4-03 喫茶『古灯』は深夜零時から
──業務用冷蔵庫があって良かった。
死体がみちみちに詰まった冷蔵庫を見ながら、緩川ひまりと月橋悠真はひとまず息を吐く。
「ねえ、月橋くん。人の死体って、どれくらい保存できるのかな?」
「……検索してみたところ、お肉は数日以内に、お早めにお召し上がりくださいとのことだよ」
「食材じゃないからね?」
「あ、熟成させればもう少しいけるかも」
塩漬け、燻製、ドライエイジング……スマホを握りしめながら、そんなことをつぶやく月橋の目は淀んでいた。完全に現実逃避している。
(……なんとかしなきゃ)
眩暈を感じながら、緩川はなんとか地面を踏みしめる。
この死体が腐る前になんとかしなければ、緩川の花の高校生活は失われる。それだけははっきりしていた。
香りは記憶に結びつくなんて言うけれど、これは正確な表現ではないと僕・月橋悠真は考えている。
きっとそれは記憶ではなく、魂に刻まれる。
(じゃないと、説明がつかないじゃないか)
喫茶『古灯』でコーヒーを淹れる度にそんな考えが浮かぶ。
コーヒーの香りに誘われてこの店にやって来る客のほとんどは、幽霊なのだから。
香りの思い出は、恐らく魂に刻まれている。
深夜零時から営業が始まる我らが喫茶『古灯』は、行き場をなくした魂が集まる、憩いの場だ。
彼らは死してなお、香りにつられてやってくる。
ちりん、とドアのベルがなった。
「──いらっしゃいませ」
今日もコーヒーのほろ苦い香りに導かれて、客がやってきた。
* * *
(私、昆虫みたいだなー)
コーヒーの匂いをたどりながら、暗い夜道をフラフラ歩く。
お外で虫を採っていると「生き物って単純すぎない?」と思うことが度々ある。
光や甘い樹液の匂いに、虫は簡単にいとも引き寄せられる。その後人間に捕獲されることも知らず、呑気にブンブン飛び回る。
(ま、私は昆虫は好みじゃないんだけどね。ハチノコとカミキリムシの幼虫しか食べたことないし)
私の趣味は野食──自然の中にある食材を採ってきて食べることだ。
もっと女子高生らしい趣味見つけなよ、なんて友達からは言われるけれど、幼いころからお父さんに刷り込まれた嗜好は簡単に抜けてくれない。
そんなことを考えながら、私を引き寄せている香りの発生源──一軒の喫茶店の前で立ち止まる。
「……なんて読むんだろ、お店の名前」
飴色になった木の看板には喫茶『古灯』の文字。
私お金持ってないんだよなぁー。ちょっと覗くだけ……って迷惑だよね。
そんな思いとは裏腹に、足は自然と扉の方へと向かっていってしまう。
重い木製の扉を開けると、ちりんと可愛らしいベルの音がなった。
「──いらっしゃいませ……って緩川さん?」
「えっ? はい、私は緩川ひまりですけど……」
視線を上げて、柔らかいテノールボイスの主を見る。
柔らかそうな癖毛に、大きな黒縁メガネ……私はこの人を知っている。
めったに学校に来ないから一度も話したことがないけれど、印象には残っている。
半年前、高校2年生に上がって最初のホームルームのとき。彼は「僕には話しかけないでほしい。幽霊だと思ってスルーしてほしい」なんて、奇妙な自己紹介をしていた。
確か名前は──
「つ、月島くん!?」
「それは東京都中央区にあるもんじゃ焼きの名所だよ。僕は月橋」
「あ、ごめん……月橋くん」
慌てて頭を下げてから、恐る恐る顔色を確認する。
月橋くんは、は可哀想なものを見る目でこちらを見下ろしながら「やっぱりか」とつぶやいていた。
何がやっぱりなんですか? 私そんな残念そうな子にみえるんですか?
「まあ、いいや。お好きな席へどうぞ」
「へっ?」
「看板見たでしょ。ここ喫茶店だから」
思わず近くにあったカウンター席へ座る。
大きな一枚板でできたカウンターは古びてはいるけれどぴかぴかに磨き上げられている。
誰もない店内を見渡すと、どこもかしこも手入れが行き届いていて、立派な純喫茶という感じだ。
「ねえ、月橋くん……こういうお店って高いんだよね?」
「ウチはそうでもないけど。もしかしてお金がないとか」
「うん、いまドングリしか持ってなくて……」
「……残念ながらドングリ払いは対応してないな」
だって! マテバシイの収穫時期なんだもん!
炒って食べると美味しいよ! 物々交換でどうですか!?
(……なんて言ったら怒られるよねぇ)
やっぱり帰ろう。お詫びは今度月橋くんが学校に来たときにでもすれば大丈夫だよね?
色々と言い訳を考える私と月橋くんの間には、コーヒーの香りだけが漂う。
「これはサービスだから」
短い言葉と共に、テーブルにカップが置かれた。
なみなみと注がれた黒い液体からは苦く、甘い香りが立ち上っていた。
「……僕はまだ見習いだから、練習で淹れさせてもらってるんだ。一人じゃ飲みきれないから、処理してくれると助かる」
「月橋くん……」
そっとコーヒーカップに触れる。
飾り気がない厚手のカップは暖かくて、触れているだけで身体が温まっていくみたいだった。
「……ごめん。私、コーヒー飲めない」
「……そうですか」
「ご、ごめんね! 飲めるようになろうとは思ってるんだけど、どうしてもカフェインがダメで……!」
「いや、気にしなくていいよ。無理して飲むもんでもないし」
「でも! 意味はないかもしれないけど、飲めるようになりたいの! だって、お父さんが帰ってきたときに……」
思わず、本音がこぼれた。
月橋くんは何も言わず穏やかにこっちを見ていた。
仲良くもない普段話さないクラスメイトだからだろうか? それとも彼の雰囲気がそうさせるのだろうか?
誰にも話したことがないのに、話したい気持ちになった。
「……私のお父さんね、行方不明なの」
へぇ、と相づちとも吐息ともつかない彼の声。
関心と無関心のちょうど中間の、心地良い温度。
「別に大したことない話なんだけどね、北海道に珍しい山菜を採りにいくって言ってそれきり……」
「それは──」
月橋くんが言わなかった言葉の続きは、容易に想像できる。
お父さんはもう死んでいるんじゃないか、だ。
私だって、そんなことはわかっている。
「あの日も……お父さんがいなくなった日の朝も、お父さんは『コーヒー飲むか?』って私に聞いたの。私が『飲めないって』って返すのがお決まりで……」
それからお父さんは「ひまりはまだまだ子供だな」と言って、少し寂しそうに笑う。それが緩川家の毎朝の光景。
一回だけでいいから、一緒にコーヒーを飲みたかった。
私が「おいしくなーい!」って言っても……きっとお父さんは笑ってくれただろう。
「……なんか、ごめんね急に重い話して。こんな話されても困るよね」
「いや、いいよ。僕の仕事にも関係ある話だ」
「えっ?」
意味深なことを言って、月橋くんはやかんを火にかけた。
何やら作業をしながら、こちらへ視線を送る。
「喫茶『古灯』はね、死後の魂を癒すための場所なんだ」
「……す、スピリチュアルな話ですか?」
「まあ、すぐに理解できなくていいんだけど。このお店に入れるのは、基本的に幽霊だけってこと」
「私、入れてるんだけど……」
自覚がないタイプか、なんて言いながら月橋くんはコーヒーミルとドリッパーを私の前に置いた。
「──けれど例外がある。生きた人間か死んだ魂かに関わらず、『香り』に誘われた者はこの店に入ることができる」
「まったく意味が分からないんだけど」
「難しく考えなくていい。つまり君は……」
月橋くんが、私の前に透明なキャニスターを置いた。中には艶めいたコーヒー豆がぎっしり入っている。
ラベルには『ブレンド 追憶』の手書き文字。
「お父さんともう一度話すことができるんだ」
「ほ、本当……?」
「確実に、とは言えない。ある程度想いの強さが必要になる。想いをこめてコーヒーを淹れれば、その香りに魂が引き寄せられるんだ」
「……お、お父さんと……」
もう一度話せるんだ。そう考えると、手が震えた。
正直、月橋くんが言っていることはよくわからない。ただからかわれているだけなのかもしれない。
けれど、もしかして本当の本当に奇跡がおこっちゃうんじゃないかって、そう思わされるような迫力が確かにあった。
「……わかった」
机に置きっぱなしになっていたコーヒーカップを手に取る。
コーヒーはすっかり冷めていたけれど、ちょうどいい。胸の底にこびりついている疑念を洗い流すように、黒くて苦い液体を一気に飲み干した。
「私、お父さんと話したい。お父さんの魂をここに呼んで……!」
その時だった。
ずるり、と身体から何かが抜けるような感覚がした。
そしてどすん、と鈍い音がした。音のほうを見れば、私自身が床に倒れていた。
白目をむいて、女子高生がしちゃいけない顔をしていた。
「……へっ?」
「緩川さん? まさか──」
月橋くんが飛び出さんばかりに目を丸くして、唇を震わせていた。額には汗が浮かんでいる。
彼が何に焦っているのかはわからない。けれど、確実に何か大変なことが起こっているのだけはわかった。
「生きてたの!?」
「いや、普通に生きてるけど」
「言っただろ……ここは幽霊を対象にした喫茶店だ。そもそも生身の人間は、店を見つけることすら出来ないはずなんだ。それに提供される飲食物も、幽霊向け。生者が口にしたら……」
「……ど、どうなっちゃうの?」
「……魂と肉体が分離します。ありていに言うと、死ぬ」
死ぬ。死にます。死んじゃいます。
つまり今ここに座っているのは幽霊の私で、床に倒れているのは……。
「わ、私の死体!? な、なんで……! 生きてるのくらい見ればわかるじゃん!」
「だ、だからこのお店に来る時点で普通は幽霊だから……」
「私、こんなとこで死にたくないよー! 生き返る方法とかないの!?」
「……ま、まだ分離してすぐだから可能性はなきにしもあらずだけど」
月橋くんが私の死体に近づく。
脈を確認しながら「これは確実に死んでるね」なんてとぼけたことをつぶやきつつ、こちらを振り返った。
「……まずこれ、腐らないようになんとかしないと」