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3-2 襲撃



 白い湯気が漂う湯に浸かると、全身から力が抜けた。


「ふぅー」


 一人では広いくらいの場所は、皇宮の皇帝の住まいにある専用の湯浴み場だ。

 外の景色を見ながら入れる外風呂と室内風呂があり、珠里が使用しているのはもっぱら室内風呂の方だった。

 床の四角く凹んだ部分が浴槽となる作りになっており、浴槽を出たところに、珠里の沐浴の手伝いをしていた蝶翠が控えている。


「あーたーまーが、沸騰するー」


 石の縁に頭を預けて、珠里は気の抜けた声を出した。

 考えすぎ、人を疑いすぎてきりがない。

 何も証拠がない。

 手がかりも、手探りで手を伸ばしてそれが手がかりになるかどうか成果を待っている状態だ。


「今日もお疲れですね」

「うん」

「お肌にもお髪にも表れています」

「えーそんなに?」

「少しだけ、です」

「琅軌様と虎月様のお陰で、皇帝の振りに関しては思ったよりも大変じゃないからかなぁ」


 珠里の間延びした返事に、「それはようございました」と柔らかな声が言う。

 蝶翠が髪をすいてくれる感触があまりに心地よくて、珠里は目を閉じた。


「寝ないでくださいね」

「うん」


 目を閉じて何も見えなくなると、まるで燕家にいるかのようだった。

 しかし、ふわふわとした思考にふと陰が差す。

 ──五年前の記録に載っていた道士へ話を聞きに行った使者は、まだ戻って来ないだろうか。いや、里が遠い者もいて少なくとも七日はかかるとか聞いていたか。

 湯の中で書物を読めずとも珠里の思考は動き続けている。夢の中でも考え続けている気がする。


 珠里が皇帝の身代わりを始めてから、五日が経った。

 何一つ進展していない。何一つ明確な手がかりがない。

 五年前の件と繋がっているのかどころか、今回の件でなぜ天栄は暗殺されそうになったのか、なぜ呪いの媒介なしに呪いは届けられたのか。怪しい者がいて、理由や動機もあるのに、証拠が見つからない。分からない。


「私を、呪えばいいのに」

「──姫様、何ということを」


 閉じていた目を開けて、珠里は口元だけで苦笑した。声に出すつもりはなかったのに、唇から力が抜けていた。


「蝶翠、このままじゃ駄目なの」


 水面を見下ろすと、髪が一筋落ちて、波紋を作った。


「……天栄が命がけで作っている機会を、私はちゃんと掴まないといけない。私も、命を懸けないといけない。天栄がここでずっと命を張っていた分、ここからは私が。……そういう約束を、した」


 水面に映った顔は、不安そうな顔をしていた。──何を、今さら。


「負けない。負けないための、約束でもあった」


 勢いよく顔を上げ、珠里は手のひらで自らの頬を叩いた。


「急にお動きになられないでくださいませ。それに、お顔が腫れます」

「腫れるくらいでちょうどいいわ」

「ちょうどよくありません!」


 ぶつぶつ言う侍女にまた髪をすいてもらいながら、天井を見上げた。

 もうすぐ、先帝暗殺事件から五年。今年は天栄の成人の年でもある。


 ──生きよう、天栄。生きて、天栄。私、頑張るから


「明日からも頑張る!」


 むん、と拳を握りしめ、珠里は気合いを入れた。


「これ以上頑張られましたら、蝶翠は心配です」

「まだまだ余力はあるわ」


 余裕ではないが、まだ足りない。そう言ったが、侍女は物憂げな顔をする。


「……夕刻頃、奥様からの手紙が届きました。部屋に置いてございますから、お読みになってくださいませ」

「心配、してるんでしょうね」

「旦那様も、若様方も、心配しておられます」


 父も兄二人も皇宮仕えだ。珠里がうろうろしていることは、少なくとも長兄暁雲から耳に入っていることだろう。


「蝶翠は、応援してくれる?」

「心配『も』しています。……ですが、生まれたときから、お側にお仕えして来ました。ずっと姫様のことを見てきました」


 誰よりも心配そうな顔をしているのが想像できた。けれど、誰よりも珠里の意思を尊重してくれることを分かっていた。


「蝶翠、ありがとう。どこまでもついてきてくれて、側にいてくれて、ありがとう」

「……どうしたのですか、急に」


 照れかくしの言葉に、珠里はふふ、と口元を緩ませた。そのとき。


 ぞわりと、肌が粟立った。


 珠里は唐突に立ち上がった。その急な動きにぱしゃりとお湯が微かに波打った。


「姫様、お髪が抜けてしまいます。……姫様?」


 呆れたように小言を述べかけた蝶翠が、珠里の様子に怪訝そうな声を出した。

 珠里の顔には緩みが一切なく、真剣な顔で室内を見ていたのだ。

 侍女の呼びかけにろくに反応せず、珠里は辺りを見渡しながら浴槽から上がる。濡れた石が裸足の足の裏に冷たい。

 すかさず肩にかけられた薄い衣を手探りで身に纏うと、薄い衣はぺたりと肌に張り付く。あまり好きではない感覚なのだが、今ばかりは気にならなかった。


 否。気にする余裕がなかった。

 嫌な感覚がする。しかし警戒して室内に視線を巡らせても、白い湯気が漂うばかりで異変は見られない。

 隠れられるところは基本的になく、入り口に衝立があるくらいだが……そちらは気にならない。どちらかと言うと──


「……外?」


 硝子がはまった窓の方に目をやり、珠里がぽつりと呟いた直後のことだった。

 鼓膜を揺さぶるほどの破壊音と共に、壁がなくなった。


「──な」


 少し冷えた外気がびゅおおと湯気を吹き飛ばし、室内に入り込む。その風にぶるりと震えながら、珠里はとっさに蝶翠の前に立った。

 一体何が、このように壁を破壊したというの? 火薬? 爆発? 大きな岩でも転がって来た? 

 非現実的な想像さえ混じった予想は、どれも当たらなかった。

 がらがらと破壊された壁の瓦礫が全て落ち、視界が晴れたとき、窓から見えていた夜空が前方にいっぱいに広がっていた。

 その、星が瞬き、月が浮かぶ空を背後に『それ』はいた。

 巨大な狼のようで、決して地からは離れられないはずの獣は宙に浮き、狼には見ない紫色の毛皮を持っていた。

 そして、はっきりと目に見える黒い靄を纏っていた。


「怪……!?」


 ここは大爛国で最も厳重な結界が張られた皇都、皇宮だ。

 あり得ないとか、五年前の再現かと、考える暇はなかった。無意識に符を取り出そうとした手は空をかいた。当たり前だ、今、服を着ていない。

 ──私には、怪を払える力がない!


「蝶翠、逃げるわよ……!」

「はい!」


 自分の身も、蝶翠も守れない。逃げるしかないと珠里が出入口の方に走り出すと、外に控えていた女官たちが騒ぎを聞き付けて何か言っていた。

 沐浴のための部屋は、一人や二人では広すぎると感じるが、部屋の端から端まで行くのに大変時間がかかるほどではない。ただ、状況ゆえに長く感じる。

 そして、状況と環境のために不幸な出来事は重なり続ける。蝶翠が、濡れた石の床で足を滑らせ転倒した。


「蝶翠!」

「私のことは置いて、お逃げになってください!」

「そんなこと絶対しない!」


 怒鳴るくらいに侍女の主張をはね除け、珠里は蝶翠を立ち上がらせようとする。そうしながら、怪の位置を確かめるべく後方を見た。


「っ!」


 穢れに満ちた息がかかった。

 怪は、すぐそこに迫っていたのだ。その大きな爪が生えた前肢が振りかぶられた光景を見て、とっさに蝶翠を押し、珠里は自らも床を転がるようにして逃れようとした。

 爪は肉を裂くことはなかったが、珠里が沐浴のときにも身に付けていた護符を首から下げるための紐を掠り、それだけで糸が切れるように紐はあっさり切れた。


「──う」

「姫様!」


 すぐさま立ち上がろうとしていた珠里は、邪気を強く感じて再度膝を折る。

 邪気が身にまとわりつき、重しになったようだった。視界はもはや真っ黒で、息が苦しい。

 まずい、このままでは。珠里は、意を決して口を開こうとした。

 しかしそれより早く、


仙獣せんじゅう白虎びゃっこ、力を貸したまえ!」


 低い声が響き渡り、空気を斬る鋭い音がした。

 白い線を描いて怪に肉薄したものがあると見えた次の瞬間には、金色の目をした白い虎が珠里たちと怪との間に割って入っていた。

 白虎が降り立ちついでに前肢を石の床に叩きつけると、床に亀裂が入り、ぶわりと清廉な『気』が怪を牽制する。

 それに怪が嫌がるように後退した隙に、白虎が珠里の元へ来る。

 ふわ、と柔らかで温かな風が吹き、気がつくと珠里は虎月に庇うように抱き抱えられていた。

 力強い腕が、珠里を引き寄せる。

 人の姿に戻ってはいるが、白虎の名残にその瞳は金色に光っていた。


「虎、月様」


 爛々と光る金色の瞳が怪を睨み、珠里を抱いた方とは別の手が剣を構えている。

 その刃に白い光が宿り、強い『気』を珠里が感じたと同じに、怪も感じたのだろうか。怪は壁が破壊された方から外に出た。


「逃げるか」


 普段より低い声が言い、彼の口から次に発されたのは、綺麗な遠吠えだった。

 夜空に狼のごとく遠吠えを響かせ口を閉じた虎月は、怪を追おうとはせず、鋭い目付きのまま怪が逃げていった方を怪訝そうに見ていた。


「……今のは怪か? それにしては、人間の呪いの気配のような……」


 そうやって前方を睨んで険しかった顔がふと優しくなり、珠里を見下ろした。

 黒に青が混じった色彩に戻った瞳が、珠里を上から覗き込むようにする。

 その瞳に、眼差しに、二度と戻ってこない日々の記憶の欠片が甦る。いつかもこうして抱き留められて、上から心配そうに覗き込んだ人が──。


「り、」


 し? 声は掠れて、ほぼ出ていなかった。


「怪我は」


 問われて、珠里ははっとする。


「え、と、」


 ないはず、と体を見下ろして、珠里は硬直する。

 元々沐浴中で、濡れた肌に纏った薄い衣が張り付いて、肌が透けていた。

 珠里は即座に自らの体を抱き締めるようにして隠した。それだけでなく、腰を抱かれた手を意識して、かあぁと顔が熱くなる。薄い布一枚隔てただけなので、手の感触が無防備な箇所に感じられて恥ずかしい。


「──失礼しました」


 虎月も、今珠里がどんな格好なのかを自覚したらしく、頬を微妙に赤くして律儀に目を逸らした。抱き寄せられた力がさりげなく緩む。


「い、いえ。虎月様、ありがとうございます。私に怪我はありません──蝶翠、蝶翠は」


 きょろきょろと左右を見ると、「ここに」と蝶翠が出てきてくれた。


「怪我はない?」

「それは私の言葉です。護符を。……部屋に戻ったら新しいものをつけましょう」


 取れた護符を見つけてくれていたようだ。蝶翠は千切れた紐を結び直して、体を拭くための大きな布をかけてくれた。

 互いにほっと息をついたところで、珠里は改めて虎月を見上げる。


「虎月様、あの怪は」

「他の仙獣戦士に伝えましたから、ほどなく討たれます」


 そう言った直後、凄まじい気を感じた。


奏春そうしゅんが──青龍の仙獣戦士が対応したようです」


 あれが仙獣戦士の本来の力と思うと、先程の虎月の立ち回りを見るに、室内で珠里たちがいるから力を抑えたのだろうか。


「手を離しますが、歩けますか?」

「はい」


 と言ったものの、いざ虎月の手が離されて崩れ落ちかけた。虎月がまたとっさに支えてくれていなければ、珠里は膝を強かに打ち付けていただろう。

 脚に全く力が入らなくて、珠里は自分でも呆然とする。


「……ごめんなさい、腰が抜けたみたいです」


 珠里が力なく笑って虎月に言うと、虎月は「ここでなければ落ち着くまでお待ちするのですが、失礼致します」と詫びて、宝物を扱うようにそっと珠里を抱き上げた。

 珠里の格好が格好だからか、虎月は決して見ないようにして、珠里を浴場を連れ出してくれた。

 女官たちに体から水気を拭き取ってもらい、着替えてもまだ立ち上がれなかったので、虎月に再度抱き抱えられて場を後にする。間もなく人が多く来ることになるので、出来るだけ早く離れなければならなかったのだ。


 黙々と虎月に運ばれる珠里は、運んでもらっている情けない状況と沈黙に耐えかねて、口を開く。


「怪は、怖くて」


 虎月が、こちらを見たのが分かった。珠里は恥ずかしくて、視線を上げないまま続ける。


「幼い頃、都の外で怪に遭遇したことがあって……そのときも、白虎の仙獣戦士に助けられました」

「それはきっと、俺の父ですね。こう白璨はくさん、五年前まで白虎の仙獣戦士でした」


 その言葉に、思わず珠里は顔を上げた。


「虎月様の、父君でしたか」

「今は隠居しています。五年前、陛下をお守り出来なかったからと」

「そうですか。……当時、私があまりに泣いているから、白虎の姿のままでいてくれて、宥めてくれました」

「部屋に戻って落ち着いたら、なりましょうか」

「いいえ、私はもう子どもではありませんから」


 珠里が首を横に振ったのに対し、虎月も頭を振った。


「子どもではなくても、守られていいんですよ。泣いたっていいし、頼ってもいい。怖いものがあったっていい」


 虎月は優しい眼差しで珠里を見ていた。


「それに……こんな形で知りたくはありませんでしたが、あなたにも人並みに怖いものがあったようで安心しました」

「……前に、あなたに刃を向けられて狼狽えていたことがありましたよ」

「あれは、陛下が信用する俺を信用していたから、まさか刃を向けられるとは思っていなかったというものでしょう」

「そうですが……?」

「あなたは、もうどうしようもないというときは、恐れることなく覚悟を決めて自らの命を刈り取るものを受け止めてしまうかと思っていました。──死すらも」


 珠里を抱く手が、ぎゅっと珠里をより力強く抱いたかに感じた。


「死が、怖くないわけではありません。ただ、自分の命を懸ける覚悟があるだけです」

「今回陛下の命を受けた理由に、ですか」

「そうです。……虎月様は? 怖いものはないのですか?」 


 珠里が話を逸らそうと、虎月に問い返すと彼は「怖い『もの』ですか?」と首を傾げた。

 答えを探すように、青が滲む黒の目が遠くの方を見る。


「未だに夢に見続けるような怖いことはありますが、ものはありませんね」

「怖いこと? 怪に襲われたりとか」

「いえ」


 虎月はそれ以上答えなかった。少しの沈黙が生まれたあと、彼はそっと珠里を呼んだ。


「言い忘れていたことがありました」


 虎月が、まっすぐに珠里を見た。この上なく真剣な眼差しだった。


「どんな約束をしてここにいるのか話していただけないとしても、俺はあなたを守ります。あなたの側にいます」


 真摯な眼差しと言葉に、珠里の胸が疼いた。その感覚に、思わず胸元を握りしめると、目ざとく気がついた虎月が気がかりそうにする。


「怪我でもされましたか」

「いえ、怪我はしていません。大丈夫です。ちょっと、寒くて……」


 本当は違ったけれど、珠里はとっさに誤魔化すような言葉ばかりを並べていた。

 でも、自分で寒いと言ったあとに何だか妙だと気がつく。湯からあがって、時間が立つ。なのに、湯冷めするどころか……。


「あつい……」

「珠里様?」


 怪訝そうな虎月の声が遠ざかっていく。




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