、比嘉のお母さん、亡くなったんだって。親父さん一人ぼっちになっちゃうから可哀想だって言ってたよ」
「比嘉って、サチのお母さんか?」
「そうだよ。ああ……お前ら、仲良かったもんな」
比嘉サチ。その名前を思い出すのはいつ以来だろうか。六歳の時に引越し、島に一つだけの小学校で出会ったのがサチだった。淡い赤色の髪は何処にいても目立った。一目見て「これは不良だ」と思った。生徒の少ない校内で接触を避けるように過ごしていたある日の帰り、サチは目の前に現れた。
「何で避けっりょる!」
不良を怒らせた。これは厄介な事になったなと思い言い訳を考えていると突然手を引っ張られた。
「泳ぎに行こうよ!」
それが俺とサチとの島での時間の始まりだった。
サチは泳ぎが上手かった。漁師の家に生まれたサチは幼い頃から海が遊び場だった。
俺は泳ぎをサチに教わった。まるで人魚みたいな彼女は色々な種類の泳ぎ方を身につけていた。何とかクロールを覚えると沖の方まで二人で泳いだ。
人間社会から切り離された海中の世界が二人の遊び場だった。色彩豊かな海の生き物達は親しい友達となった。
ある日、沖で立ち泳ぎをしているとふいにサチが聞いてきた。
「東京って、どんなところ?」
「うーん……狭い。後、泳げない」
「なんだ、つまんないところだね」
中学に入っても、二人の遊泳は続いた。その頃には俺も相当泳ぎが上達していた。
ある日の夜、こっそりと二人で海に行った。夜の海に入る事は禁止されていた。
水面に浮かび星空を見る。
そこにはこの世の全てがあった。
海と月と星空だけの世界に二人はいた。
サチの赤い髪が頬に触れた。
彼女は目を瞑っていた。
美しいと思った。
二年生になった夏休みのある日、東京から父親の妹一家が遊びに来た。俺の従兄弟に当たる六歳の女の子もいた。
海辺で遊んでいると、その女の子がいない事に気がついた。沖の方に子供用の浮輪が流されていた。そこは島の誰もが決して近付かない流れの急なエリアだった。シャツを脱ぎ捨て咄嗟に飛び込もうとした。
「行っちゃいかんっ! 直ぐに船を出すから待っとれ」
一緒に来ていたサチの父親が船を取りに走り出した。その時、目の前を赤い影が横切った。サチが海に飛び込み一直線に浮輪を目指し泳ぐ。その姿は見る見る岸から遠ざかり、浮輪の手前で消えた。
それがサチを見た最後だった。その後の事は余り覚えていない。俺は中学を卒業し、東京の高校で友人も作らず淡々と三年間を過ごした。あの日以来、一度も泳いでいない。
「ねえ、また二人で地元の話?」
悠木の相手をする事に辟易した桃香が話に加わる。
「いや、何だか女の話をしてたぞ。颯太と仲が良かったとか何とか」
「えー?! なにそれ? 初めて聞くんだけど」
「いや、そんなんじゃないよ。それにその子はもう生きていないし」
「あ……そうなんだ。何だかすまん」
「それより悠木、お前バイト先の子に告白するとか言ってたけど、どうなったんだ?」
「おおおっ! よくぞ聞いてくれた颯太! それがだな————」
だが、悠木の話は耳に入っていなかった。ふいに浮かんだある可能性が頭の中で膨らんでいく。桃香が見た髪の赤い女性。サチの髪も赤かった。そして、サチの遺体は見つかっていない。馬鹿げた話だ。下らない妄想を頭から追いやり、残ったビールを一気に呷った。
その後も二時間近く飲み続け、全員かなり酔いが回っていた。
「おい、避難警報出てるぞ。警戒レベル4だって。河川氾濫の可能性ありだとよ」
「おいマジか? 帰れねーじゃん」
「朝まで飲みゃいーだろーう」
スマホを見ると様々なアプリが大雨に関する情報を発信していた。窓から外を見ると先程歩いた道路が川になっていた。悪戦苦闘しながら家路を目指し川を横断する人々が見える。
「ヤバくない? 帰れないじゃん」
桃香も窓を覗き込む。
「申し訳ございません、お客様。大雨による警戒情報が出ていて、本部の指示により本日の営業時間が変更となりました。只今の時間でラストオーダーとさせて頂きます」
「えー、それは困るよ!」
「この雨の中を帰れって言うのか?」
悠木達の不満声が一斉にあがる。
「そう言ってもしょうがないだろ。交通機関が麻痺する前に帰った方が良いよ」
「おい颯太、んな事を言ってもよ……」
「はいっ! お開きお開きー。皆んな、店員さんも困っているからお店出よう?」
店を出ると散り散りに解散となった。横殴りの雨に傘をさす気もせず、桃香と身を寄せ合い慎重に歩く。
道路は膝丈まで水に浸かっていた。タクシーは捕まりそうもない。駅に程近い桃香の部屋まで何とか歩く事にした。
何とかアパートに辿り着き、足元に気をつけて階段を上る。桃香の部屋は二階の一番奥にある。
部屋の鍵を取り出している間も雨は容赦無く横から降りつけた。通りは闇に包まれ黒く波打つ。その時、電柱の陰に何か動くものが見えた。目を凝らすが降り付ける雨が視界を奪う。気のせいかと思いかけた時、水没した道路を一台の車が横切った。ヘッドライトが電柱を一瞬照らす。電柱の裏に隠れる様に立つ人影があった。そしてそれは、ずぶ濡れの赤い髪を垂らしていた。
無意識に走り出す。背後から驚いた桃香の声が聞こえた。階段を駆け降りる。胸は高鳴っていた。夢中で膝丈までの水をかき分けて進む。もはや頭の中にはサチしかいなかった。人影はこちらに気がつくと振り返り、通りの反対側へと歩き出した。
「待て! 行かないでくれ!」
ずぶ濡れの赤い髪を追いかける。互いに水浸しになりながら通りを抜ける。角を曲がると尚も赤い人影は遠ざかろうとする。
「サチ! 行かないでくれ! サチっ!!」
俺は夢中で足を動かした。次第に距離が縮まり、ついにその肩に手が届いた。
「サチっ!」
強引に振り向かせようと力を入れると、その人影は体勢を崩しその場に倒れ込んだ。
「やめろ! 俺だ! 俺だよ颯太!」
人影は悠木だった。
「お前……何してんだ?!」
「すまない颯太! 許してくれて!」
「ちょっと颯太、大丈夫!……てか、悠木?! 何であんたがここに? それに、その格好……」
「俺、どうしても桃香の事を諦められなくて。駄目だって分かっていたんだけど、近くにいたくて……すまない」
「そのウィッグは何なの?」
「何となく後ろめたくて……姿を見られたくもなかったから」
「おい、何でその色なんだっ?!」
「色? いや、たまたまだよ。俺、今でも高校時代の奴らとメタルのライブやってて、その時にこれ着けてんだよ」
「悠木、冗談じゃすまないからね」
俺はアパートと反対の方へ歩き出した。永遠に降り続ける雨の中、行く当てもなく水没した街を彷徨う。
サチは死んだのだ。今まで目を向けようとしなかった事実と今初めて向き合った。
そう、俺自身も十四歳のあの夏に死んでいたのだ。この世の片割れを失い、虚無となった肉体だけが今日まで長らえてきたのだ。
水かさは増え続け、水位は腰の辺りまで来た。
このまま世界は沈没するのだろうか? それも構わない。俺の世界はもうとっくに沈んでしまっていたのだから。
顔面を叩きつける雨が突然消えた。一瞬遅れて水中に落ちたのだと気がついた。河川の上に足を踏み入れたのだろう。
身体は見る見る流される。濁流の中を転がり次々と漂流物にぶつかる。肺の中に水が入り込み、意識が遠のいていく。その時、誰かに腕を強く引き上げられた。転がり続けていた身体は体勢を取り戻し、濁流の中を縫うように進む。薄れる意識の中で最後に見たのは、泥水の中でも鮮やかに輝く赤い髪だった。
目を覚ますと薄明かりに染まる空が広がっていた。何処かの河岸だろうか、見渡す限りの護岸が続いている。身体を動かそうとして全身に痛みが走った。
「目が覚めたんだね。身体、大丈夫?」
俺は痛みとは別の理由で動けなかった。
「……サチ、なの?」
「うん、私だよ。久しぶりだね、颯太。ずいぶん大人っぽくなったね」
そこにはサチがいた。あの日に見た眩しい程の笑顔と淡い赤毛はサチそのものだった。
「何で、どうして……今まで何処にいたの?」
「うん、私にも分からないんだ。気がついたら川の中を泳いでいて、溺れている颯太がいた。私……死んだんだよね?」
「……うん。サチはあの日、俺の従兄弟を助ける為に海に飛び込んで行方不明になったんだ」
「だよね。覚えてるよ……あの子は助かったの?」
「うん。サチのお父さんが助けてくれた」
「そっか、良かった」
雨はすっかりとあがり、水平線からは金の光が溢れ始めていた。
「歩けそう? 私はもうそろそろ行かなくちゃいけないみたい」
「そんな!? やだよ……ずっと居てよ!!」
「うん。でも、それは無理みたいなの。何故だか少しだけこっちの世界に戻って来れたけど、私はもうここの人間じゃないから」
俺には分かっていた。俺が願ったのだ。あの日、桃香と行った神社。どんな願いも一度だけ叶えてくれるというその神社で俺は願ったのだ。
——サチにもう一度逢いたい——
「……サチ、俺も一緒に行くよ」
「何言ってるの? 駄目だよ颯太……颯太はまだ生きているんだよ。それに彼女もいるんでしょ?」
「うん……でも、俺は……僕は、サチと一緒に居たい。サチのいない世界は空っぽだった。サチが僕の全てだったんだ。この不完全な世界で、あの夜に海の中から見た星空だけが全てだった……だから、置いていかないで!!」
蓋をしていた感情が嵐のように吹き出した。それは止むことない豪雨の様な突然の激情だった。
サチはゆっくりと目を瞑り、そして海に飛び込んだ。
「私はもう行かないといけない……颯太、幸せになってね」
僕は痛む身体を起こし、そのまま護岸の淵まで一気に走り飛び降りた。驚くサチの顔が目の前にあった。
「行こう、サチ。二人だけの海へ」
「颯太……うん。行こう」
朝陽が水面に浮かぶ二人を照らす。
手を取り合い、
一つになったシルエットは一気に水中へと消えた。
水面から差し込む光
君の淡い赤髪は
眩く漂い揺れる
僕は美しいと思った
空気の無いこの世界で
二人は何処までも沈んでいく————
あれから一年、私は最後の定期コンサートの準備に追われていた。このメンバーでの演奏もこれで最後になる。颯太の行方は今も不明だ。あの日、大雨の中に消えた颯太は何を想っていたのだろうか。雨はあがり、全ては流され消えてしまった。
「桃香、この後皆んなで飲みに行くけどどうする?」
「うーん、ちょっと顔出そうかな。悠木は飲み過ぎ厳禁だからね」
半分ストーカーと化していた悠木とは、しっかりと猛省させた後は友人でいる。
「丁度一年になるね」
「ああ。あいつ、何処に行っちゃったんだろうな。今思い出すと、俺の赤いウィッグに変な反応してたんだよな」
「変な反応?」
「うん。何でその色なんだって」
「色か……何だろうね。でも、何で赤だったの? 逆に目立つじゃん」
「だから、元々はライブ用に買ったやつなんだよ」
「何だか思い出したらまた怒りが込み上げてきたな。あんた、あの日の前日も私の部屋覗いてたでしょ?」
「前日? あの大雨の日の前日か? それは無いよ。はっきり覚えているけど、その日は俺、好きなメタルバンドが来日しててライブ見に行ってたから」
「記憶違いじゃないの?」
「いや! チケット残ってるから見れば分かるよ」
「それじゃあ、私が見たのは誰だったの————?」
夜の海に
二つの影が浮かぶ
少年は水面に浮かぶ少女の髪にそっと触れる
星空に照らされたその赤い髪は、
美しく漂い淡く輝いていた
——感情降水帯——