4-12 アリス、甘やかに微睡いて。
少女が息をする。
世界が、その吐息を白く彩った。
彼女のために設えられた部屋は。
きらきら、ふわめいて。
淡桃色の壁紙に見守られ、床中を玩具が闊歩する。
「……ん? はーい!」
確かに、戸を叩く者があった。
少女は駆け出してゆく。足の踏み場なしを踏み越えて。
内側から扉が開かれる。ドア枠の額縁から顔を出したのは、長身の男だ。燕尾服を身にまとい、森人特有の尖った耳をかすめて、黒髪をさらりと後ろに流している。
彼は、その端正な顔をわずかに歪めてまで、眉をひそめる選択をした。あるいは不意の生理的反応かもしれない。
「アリス、きちんと言っているではありませんか。遊んだあとは片すようにと」
「ごめんなさい。ジキルさん」
「分かればよいのです。分かれば」
ジキルと呼ばれた男は、右手の指先で軽くモノクルを撫ぜた。糸のように閉じられたまつ毛は微動だにしない。
「この常雪に、窓を開け放っておくこともないでしょう。寒くはないのですか?」
「ううん、ぜんぜん。この服もあるから」
アリスはくるくる回り、水色のポンチョを誇ってみせる。
とかく真っ白な少女であった。腰まで伸ばされた髪は白、つぶらな瞳の色も白、肌も白いといえるが、これはあくまで擬似的表現の域を出ない。
作り物めいた、可憐な容姿。美人に育つであろう片鱗を見せているものの、実際にその姿を拝むことは叶わない。
なぜならば、彼女は愛玩人形。物好きな亜人達がお熱になって、傍に置こうとする少女傀儡であるゆえに。
この世界に、純粋な人間は存在しない。“魔女”が呪いで消し去ったからだ。それから五十年が経つ。
結果として、「亜人」という言葉は宙ぶらりんとなった。
もちろん、樹人の辞書編纂者が顔をしかめるに影響は留まらない。人間の作った技術の多くは再現不可能となり、彼らの編んだ独自の言語はいまや失伝が危ぶまれる。
その喪失のほどは枚挙にいとまがないが、しかし本題ではない。
ここで大事なのは、「人間がいなくなった」ということだけだ。
種族が死滅して、幾年か経った。
これまでの様々な例に洩れず、あったものがなくなってしまえば需要が生まれる。
多種族合同で、人間を復活しようという試みが起こった。うまく進めば、現代に蘇った彼らを奴隷として使役することだってできるかもしれない。
幸いというべきか、この世界にはクローンに近い技術があった。ホムンクルスと呼ばれている。
第一陣とも呼ぶべき被造物たちがつくられて、三年が過ぎた。研究者たちは頭を抱えた。
待てど暮らせど、ホムンクルスたちはぶよぶよとした肉塊のままで、まともな形を保ちやしない。ケースは破棄され、理論の練り直しが行われた。
熟考に熟考を重ねたすえ、第二陣が作製される。その研究には、ジキルも参加していた。
十と数年が経つ。肉塊は人間の形をとった。実験は成功かのように思われた。
だが、やはり目論見は頓挫する。ヒトガタたちは、少年少女の態で成長をやめてしまった。
いくら脳を悩ませても、その答えはみつからず。最終的に実験は中断。
思考と試行の産物は、闇に葬られる。はずだったのである。
「くしゅん!」
「……あぁ、言わんこっちゃない。なるべく身体を冷やさないように」
吐息の代わりに、アリスは大きなくしゃみをし。
男は、数瞬の回想から帰還した。
成句を唱えてそのまま、玩具を踏みつけぬよう慎重な足さばきで室内を横断。開かれたままの窓を閉ざした。
常雪の国。正式名称は「オルソーヴニル森林国」という。
森人や樹人、精霊の多く棲む土地であり、自然豊かな恵みの国とされていた。“魔女”が、止まない雪の呪いをかけるまでは。
この研究所、そう、研究所である。人里離れた白亜の建物に、訪れる者はない。吹雪をかき分けてまでやってくるような酔狂が、果たしてどれだけいようか。
そうした立地に居を構えているのは、ひとえに他者に立ち寄られたくないからである。少なくとも、館の主たるジキルはそう意図した。
ホムンクルス計画は、確かに闇に葬られるはずだったのである。
研究者の一人である、ジキルが理論を持ち出しさえしなければ。
人間がいなくなったことで、「どうにかして人間を手に入れたい」と願う好事家が現れた。
新たな商機である。若き学者は、かつての実験を流用して少女人形を作り上げた。
愛玩という目的上、ある程度で成長が止まるのはむしろ都合がよい。依頼主の好みに合わせて、纏足じみた処置を施すことすらある。
この人形たちのほとんどは、培養によって作られたものだ。人工物と言ってもよい。
しかし。たったいま長身痩躯の男の前に立っているアリスは、まったく別の存在である。
「アリス。すこし話があります。いいかな」
「なぁに? ジキルさん」
アリス。真っ白なアリス。
彼女は凡百の人形とは違う。
生きた少女の肉体を使い、後天的に改造を施した、天然物だ。
ジキルは、彼女のことを「原初のアリス達」と呼ぶ。
達、というところから察せられるように、そういった少女は複数人いるのだ。
彼女らはみな、オルソーヴニルの永久の氷のなかで、仮死状態になっていた器である。
元々は友人どうしだったのかもしれない。記憶処理を行ったいまでは、それを確かめる術もないが。
当然、その価値もまた、人工物とは大きく差がある。
筋金入りの少女主義者が需要に応えるべく少女工学の粋を尽くし、少女の少女性を解剖して、最上級少女を表現したのだ。
金額は比にならない。が、それでも売れていった。各国の富豪が、大枚はたいて連れていくのである。
たった一人。そう、白いアリスを除いて。
ジキルにとっての大きな誤算は、彼女が“魔女”の一人娘だったのを知らなかったことである。
「いいかいアリス。君をこれ以上置いておくと、赤字になってしまう。維持にもお金がかかるんだ」
「“イジ”って?」
「君にごはんを与えたり、服を買ったりすることだよ。このままではそれが成り立たなくなるから、君を処分しないといけなくてね」
「“ショブン”についても、教えてくれる?」
「ここを出ることだよ。仲良しのアリスたちのようにね」
購入されるのと廃棄処分するのでは訳が違うが、男はあえてそれを説明しなかった。
対する少女は判然としない顔をしつつも、ひとまずは胃腑まで呑みこんで。
「でも、いきなり外で暮らすことなんてできないわ」
「そうだろう。そうだろうね。ふむ、どうしたものか」
「うーん。だったら、ジキルさんといっしょに外の世界を見て回りたいかも。それからそれから、アリス達にも会いに行くの」
「なるほど、予行演習というわけですか」
もう一度、モノクルの輪郭を指先でゆっくりとなぞって。
考えこむ仕草を見せるも一瞬。男はぽんと手を打った。
「いいでしょう。僭越ながらこのジキル、案内人を務めさせていただきます」
慇懃ぶった素振り。
彼女にとっては最後のおねだりになる。それに応えてやるぐらいの情は、冷血そうな研究者にも宿っていた。
それに、もし旅先でアリスを購入したいという者に出会えれば重畳である。捨てるよりずっとよい。
「そうと決まれば、支度と旅路の考慮をせねばなりませんね。ここ、大陸の西端から進むとなれば、ふむ。次の目的地は鉄造の国でしょうか」
「怒りん坊の、赤のアリスが行ったところだ! 元気にしてるかな」
赤のアリス。腿下まである赤髪を乱雑に後ろで束ねる、真っ赤なつり目の少女。いつも怒ってばかりいるため、頬まで赤く染まっている。
「通りがかりに、顔を見にゆくとしますか。青のアリスも、緑のアリスも、黄と紫の姉妹だって、きっとあなたと会いたいはずです」
「黒のアリスは?」
「あの子は気難しいので、どうだか。暗闇の国は最近あまり治安がよくないそうなので、なるべく寄らずにいたいところですね」
どたばた、わたわた、騒がしく。
真っ白アリスが支度を進めるのを、片眼鏡越しの碧眼が眺めている。
「そんなに急がなくとも、もうじき夜になるので、出発にはまだ時間がありますよ。アリス、朝はわかりますか?」
「もう。それくらい知ってるよ。ホクホク鳥が鳴いたら朝、クアクア鳥が鳴いたら夜でしょ!」
「ご存知でしたか。アリスは聡明ですね」
少女はソウメイの意味を知らなかったが、彼の満足げな表情から良いニュアンスだと理解したため、追及はしないことにした。
「あ! ところで今日の晩ご飯は?」
「あなたの大好きなエシュレ麦のパンと、エッグオムレツです。すぐにできますから、それまでに旅の準備と部屋の片付けを」
「やったあ。はぁい!」
ジキルが部屋を辞したあとも、止まぬ物音。
どたん。小さな姫君が転んだとみえ、森人はやれやれと仕方なさそうに首を振る。
お手を拝借。さぁさ喝采を。
少女と長命者の幻想探訪譚。これより、はじまり、はじまり。





