4-07 それいけ聖犬フェンリル!〜うちのしず江(14)はシーズーです〜
「あなたの犬には私たちの世界を救ってもらいます」
「無理です。シーズーになに期待してるんですか」
「シーズァー……?皇帝を表すシーザーだと……!?」
「話を聞けぇ!」
その日も私の1日は完璧なはずだった。愛犬しず江さんとの平穏な散歩の準備が一転!
謎のコスプレ女が家へ侵入てきたかと思えば、異世界召喚される羽目に。到着した先では、なぜかしず江が「聖犬フェンリル」として崇められ、世界を救う伝説の存在に!?
だが、彼らの期待に反して、しず江は耳が遠く、戦うどころかしっぽを振ることとご機嫌ダンスをすることしか出来ない。それができるだけで100億点満点なんだけどな!
異世界と愛犬が織りなす、波乱万丈の救世主(?)物語、開幕!
「散歩紐よし、うんち袋よし、おやつとウエットティッシュとお水もよし。しず江さーん夜のおさんぽいく……よ?」
「それではしず江。今の話を理解したのならここに<お手>を」
ある日、それはいつも通りのある日のこと。
犬の散歩の準備をしてたら聞こえた知らない声に振り返ると、なんか見知らぬコスプレ女が愛犬にお手させてた。
ギリシャだかメソポタミアだかシュメールだか知らないが、白い布たっぷりのたわわな胸が見えそうで見えない、随分ありがちな女神な感じのコスプレ。思わず警戒より先に壁掛けカレンダーを見る。11月3日。うん。ハロウィン終わってんな。
「……あんた、何してんの?」
築15年。最寄り駅から徒歩15分のペット可の私としず江の城。
そこで変な女が何故かしず江にお手をさせている。
布か髪の毛にLEDでも仕込んでるのか無駄に眩しい。しず江の目に悪いだろうがよ。ふざけんな。
「おや、しず江の飼い主ですか?喜びなさい。しず江は私の世界の」
「偉そうな不法侵入者だな。失せろ」
人を疑うことを教えてないしず江は不審者の足元で、ニコニコと機嫌良さそうにステップを踏みながら歓迎ダンスを踊ってる。やめなさいあなたもう若くないんだから。……あ、こけた。
ぱちくりと目を瞬かせる姿に慌てて馬鹿女を突き飛ばし、履きかけていた散歩用のくたびれたサンダルを脱ぎ捨ててしず江をスリング──赤ん坊の抱っこ用に使うハンモックのようなものに抱き上げて入れる。
これから散歩に行くと、スリングに入れたことで気づいたしず江のしっぽが脇腹を叩く。すっごくくすぐったい、ごめんねちょっとまってね。ママは今、あの不審者警察に通報するところだからね。
不審者はなんだかよく分からない笑みを浮かべながらニヤニヤこっちを見てる。さっさと失せろ。
『事件ですか事故ですか』
「事件です変なコスプレ女が家に入り込んで出ていかないんで、ぁ……?」
通話の音が消える。一瞬の浮遊感。既視感のあるそれは何年か前に友人に無理やり並ばされたバンジージャンプにソックリで、え今落ちてる?
慣性の法則なのかなんなのか、カートゥーンアニメのように内臓や目玉だけその場に残ったような不快な落ちる感覚。上を見あげるとLEDコスプレ女がにこやかに手を振っていた。
「契約はなされました。あなたの犬は我が世界の礎になるでしょう」
「っ、ざけんなコスプレ女ァ!!!」
突き飛ばすんじゃなくて殴っとけばよかった。そう思いながら握っていたスマホを咄嗟にコスプレ女に投げる。スコーン!いい回転で飛んで行ったそれは角を見事コスプレ女の鼻にぶつかる。
ざまぁみろ!そう言いたいがそんなコスプレ女の姿もどんどん離れていく。そして私の脇をスマホが画面を灯したままシュンッと落ちていった。あっぶない。しず江の入ったスリングに当たるところだった。
真っ暗な穴を落ちていく感覚の中、スリングを抱きしめる。モゾモゾと体にあたる骨とちょっと獣臭いポップコーンな犬臭。ぶふーっとため息をかけられる。お゛っくっさ!
しず江。しず江。14歳の可愛い可愛い私のおばあちゃんシーズー。腕の中で看取ってやると覚悟してたけどまさか一緒に落下死するとは考えてもなかった。
「こんなことのために家族になったんじゃない!」
しず江。嗚呼、しず江。先に落ちたスマホが地面に激突する音がまだ聞こえない。こんなに長い間落ちてるんだからきっと助からないとは思うけど。でもママがあなたを守るから。もし生き延びられたら何とかひとりで……あ、無理だわうちの子。1人で野生で生きていけるわけない。一緒に死んだ方がいいのかいっそのこと。
思考がつらつらと加速する。轟々と空気が耳を叩いて腕の中でヒンヒンとしず江が鳴く。あ、おしっこ?スリングから出せ?無理無理。頼むから現状理解してくれ。母ちゃん今、結構浸ってたから。ホントならここから出会った時のモノローグとか入るところだから。
嗚呼クソ、思考が途切れる。死ぬ。これはもう絶対死ぬ。どのくらい落ちたんだろうか。30秒?5分?もしかしたら1時間?そんなに落ちてたらしず江がおしっこ漏らすか。
くそ、終わるなら早く終わりにしてくれ。逃避してた現実が落ちる速度よりも早く追いついてくるだろ。
発狂寸前の恐怖をしず江の温もりを支えにねじ伏せながら目を閉じていると耳元で吹いていた風の音がいつの間にか知らない奴らの拍手喝采に、背中を叩く風がただの冷たい床に変わっていた。
空気の匂いも変わった。
「ようやくだ!聖犬フェンリル様がいらっしゃった!」
「聖剣……?」
異様な熱気となんかニュアンスの違う聖剣の言葉にようやく目を開けるとなんというか、いかにもな、いかにもななろう系のあの……いや詳しくはないんだけどいかにも、なんかとてもいかにもな西洋なアレな大広間、いや詳しくないから詳しく説明しようとしたらあちこちから怒られそうだし説明したくないんだけど、西洋的なアレな、説明いるかコレ、みたいないかにもな貴族的な見た目の人たちとなんか……犬。大量の犬と貴族的な人達が喜んであちこちでぎゃあぎゃあ騒いでるし遠吠えも聞こえる。
しず江さんだけがマイペースにスリングの中をホリホリと掘っていた。
「おお、聖犬さま!こちらにいらっしゃいますか!」
中でも多分王様なんだろうなといういかにもな偉そうなやつがスリングに興味を示すと近くのいかにも近衛兵みたいな偉そうな格好をした騎士なのか貴族なのかわからん男がしず江の入ったスリングに手を伸ばす。
「ちょっと辞めてください!なんなんですか!」
慌てて立ち上がって何歩か下がると空気がざわつく。足元を見るとやっぱりいかにもな魔法陣が書いてある。異世界召喚ってやっぱりテンプレみたいなものあるんだろうか。
警戒してスリングを抱きしめると腕の中でしず江が呑気にドックランに着いたのかとしっぽを振るのが分かった。ちがうよー。全然違うよ〜。
母ちゃんの警戒とか緊張をちょっとは感じ取って、あ。無理ですかそうですか。
「御使い様、落ち着いてください」
どよめきと共にカソックに近い……特定の宗教の名前だしたらヤバいか。なんか明らかにいかにもな神官服を着た一行が恭しく人波を割って近付いてくる。知ってるこういうのなろうで読んだ。
「状況を説明させていただきますね」
問答無用で話し始める神官服これもまたありがちだ。落下の時に追いついた現実がまたどっかに逃げ出しそうになる。
「ということで私たちの教えでは異世界の聖犬様が勇者と共に魔王を倒すという伝承が残っているのです」
「……聖剣?」
「聖犬です。聖犬、フェンリル様。あなたのその袋の中に入っているお方が我らが世界を救う救い主なのです御使い様」
さすがにこれは聞き逃せない。
「聖剣?」
「聖なる犬と書いて聖犬でございます」
「フェンリル?」
「ええ、フェンリル様です」
「聖犬フェンリル?魔王を倒す?うちのしず江が?」
「おお、フェンリル様はしず江様とおっしゃるんですね!」
その言葉でまた広間が盛り上がる。しっずっ江!しっずっ江!とどこかのフェスのような盛りあがりだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「その者、美しく銀の毛並みを持ち、その耳は千里先の針の音すら聞き取り、その銀の瞳は真実を見抜く。その聖なる牙と爪は万物を破壊し」
オタク特有のイヤに早い口調で神官服の集まりの一番偉い人がなんか多分聖典かなんかの一節を語り出したので慌てて止める。そして、ゴソゴソとスリングからしず江を取り出した。
「ひゃふっ」
人間が好きなしず江が沢山の広間の人間と犬にしっぽをフリフリしながら抱き上げられたそのままの体勢で限界だったのかその場にちょろろ、と久しぶりの嬉ションなんだか本ションなんだかを解放する。高級そうな石の床材にお小水が跳ね返り、散歩用のスウェットに水玉模様ができ上がる。見なかったことにした。
「これが聖犬フェンリル?」
「このお方が聖犬フェンリル様です」
「さっきの言葉もう一度お願いします」
「美しく銀の毛並みを持ち」
「まあトリミング行ったばかりなので認めましょう」
「その耳は千里先の針の音すら聞き取り」
黙ってしず江を水たまりから離れたところに下ろし、しず江の死角に回る。
そして頭の後ろで比較的大きく両手をパンッ!と叩いた。無反応。
「この子、耳が遠いんです」
「そ、その銀の瞳は真実を見抜くと!」
「銀に見えます?白内障で濁ってるだけですよ」
ぷりぷりとしっぽを振りながら誰に愛想を振りまけばいいのかと興奮するしず江を抱き抱えて偉い神官さんに見せる。犬を神の御使いとしてる宗教のせいか顎下にそっと手を持ってきてしず江を驚かせないように挨拶する点は好印象。
知らない人の手が近くにあることが嬉しいしず江に指先を舐められると偉い神官さんは興奮にそのお綺麗な顔を真っ赤にして倒れてしまう。うちの子強いな。
「す、すみません……取り乱しました。その聖なる牙と爪は万物を破壊ると聖典に書いてあるのですが」
「うちの子フードはふやかしたものが多いし爪も最近切っちゃったし」
「切ったんですか」
「はい」
「万物を破壊する爪を?」
「ええ、爪が長いと本人も怪我しちゃうので……なにより、うちの子シニア犬なんです。14歳。人間で言うと70過ぎの愛玩犬のおばあちゃん。これでも魔王を倒せと?」
私の言葉に広間が静まり返った。
聞こえるのは犬たちの興奮した息遣いとうちのしず江のご機嫌ダンスの爪の音だけ。どうすんだこの空気。