湖畔に向かうまでの茶番劇
あの冷ややかな月の下で美少女が一人、優雅なティータイムを楽しんでいた。月光は彼女がめくる本の1ページ1ページを照明のように照らし、紅茶の香りは穏やかな風に攫われて、甘く華やかな香りが心を満たす。そして彼女の膝下で黒猫が不満げに撫でられている。
とはいえ、その静謐は不可侵な領域ではない。
「確かに、このままだと退屈だね」
せっかくの茶会への招待状は誰にも届くことはなかったらしい。もしくは、よほど彼女が嫌われているのかのどちらかだけだろう。
「僕はただ仲良くしようと思っていただけなのにね」
わざとらしく肩をすくめ、彼女は読みかけの本を閉じた。元々、本の中身にそれほど興味はなかったし、所詮はただの暇つぶしだ。わざわざ時間を使う必要はない。
「仕方ない。彼女たちが来なかったら、僕が行くしないじゃないか」
ニャー、と黒猫が鳴き、凝り固まっていた体を伸ばす。そして、彼女を静かに一瞥すると、振り向きもせず何処かに立ち去っていった。
空が晴れ渡り、列車の窓から差し込む朝日も心地良い。その照明に照らされた植物や湖、山々を美少女がのんびりと眺めていると、彼女の隣に座っていた小さな少年が首を傾げて質問した。
「ねえ、シェン姉さん。どうして…」
「おや? 今日のジエンはいつになく好奇心旺盛だね。けれど、もう少し自分で考えたほうが良いと思うよ。それほ大した理由かもしれないし、そうでもないかもしれない。僕が正直に話すとも限らないし、すべて話すことができないかもしれない。どちらにしろ、僕から言えることは特にないよ」
少年は言われたとおりに少し考えてみて、それでも思いつかなかったようで彼女を見上げるが、やはり暫くしたら頭を振って彼女から視線を外した。
(少し難しく考えさせたかな?)
と、考えつつも、彼女は少年が頭を抱えて唸っている様を楽しんでいた。
列車の中で彼女たちが他愛のない時間は、突然の悲鳴によって中断されることになる。
「な、何かあったのかな?」
「ジエン、暫くすれば警察が来るだろうから落ち着いて席に座るんだ」
驚いて立ち上がった少年に、彼女は今まで座っていた場所を小さく叩く。
「で、でも、誰かがひどい目に遭ったのかもしれないよ?」
「そうかもね。でも僕たちはその場にいるわけでもないのに、巻き込まれる必要なんてないだろう?」
鋭い視線を送ると、少年はたじろいだ。
「うっ、……でも姉さんなら…」
「この期に及んで他人頼みか…なら、君の保護者として言わせてもらうよ。君は観客として見世物を見に行くつもりかな。だとしたら、君は僕に銃弾の飛び交う舞台で踊れと言うの?」
目線を落とし、少年は胸に手を当てて深呼吸をした。
「……分かった、僕が見に行ってくる。僕にできることは少ないかもしれないけど、誰かが危ない目に遭ったのかもしれないのに黙って見てられないから」
少年は決意すると、すぐさま一人で悲鳴の聞こえた方へと走っていった。
(誰も一人で、とは言ってないだろう)
未熟な弟にため息をついた。
少年が現場にたどり着くと、既に多くの人が外巻きに一つの個室の前で集まっていた。人々の困惑の声とともに、切羽詰まったような大きな声が聞こえてくる。
「俺はやってない!」
「貴方以外に誰がいるのよ?」
「あなただって信用ならないと思うが?」
そんな声を聞きながら、少年は大人の足を掻い潜り、個室の前まで辿り着いた。
(何が起きたんだろう?)
少年が個室の中をみようとした瞬間に、大きな手が彼を止めた。
「そこの男の子、悪いが君には見せられないんだ。他の乗客も速やかに席に戻ってください」
列車の職員が封鎖をするために民衆を遠ざけようと、少年ごと後ろに下げてゆく。
どんどん個室から遠くなる中で、殺人事件、誰が殺したと囁き声が聞こえてきた。
少しずつ状況を把握するたびに、少年はますます焦るような気持ちになった。
「少し、どいてくれないかな」
張り上げた声でもなかったが、この騒ぎをすり抜けてゆくかのように響いた。
そして、人の波から彼女がゆっくりと歩いてきた。
「ジエン。僕は君の保護者なんだから、君が行ってしまったらついていかない訳には行かないだろう?」
「ごめんなさい…でも、何かをしないといけないって思うんだ。悲しいことがあったのなら、なおさら」
少年にはその衝動が何処から来ているのか、分からないのだろう。ただ、彼女は少年が躊躇いながらも行動した勇気に免じて、少し手伝ってあげることにした。
暫くすると少し広めの個室に三人の男女と見張りをする職員、そして少年と彼女が集まっていた。
「さて、まずは現状を聞こうか」
「待てよ、なんで子どもがここにいる?」
大きな体格で怖い人相の男が少年を指さす。
「僕は…」
「小さな探偵さ。今回の事件、この子が解決してくれるから安心するといい」
「じゃあ、お前は?」
「僕? 考えてなかったね、じゃあ…僕は助手のワトソン、この子はホームズ。それで分かるよね」
「あ、ああ…まあなんだっていい」
「それで、事件の概要は…」
とある客室で殺人事件が起こった。容疑者は三人、一人目は神経質そうで身なりを気にする男性、二人目は大柄の男、三人目は華奢な女性。被害者は客室にいたところ、誰かに殺されたらしい。そして、容疑者はそれぞれ一人目から順番に客室に入った。
「つまり、誰かが嘘を付いてるわけだ」
誰もが自分は殺していないという。なら、誰かが嘘をついてる。簡単な話だ。
1人目の供述は、
「私が客室に行ったときは生きてたよ。だから、私は殺していない」
と言った。
2人目の供述は、
「俺は…奴が死んでるのを見た。だが、俺は殺してねぇ!」
と言った。
3人目は、
「わたしのときには…もう。ともかく、わたしは犯人じゃありません」
と言った。
「つまり、誰かが嘘をついているとしたら1人目か、2人目が怪しいよね…」
少年が目星をつけていると、1人目と2人目が言い争い始める。
「俺じゃない! なら、こいつが一番怪しいだろ?!」
「そう言うが、なら君はなぜ3人目が来るまで何もしていなかったんだ?」
(確かに、一番不自然なのは2人目だ。2人目が通報していれば、疑われる要素も少なかったのに…)
「お、俺は…」
2人目は先程までの威勢が鳴りを潜めて、周囲の視線が男に向けられた。
すると、突然拍手が2回鳴らされた。
「はいはい、確かに2人目が一番怪しいのは間違いないとは思う」
今まで壁にもたれて傍観していた美少女のワトソンは、コツコツと音を鳴らして部屋の中央へと向かう。
「でもさ、悲鳴をあげたのが男だって良いと思うし、実は3人目が1人目の共犯だって……なんの矛盾もないはずだ。そうだよね?」
「…何が言いたい?」
「何を今さら、誤魔化す必要なんてないよ。調べる時間なんて勿体ないし、もうそろそろ時間だ」
彼女は眠そうに欠伸をして、退屈そうに1人目の男を流し見た。男は今にもその腰に付いたナイフを抜き出そうとしている。
「シェン姉さん!」
少年の方を見ると、3人目の女が小さなナイフを少年の首筋に向けていた。
「はぁ…もうこの茶番も終わらせよう」
彼女は迫りくる男のナイフを、身を翻し、近くにあったサイドテーブルを顔に向かって振り回した。
テーブルに備え付けられていた花瓶が落ち、ゆっくり、ゆっくりと地面に近づいてゆく。
サイドテーブルは砕け散り、コツ、コツ、と世界が、ゆっくりと、流れてゆく。
少年が怯えた表情で、その涙がナイフに、
「馬鹿だね、君みたいな善人はそうやってどうでもいいことに首を突っ込んで、そして刃を突き立てられるんだ」
ナイフを軽く叩くと、砂が軽やかに風へと舞ってゆく。
そして涙を掬い上げて、少年を胸元に引き寄せる。
「?!」
そのまま女性の足を引っ掛ける。そして無様に転んでゆく様子を、僕は笑顔で見送る。
「じゃあね、僕たちはここで降りるんだ」
穏やかな湖の風が吹き、晴れ渡る空から光が降り注ぐ。山々が青々とした稜線を描き、蝶が羽ばたく。
その湖畔に蔓草が絡まったアトリエが建てられていた。呼び鈴を鳴らすと、ドタバタと音を出して玄関の扉を開けた。
「ごめん、待たせて……って、なんだあなたか」
「それは少し失礼じゃないかな? 親愛なる友よ」
僕の、親しみを込めた口調に、相手は眉を顰めて応える。
「……まあ、今回は問い詰めないでおく。ジエン君もいらっしゃい。ちょうどカヌレを焼いてたから、さあ、中には入って」
「うん、ありがとう。ポルカお姉さんのカヌレ、僕、大好きだよ」
相手は少年を優しく迎え入れた後、やはり少し抵抗感に抗いながら、玄関の扉を開けた。
「いやあ、玄関から迎えてくれるなんてね」
「だったら、これからも玄関から入って」
「君が入れてくれたらね〜」
……さて、彼女との出会いについては、まあ、別の機会でもいいだろう。ここから先を描いてみるのは、いや、やめておこう。僕にとって、あの三人のことが心の底からどうでもいいのと同じで、こんな退屈な時間、僕にはあまり耐えられないから。
それよりも、僕はそんな“暇つぶし”より、たまには本当の“遊び”をしよう。