120話 リリィの物語
朝。
まだほんのり冷たい空気が、肌を撫でる。
リリィは、柔らかなベッドの中でぼんやりと目を開けた。
屋敷の個室。自分一人だけの静かな空間。
窓からは柔らかな光が差し込んでいて、それをぼうっと眺めながら、しばらくシーツにくるまったまま動かなかった。
「……このまま二度寝しよっかな」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟く。
なし崩し的に始まった世界を救う冒険は、終わった。
今はもう、戦いも、焦りも、どこか遠くの出来事みたいに思える。
「いや、怒られるか」
リリィはようやく身体を起こすと、簡単に寝癖を直してから、扉を開けた。
廊下には、誰の気配もない。
だが、屋敷の奥からは、かすかに食器の音や、誰かの声が聞こえてくる。
リビングに向かうと、すでにサレナがソファに座っていて、従者から飲み物を受け取っていた。
レーアは紅茶を飲んでおり、セラは魔導書を広げていた。
それは、まるで以前から続いていた日常みたいで。
「おはよ」
リリィが軽く手を挙げると、三人はそれぞれにおはようと返す。
それだけの、何でもないやりとり。
けれど、それが妙に心に沁みた。
「今日はどうする?」
サレナは果物のジュースを飲みながら尋ねる。
リリィは一瞬だけ考え、それから、いたずらっぽく笑った。
「ギルドでも行ってみる? ……なんとなく」
「いいんじゃないか。せっかく戻ってきたんだ」
「わたくしも、久しぶりに町を見て回りたいですね」
「ろくなものがなさそうだけど、いいんじゃない?」
「じゃあ、決まり。行こう」
自然と歩き出すように、リリィたちは屋敷を出た。
ギルドは、以前よりも少し静かだった。
かつては朝から冒険者たちで賑わっていた受付も、今はちらほらとしか人がいない。
木のボードに貼られた依頼の紙を見ながら、リリィは小さく息を吐いた。
「うーん……あんまり、いいのないね」
「まあ、この町からダンジョンが消えたんだし、こんなもんでしょ」
「あるだけマシという見方もできる」
「かつての賑わいを思えば、寂しい限りです」
セラは肩をすくめ、サレナは興味なさそうに周囲を見渡す。
レーアも、ほんの少しだけ寂しげに微笑んだ。
「……帰ろっか」
リリィがぽつりと呟き、四人は出口へと向かいかけた。
その時だった。
ギルドの扉が勢いよく開き、一人の冒険者が飛び込んできた。
「町の近くで、野良ダンジョンが見つかったぞ! しかも一度に複数だ!」
その声に、ギルド内がざわめく。
職員たちも慌ただしく動き始め、臨時の募集がかかる。今回は前金なしでいいとのこと。
リリィは、パーティーメンバーたる三人にちらりと目を向けた。
「行く?」
「行かないという答えがあるのか」
「そうです。一度に複数というのが気になります」
「そもそも、パーティーのリーダーはあなたでしょ、リリィ」
四人は視線を交わすと、受付に向かい、すぐに調査を引き受けた。
町外れの小高い丘。
そこに、野良ダンジョンに入るための階段が存在していた。
内部は……拍子抜けするほどに静かだった。
モンスターはまばら、宝箱もない。
ダンジョンコアも存在せず、代わりに、ただの石ころのようなものが転がっているだけ。
リリィは石をつま先で軽く転がしながら、苦笑した。
「こっちはダメ。この分だと別の野良ダンジョンも同じかな」
「……これは、本当にダンジョンなのか?」
「しょぼいにもほどがあるわね」
サレナがぼやき、セラは小さくため息をついた。
レーアはしゃがみ込んで石を拾い、じっと眺める。
「でも、こうして出現する時点で、魔界に挑む前のような冒険者の仕事はなくならない。……そうでしょう?」
リリィは、その言葉に小さく笑った。
「うん。今回のダンジョンは期待外れだけど、悪くはない」
別に、世界を救うような大冒険じゃなくてもいい。
誰も知らない場所に踏み込む。
それだけでも、十分に"冒険"だった。
そして幸いなことに、知らない場所は尽きそうにない。儲かるかは別として。
戻る途中。
賑わう市場の手前、少し広めの石畳の通りで、リリィたちは一人の男性とすれ違いざまに目を合わせた。
「……おお?」
自警団の団長、オーウェンだった。
「リリィたちか。何してた? 俺はエリシア殿と少しヴァースの町の今後について話し合いをしててな」
「野良ダンジョンが見つかったから、ちょっと調査してた。……まあ、中はしょぼかったけど」
リリィが肩をすくめると、オーウェンは短く笑った。
「そりゃ運がいいのか、悪いのか」
気軽なやり取り。
けれど、オーウェンの目は、どこか探るようでもあった。
そして、ふと声のトーンを落とす。
「なあ、どうするんだ? ヴァースに残るのか?」
真正面から向けられた問いかけ。
リリィは少しだけ歩みを止め、空を見上げた。
「うーん、まだ冒険者でいるつもり。魔界のことは終わっても、こっちの世界でやれることは色々あるし」
嘘でも気休めでもなく、自然に出た言葉だった。
オーウェンはしばらくリリィを見て、それから小さく笑った。
「ははっ、そうか。なら好きにやれ。孤児からここまでやってこれたんだ、俺が口出しすることでもない。……頑張れよ」
軽く頭をくしゃっと撫でる仕草をして、オーウェンは手をひらひら振りながら、通りの向こうへと去っていった。
「そうそう、次に帰ってくる時は、ちゃんと連絡してから来いよ。あとな、自警団の敷地に、飛空艇で直接乗りつけるのはやめろ。おかげで、余分な書類を書くはめになったんだからな」
そんな捨て台詞だけを残して。
リリィは見送る背中を眺めながら、ふっと小さく笑った。
帰り道、夕暮れの町を見下ろしながら、リリィは少し立ち止まる。
空は、深い朱に染まりかけていた。
西の地平線には、まだほんのりと金色が残り、町の屋根をやさしく照らしている。
細く長く伸びた影が、石畳にいくつも交差していた。
「夕暮れは、少しだけ寂しさを感じる。昔、一人だった頃、怖くて仕方なかった。でも、リリィと会って一人じゃなくなってからは、むしろ待ち遠しい時だった」
昔を思い返しているのか、サレナは呟く。
風が一筋、頬を撫でる。
甘い果物の匂い、遠くから聞こえる鍛冶屋のハンマーの音。
前よりも少しだけ変わった町の鼓動が、胸に静かに沁みた。
「“お姉ちゃん”と一緒に眠れるから、ですか?」
レーアが微笑みながら尋ねる。
「……ああ。なのに、あたしを捨てて自警団から抜けて……」
「もしかして、これ定期的に言われるやつ? 勘弁して」
「言い続ける。静かにさせたいなら、昔みたいにあたしを甘やかせば、考えなくもない」
やがて、ぽつり、ぽつりと、家々の窓に灯りがともり始めた。
「やれやれ、白黒ウサギの痴話喧嘩を聞かされる方の身にもなってほしいんだけど? ……もうすぐ、町中が光るわ」
暮れなずむ空の下で、暖かな光がいくつも瞬き、まるで町全体が、夜に備えてゆっくりと呼吸を始めたようだった。
この世界は、確かに生きている。
わたしたちがいなくても、わたしたちがどこへ行っても。
けれど、それでも、ここは自分たちの帰る場所。故郷だった。
どんな形であれ、世界は変わった。
でも、自分たちはきっと、これからも変わらない。
「……ねえ」
リリィがふと立ち止まる。
セラ、サレナ、レーアの三人は、自然に足を止めて振り向いた。
「これからもさ。たとえば、誰にも知られないような冒険でもいいから。一緒に続けていきたい。付き合ってくれる?」
誰も言葉にはしなかった。
けれど、三人とも当然のように頷いた。
リリィはにっこりと笑い、空を仰いだ。
赤く染まる空の下、広がる世界は、まだまだ知らないことだらけだった。
「それじゃ、冒険の続きを始めよっか」
軽く笑い合いながら、再び歩き出した。
小さな一歩を踏み出す。
わたしたちの冒険は、まだこれからも続く。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
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