変態退散!
自信満々に答えたシバ子だが、御使いはまだ納得がいっていなさそうな顔をしている。
けれどシバ子は悩むよりも動くほうが得意だ。
そして、シバ子にとっては御使いの胸のうちなど大して気にもならない。
それより何より、大切なものはただひとつ。
「それよりさ、どう? アタシ、ちゃんと聖女のお姉ちゃんだって認めてもらえた?」
御使いがシバ子に近づいたのは『聖女に縁のある者』だから。
ならば、シバ子にとって何より大切なのは、自身が聖女レイ奈にふさわしい姉と認められたかどうか。
答えを待ってわくわくそわそわと見上げるシバ子に、御使いはなにを思ったのか。
向かい合う距離から一歩、踏み込んでそっと身を屈めた。
ちゅ。
かすかな音とともに温もりが触れたのは、シバ子の額。
額に口づけられたのだ。
「!?」
驚き飛び退ったシバ子が自分の額を押さえるのを見て、御使いはうなずいた。
「あなたのその聖女への献身に嘘はない。重々わかりました」
「ほんと! いやでも待って。なんでいま、あたしのおでこにちゅ、ちゅ、ちゅーしたの!」
認められてうれしい。
額にキスされてびっくり。
混乱するシバ子の赤い顔を見下ろして、にっこり。
「したかったからです」
簡潔な言葉と甘やかな笑顔。
冷ややかにも思える表情が一変、やさしげにとろけた目で見つめられてシバ子は絶句した。
「!!!」
言うまでもないことだが、シバ子の人生は最愛の妹に捧げてきた。
クラスの女子が「クラスの男子で誰が好き?」なんてきゃっきゃうふふをしていた小学生時代。
シバ子は学校が終わるなり走って帰り、年下の妹と遊ぶために日々を費やした。
誰それが付き合いはじめた、告白した、だなんて浮かれた中学時代。
かわいさを増した妹を不埒な輩から守るため、シバ子は習える限りの格闘技を習い、妹の登下校に同伴した。
高校生になってからは将来、どうすれば妹のためになるかについてシバ子なりに考えつつ暮らしてきたのだ。
必然的に、男女の付き合いとは無縁の暮らしを送ってきた。
そんなシバ子の額に、異性が口をつけた。
これは大事件だった。
――したかったから? したかったからあたしのおでこにちゅーをした? 御使いが、ちゅー……初対面でちゅーする奴の仕えてる相手が、レイ奈を最愛とか言ってるってこと!?
大事件に沸騰した頭で、シバ子は吠える。
「そんな破廉恥なやつ、レイ奈の相手にはまだはやい! お姉ちゃんが許しませんッ! 変態退散!」
そう叫んだ瞬間。
シバ子の額が熱を持ち、体を包み込んだのはわずかな浮遊感。
――この感覚、覚えがある!
シバ子が直感したときには、視界を光が埋め尽くしていた。
そして瞬きの後、その姿は御使いの前から消えていた。
***
御使いは細めていた目をわずかに開き、シバ子の消えたあとを見つめる。
あたりに人影はなく、巨大な沼竜が目を回して倒れているばかり。
しんと静まり返った沼にも、巨木の影にも、小さくてすばしこい少女の姿は見当たらない。
「おやおや。もう加護の力を使いこなして、自力で転移しましたか。偶然か、それとも聖女に縁ある者としての才覚か。本当に、興味深い」
額にくちづけたのはシバ子に答えた通り、彼が『そうしたいと思ったから』だ。
そこに御使いからの加護が付随することなど、異世界から飛び込んできたシバ子は知る由もない。
そして、御使いが人に加護を与えたのがはじめてであったこともまた、シバ子には知りようもないこと。
シバ子の呆然とした顔や赤面したまま自分を見上げていた顔を思い出し、御使いはくすくすと機嫌よく笑う。
そこへ、光がひらりと天からこぼれてきた。
「我が神。あなたの最愛はまだお戻りではありません」
人の耳には聞こえない、何かをとらえて御使いが宙に応える。
はらはらと落ちる光が数を増し、それはまるで急かすように御使いのうえに舞い降りては溶けていく。
「愛おしい方に会えるのが待ち遠しいのはわかりますが、不用意に動くのはおやめください。最愛さまとお約束したのでしょう?」
はらり。
降った光はひとかけら。すねたようにちらついて、掻き消えた。
神の気配が遠ざかったのを感じて、御使いはひっそりと肩の力を抜く。
ふと見やれば、気を失っていた沼竜がのっそりと起き上がり、巨体に見合わぬこそこそとした動きで這い逃げていく。
どっしりとした体躯が沼に消えるのを見送って、御使いは形のいい鼻をすん、とひくつかせた。
「……城に戻りましたか」
彼が探していた匂いは、思っていた通りの場所にあった。
御使いの与えた加護は、彼女の願いを助けるもの。
願いが強く、純粋であるほど加護も正しく働く。
そんな加護を働かせられたシバ子の真っ直ぐさを喜びながらも、御使いの心中は複雑だ。
消えたシバ子の香りを捉えたのは、彼女を見つけた城のなか。
シバ子が「戻らなければ」と強く願ったその場所で、城に住まう王子と共に居た彼女の姿を思い出して御使いはふんと鼻を鳴らす。
「界をまたぐほどの加護は与えていませんからね、この世界で最も長く過ごした者の元へ向かっただけのこと」
誰にともなくつぶやいたのは、面白くない気持ちを吐き出すため。
吐き出そうとしてから、御使いは自分の感情に気が付いた。
「ふむ、これが嫉妬ですか。つまり僕の胸に湧く感情が、我が神が最愛に抱く愛おしさというもの」
ふむ、ふむ、ふむ。
自身の感情を直視した御使いは、胸に湧く甘やかな思いと、同時にくすぶる苦みを覚えさせる感覚とをはっきり自覚し、顔をほころばせた。
「やはり彼女は興味深い。シバ子さん、でしたか」
湧き上がる感情に身を任せた彼は、この世に生じて初めて御使いとしての顔を投げ捨てる。
ぺろりと唇を舐め、細めた目で見つめるのはここにいないシバ子の姿。
「またお会いしたいものですね。できれば、今すぐにでも」
つぶやくその顔に浮かぶのがまるきり獲物を狙う獣の表情であることを、指摘するものはそこにはいなかった。