53話 幻惑の霧
暗い穴の中では、外の明るさなど知る由もない。
それでも、規則正しい生活を送る冒険者たちは次第に目を覚まし、やや遅れて残りの者たちも起床し始めた。
「さて、朝飯を食いながらでいいから、俺の話を聞いてほしい」
保存食をかじりながら、オーウェンはこの場にいる者たちへ言う。
「ここはダンジョンの最下層だ。しかし、奇妙なことに、さらに下へと通じる階段がある。何が待ち受けているかわからないが、潜る覚悟のある者はいるか?」
その一言で、場は一気にざわつき始めた。
ここにいるのは、リリィとサレナを除けば、王城に入る資格を持つ実力者ばかり。
しかし、そんな彼らですら、最下層よりもさらに下に挑むことには二の足を踏んでいた。
巨大なモンスターの群れ、大規模な崩落、存在しないはずの階層への階段……どれも常識を超えた事態である。
「……申し訳ないが、自分たちは上に戻ります。死ぬことは避けたい」
「身に余る脅威がいるかもしれない。あまりにも情報が足りないため、ついていくことはできません」
「……そうか」
一人また一人と冒険者は減っていく。
最終的にオーウェンと共に潜ることを決めるのは、数人の冒険者以外には、リリィとサレナだけ。
先程までと比べると、かなり戦力は消えてしまった。
「よーし、大まかな作戦。俺とそこの熟練冒険者たちが前衛。白黒ウサギの二人は少し後ろで遊撃。いいな?」
「はい」
たいまつに火をつけ、一行は地下十六階へ。
まず土をくりぬいたような短い通路が出迎える。
他の道は一切存在せず、正面に粗末な扉があるだけ。
その扉を開けた先には大きな広間が。
「何が出てくるか……む、これは」
暗くてわかりにくいが、霧のようなものが中心にいた。
それは少しずつ範囲を広げ、途中から一気に全員を包み込む。
「いかん、罠か!」
視界がどんどん悪化し、広間全体が混沌に包まれる。扉を開けて戻ろうとしたが、振り返ると扉そのものが消えていた
「……見えない。でも、音は聞こえる」
リリィはウサギの耳に意識を集中させると、ゆっくり移動する。
やがて見慣れた褐色の肌をした腕を見つけると、声をかけながら掴んだ。
「サレナ!」
「…………」
反応はない。サレナはどこかぼんやりとした様子で立ち尽くしている。
異常を察知したリリィは、サレナの黒いウサギの尻尾を掴み、強めに引っ張った。
「ひゃっ!?」
「早く目を覚まして」
「おねえちゃん、こわいよ……」
怯えたような声を耳にすると、リリィは顔をしかめる。
気がつけば、お互い小さい頃の姿に戻っていた。
若返ったのか、そういう風に見えるだけなのか、それはわからない。
「問題は……外見だけじゃなくて中身まで昔に……くそ」
幻惑してくる霧の中にいる影響は、自分にも及んでいる。
今のリリィは、幼い白ウサギな少女。
ただ、身につけているペンダントのおかげで、サレナよりは進行が遅れている。
それは、ヴァースの町を出る前、大量に余っていた食事券と引き換えにオーウェンから貰った代物。魔法による被害を少し抑えるアクセサリー。
つまりこの霧は、魔法によって生み出されたと考えていい。
「いったい何が目的で」
考えたところで情報が足りない。
厄介なことに、霧の中から迫る存在があった。
剣は普段よりも重く感じるが、リリィは構える。
「グルルルル……」
現れるのは、オオカミのようなモンスター。
すぐに飛びかかってくるが、リリィは一歩前に進むと、回避することなく剣を振るう。
これによりモンスターの首を斬ると、相手が大怪我で動けないところに追撃を加え、仕留めた。
「霧の中で弱らせてから、モンスターでいたぶる、か。性格が悪い」
「おねえちゃん、あれ食べよう。腐ったものや傷んだものよりいいよ」
「……そうだね」
幼いサレナは、モンスターの死体を指差す。
今ここにいるのは、孤児として町の中をさまよっていた黒ウサギな少女。
頼れる相手は白ウサギのリリィだけ。自警団との関わりはまだない。
「サレナ、解体するから手伝って」
「わかった」
手際よくとまではいかないが、オオカミの解体は進められ、たいまつの火で肉が焼かれる。
味付けはしない上にモンスターの肉なので、美味しくはない。
しかし、サレナは笑みを浮かべていた。
「おいしいね」
「……うん」
「ここはどこだろう? でも、おねえちゃんがいるならどこだって……」
お腹がいっぱいになったのか、幼いサレナは眠そうにする。
リリィがそっと背中を撫でると、そのまま目を閉じて寝息を立てた。
幼い頃、弱い頃の自分自身に戻してくる。
幻惑の霧はなんとおぞましいのか。
しかし、リリィは苦笑する。
解体と料理をしている間に、そこそこの時間が経った。
なのに、幼い頃の姿に戻った以外は一切の変化がない。
「……わたしは、何も変わってないのか」
昔の自分と今の自分にほとんど違いがない。
嬉しいような悲しいような、複雑な気持ち。
自嘲混じりに苦笑していると、遠くから戦闘する音が聞こえてくるのでリリィは剣を握る。
「金属音……団長たちか」
同士討ちでもしているのか、何回か金属のぶつかる音がしたあと、人の倒れる音がかすかに聞こえてくる。
「白黒ウサギ、そっちは無事か?」
やや疲れているようだが、それはオーウェンの声。
リリィは微妙に無事じゃないと言うと、こっちに来てくれと言われる。
そのため、サレナを揺さぶって起こし、声のする方へ向かう。
「……ふう、来たな」
「団長、これは」
彼の周囲には、共に潜ることを決めた冒険者たちが倒れていた。
息はあるので死んではいない。ただ、この分だと戦力にはならないだろう。
「俺たちの周囲に漂うこれ……幻惑の霧とでも言うべき代物だが、これのせいで戦う羽目になった」
やれやれとばかりに肩をすくめるが、何が起きて戦うことになったのかを言おうとはしない。
リリィが尋ねようとすると、オーウェンは片手を上げて牽制する。
「この状況は」
「待て待て、教えられん。色々な事情があるもんだ、特に大人は。まあ、一つだけ言えるのは、隠していたものを引きずり出して不和を招く、ろくでもない霧ってわけだな」
地下で暗いはずなのに、霧による幻惑のせいか明るく感じる。
人を惑わす霧はどうすれば消えるのか。
リリィが考えていると、オーウェンはウサギの獣人たる二人を見て笑みを浮かべた。
「しっかしまあ、二人とも、見事にちびすけの頃になってるな。身長が半分くらいになってるぞ。いや、それはさすがに言い過ぎか」
「弱く、何もない頃だったから」
「おねえちゃんは、よわくないよ。いろいろもってるよ」
幼いサレナは、幻惑の霧によって、完全に昔の頃に戻っている。
それゆえにリリィに対して絶対の信頼を置いている。
不安からか、姉と呼んだ相手へ強くしがみつくほどに。
「お前さんたちは、争わずに済んだのか」
「ええと、はい」
「白ウサギは昔とほとんど変わらずにいた。黒ウサギは“お姉ちゃん”のことを信頼しきっている。ふっ……ある意味、羨ましいもんだ。それもこれも、俺が歳を取ったからかね? これでもピチピチの三十歳なんだがな」
途中でおふざけ混じりに言ってみせるオーウェンだが、剣を持つと真面目な表情に戻った。
「このくそったれな霧をどうにかしないと、遅かれ早かれ死ぬ」
「わかってます」
「俺はボコボコにしたこいつらを起こして、探索を進める。そっちも探索を進めてくれ。ウサギの耳の良さに期待したい」
「やばそうなら、助けを求めても?」
「いいぞ。間に合うかは知らんから、慎重にな」
こうして、二つのパーティーに分かれ、厄介な霧を攻略するための探索が始まった。




