114話 誰もいなくなった場所で
そこは薄暗い洞窟の中だった。
だが、壁に埋め込まれた光を放つ石が淡く空間を照らしており、視界に支障はない。
「……姿は、まだ戻らない、か」
リリィは、自分がまだ幼い頃の姿なのを確認したあと、ゆっくりと足を進める。
ざらりと砂の混じった音が響き、足元に敷かれた古びた毛布が少しだけめくれた。
周囲には粗末な木の棚がいくつか並び、その上には乾いたハーブや魔導書、割れたコップや磨り減ったペンが無造作に置かれている。
洞窟の奥にはたき火の跡があり、煤けた鍋が傾いたまま放置されていた。
「……誰かが暮らしてた、ってレベルじゃないね」
生活の気配。それも、長くここを拠点にしていたような。
岩肌には何かを刻んだ魔法陣が描かれており、今も微かに魔力の残滓が漂っている。
リリィはそっと指を伸ばし、それに触れかけてから思いとどまった。
「サレナとレーアの次となると……セラ、だよね」
ラミアの女性で魔術師のセラ。
ここはきっと彼女の夢、あるいは精神世界。
果たして何が起こるのか、まったく予想がつかない。
カラン
音がするので振り返ると、そこには人がいた。
正確には、ラミアの子ども。
紫の髪と紫の目をしている。
「あなたは、誰?」
「リリィ。耳を見ればわかると思うけど、ウサギの獣人。ちょっと魔法的なやつで飛ばされてここにいる」
どこか警戒するような視線は、リリィが名乗り、白いウサギの耳を軽く揺らすことで少しだけ和らいだ。
「セラ。ここで暮らしてる。長居はしないでね」
「……どうして洞窟に?」
リリィの問いかけに、ラミアの少女、もといセラは一瞬黙り込んだ。
ちらりと視線をよこしてから、焚き火跡の近くに落ちていた石を指先で転がす。
「……外は、寒いから。ここにいれば、凍えずにすむの」
静かな声だった。けれどその響きには、どこか諦めたような、凍った感情がにじんでいた。
「集落にいたけど……私のこと、みんな変だって言って。魔力も、体も、言葉も。誰も近づいてこなかった」
そう言いながら、セラは尾を巻き、体を小さく縮こまらせる。
「だからここで暮らしてるの。ここなら、誰にも見られないし……誰にも、傷つけられないから」
セラがそう呟いた時、リリィはそっとその隣に腰を下ろした。
毛布の端を軽く持ち上げ、砂を払いながら、何気ない声で返す。
「寒いなら、たき火くらい使えばいいのに」
「むやみやたらに火をつけると……見つかるから」
「見つかったら、追い払われるの?」
「うん。それか、壊される。火を使えるのは、限られた日だけ」
リリィはたき火の跡に目をやった。鍋に残った焦げつきは、彼女の孤独な日々の証。
「でも、わたしはここにいる。鍋は壊さないよ」
「……ふふっ、変な人」
くすり、と小さく笑ったセラ。その表情は、どこかあどけなく、それでいて……寂しさに慣れきったものだった。
「リリィは……寒くないの?」
「寒いよ。だから、火を借りにきたのかも」
冗談のように言うと、セラは少しだけ目を見開き、それからうつむいて小さく頷いた。
洞窟の天井に埋め込まれた光の石が、ぱちっと音を立てる。
次の瞬間、空間がわずかに歪んだ。
「……っ、世界が……?」
揺らめく光が空気を満たし、洞窟の奥がゆっくりと形を変えていく。
棚が、毛布が、鍋が……いくらか年月を経たように整い、少しだけ居住空間としてまともになった。
リリィが目を細めて立ち上がると、奥の方にもう一人の人影が見えた。
「セラ……?」
そこにいたのは、先程までの子どもではない。
紫の髪と目はそのままに、背丈が伸び、表情にはどこか暗い雰囲気と覚悟が宿る。
大人になりかけた少女。
いや、もう少女とは呼べないかもしれない。
ラミアの尾が岩を這う音とともに、こちらに歩み寄ってくる。
懐かしさのようなものが、空気に混ざった。
「久しぶりね?」
成長したセラは、どこか懐かしげに微笑んだ。その表情には静かな揺らぎがあり、現実とも幻ともつかない空気が満ちていた。
「ここはもうすぐ焼き払うの」
「焼くって……この洞窟を?」
「うん。全部、跡形もなく」
静かな声だった。怒りでも悲しみでもなく、まるでそれが“決まっていた運命”のように。
「だから、あなたはもう外に出て。ここは、私だけでいいから」
セラの目を見て、リリィはすぐにそれが“拒絶”ではないと理解した。
これは、最後の片付け。夢の終わり。
リリィが一歩、洞窟の出口に向かうと、空間がふっと歪み、外の世界が目の前に開けた。
振り返れば、洞窟の入り口に立つセラの姿が小さく見える。
そして次の瞬間、奥から吹き上がるように火が走った。
火は洞窟の内部を包みこみ、石と記憶と生活の全てを、赤く染め上げていく。
「…………」
焼け焦げた匂いと熱が風に乗って届いてきた頃、リリィはふと目を上げた。
遥か向こう、山の斜面に点在していた木造の建物。かつての集落と思わしきそれらが、既に黒く焼き尽くされていたことに気づく。
「……準備、してたんだね」
洞窟の近くには、旅支度を整えたのか荷物がまとめられていた。
食料、各種道具、簡易な寝袋。
すべてが旅立ちのためだけに揃っている。
そしてその近くに、もう一度セラが現れた。
「……ねえ、リリィ。ここって、夢なんでしょ」
「そうだと思う」
「だから、今でしか言えないことを言うわ。起きたら忘れてもいいから」
セラは少しだけ顔を伏せ、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「私、あの集落の人たち、全員、殺したの。たぶん、躊躇いもなく」
「……それは」
「ひどいことをされたから、とか、自分を守るためだった、って言い訳もできる。でもね……少しだけ、嬉しかったの。ざまぁみろって思ったのよ」
声は震えていない。むしろ、平坦だった。
けれどその瞳だけが、何かを押し殺すように揺れていた。
「でも、全部終わったあとに、思ったんだ。私、何も変わってないなって。誰もいなくなっても、やっぱり昔と変わらず寒いままだなって」
セラは焼け焦げた空を見上げた。夢の空は、どこまでも灰色だった。
「それでも……“殺せた自分”に、少しだけ誇らしさを感じたのも本当。あのまま耐えて、擦り切れて、静かに死ぬだけの私じゃなくなったって思えて」
自嘲にも似た微笑みが、その横顔をかすめた。
「……ねえ、リリィ。あなたは、寒い世界でも、誰かの火になれる人だと思う。だから……ちょっとだけ、お願い」
その言葉を聞いた瞬間、リリィはふわりと引き寄せられた。
気づけば、蛇のような長い尾が自分の腰に巻きついている。
「ちょ、セラ……?」
「ねえ……少しだけ、こうしてて」
そのまま倒れるように地面に座り込み、セラは尾を絡ませながら、リリィの体を優しく、けれど確実に締めつけた。
柔らかな感触。全身を包み込む温かさ。
リリィの背に腕を回し、顔をうずめるセラの声は、ほとんど夢の中の囁きのようだった。
「やっぱり……あったかい……」
「いきなり巻きつくのは」
「リリィ。逃げないでね? せめて、夢の中くらい……」
尾の締めつけが、ほんの少しだけ強くなる。
けれどそれは支配ではなく、すがるような圧力だった。
冷えきった心が、今ようやく熱を取り戻しているのだと感じさせる、静かな執着。
「全部、焼いちゃったの。自分がいた世界も、自分を傷つけた人も。だから……今、私が触れられるの、あなただけなのよ」
「……夢の中でそういうこと言われると、起きたあと気まずくなる」
そう言いながらも、リリィは強く突き放すことはしなかった。
セラの体温が、自分の皮膚を通して、じわじわと伝わってくる。
「夢なんだから、いいでしょ……? あったかいの、もっとちょうだい……」
まるで泣き出しそうな声だった。
リリィは肩をすくめながらも、そっとその頭を撫でる。
そして、視界が白く揺れた。
夢の終わりが近づいていた。




