3-1 先帝妃の見舞い
最も影響が少ない方法で調査資料を手に入れ、翌日から、珠里は早速皇帝の執務の合間を縫って目を通し始めた。
今日も琅軌が書簡を読んでいる傍ら、五年前の調査記録を読む。
楽燿が言っていた通り、道士側の調査の総指揮が途中で道士長から副道士長に変わっており、その理由も記されていた。
途中の頁から、日ごとの確認印と記帳者の名も当時の副道士長のものになっている。
普段の仕事ならともかく、事は皇帝暗殺事件の調査資料。総指揮を取った人間が報告書を記しているはずだと虎月に聞いた。
また、当時楽燿は、皇宮の現場近くの庭の指揮を担当していたが、あまりの惨状に別の場所の応援も行っていたらしい。腕が立ち、頼られている証拠ではないか。
そして当時も呪物は見つからなかったという。部屋の中、廊下、建物の下の地面、考え得るどこからも。
果たしてこれは五年前も今回も、最初からなかったのか。本来はあったが、誰かが混乱の最中に持ち出したのか。
「皇宮って、怪しい人ばかりよね……」
そう出来る人間はと考えると……と珠里はため息をついた。
「策謀が渦巻いておりますからね」
琅軌が平然と言うが、自らもその渦中で時には策謀を巡らせ操る人間だろうに。
それらの策謀の中には、皇帝を含めた政敵などの暗殺はざらにあるのだ。
「五年前と今回と何か関係はありそうですか?」
「うーん、今は何とも」
しかし天栄は五年前の件と、今回の件が関係ありと見て珠里をここに呼び寄せたはずだ。勘だろうか。いや、五年前の犯人が捕まっておらず、今回彼が呪われただけで疑うべきところがある。
五年前と今回、皇帝が狙われた理由を考えてみる。
高官の中に、皇帝の政策に不満を持った者がいるかもしれない。
はたまた、そのときの皇帝を殺し、次の皇帝に自らの家から出た妃の子を立てるためかもしれない。
前回天栄を取りこぼしたために、今回暗殺しようとしているのかもしれない。
蓮妃含め、先帝の妃は全員貴族の娘だ。父親は全員が皇宮で役職についている。
天栄はおそらく、その可能性を考え、五年前にも妃が関わっていた可能性もあると思って彼女らを残しているのだろうから。
「……ん?」
ふと、頁を送ろうとしていた手を止めた。
「穢れの影響を受けた道士、ですか」
近くから声が聞こえたと思ったら、虎月が「どうぞ」とお茶請けを邪魔にならない位置に置いてから、「その道士たちに気になる点でも?」と聞いてきた。
「気になる点というか、この人たちに当時の話を聞けないかと思いまして」
調査を担当した道士のうち、穢れの影響を受けて里に帰った道士がいると記してあったのだ。
皇宮内にいる道士に話を聞き回ると、不審がられるかもしれないし、話を聞くのにちょうどいい。
「手配しましょう。何を聞けばいいか、まとめておいてください」
「はい、ありがとうございます」
では記録を読みながら書き留めておこう。珠里が筆を手にしたときだった。
「陛下、蓮妃様がおいでです」
珠里は弾かれたように顔を上げ、虎月と琅軌と顔を見合わせた。
それさら琅軌が外の方へ「何の用かと陛下が聞いておられます」と問いかけ、返ってきたのは「お見舞いにとのことです」という内容だった。
お見舞い!
待っていた。珠里は机上に広げていた記録を素早く引き出しに仕舞った。次いでさっと衣服を確認し、表情を引き締める。
これで大丈夫かと最終確認用に、とっさに虎月を見上げれば、同じく持っていた盆をどこかに隠したらしい虎月が一瞬の間のあと、頷きを返した。
「よろしいですか?」
前を向くと同時に、珠里は琅軌の確認に一言。
「通せ」
ほどなくして衣擦れの音が微かに聞こえ、中に華やかな色が入ってきた。
頭を垂れて入室してきたため顔は見えないが、先帝の側室が一人、蓮妃だ。今日は子は一緒ではないようだ。共に宦官が一人、女官が一人入ってきたくらいか。
女官が何か持っているのをちらりと確認したあと、珠里は皇帝として頭を上げるよう命じた。
そうして明らかになった蓮妃の控えめな微笑をたたえた顔を冷静な表情で見て、問う。
「蓮妃、見舞いとは何の見舞いだ?」
蓮妃は見舞いされる心当たりが一切ないというような声色に、戸惑った様子になる。
「寬弦に、陛下が臥せっておられたと聞いたのですが……」
そう言って、蓮妃は後ろの方に立っている宦官の方を気にする様子を見せた。なるほど、あの男が寬弦らしい。
「寬弦、申してみよ」
「はい。陛下におかれましては、数日前床に臥せっておられたと耳に致しました。呪いが送られたために道士に調査させていたとも聞き及んでおります」
予想通り、どこからか蓮妃に情報は流れていた。
「申し訳ございません。五年前のことを思い出してしまい、心配で……陛下までと思うと怖く。要らぬお世話かもしれませんが、いても経ってもいられず……護符を持って参りました」
蓮妃は、女官が手にしていたもののうち一番上の薄い布を受け取り、控えめに『皇帝』の方に差し出した。
さて、これは受けとるべきだろうか? 受け取るだけ受け取るのが正解の気がする。天栄は周囲のほとんどを信じていないが、信じたくないわけではないだろうから。
そう結論を出したところで、珠里はそういえば……と引き出しに仕舞った記録を意識した。
護符と言えば……先帝は道士による護符を持ちながら呪い殺された。
当時誰かが責任を取る必要があったからか、その護符に欠陥があったとされ、当時の道士長は地位を追われ命を絶った。
という記述があったことを思い出し、珠里の視線は自然と蓮妃が差し出す護符に吸い寄せられていた。
「陛下?」
続く沈黙に、琅軌が微かな声で珠里に呼びかけた。答えに困っているのなら助け船を出そうとしてくれたのだろう。
その声で、珠里は黙りのままであることに気づかされ、急いで何でもないと言おうとした。
が、少し思い至ったことがあってやめる。ちらりとまた蓮妃の方を見やり、それから琅軌に視線を戻した。
「先帝の護符に欠陥があったことを思い出していただけだ」
琅軌に向かって答えたようで、しっかりと蓮妃側にも聞こえるように珠里は言った。
意味ありげに、ゆっくりと蓮妃の方に視線を向けると、蓮妃は一瞬何を言われたか理解できなかったようにぽかんとしていたが、刹那さっと青ざめた。
当時の道士長が、護符の欠陥の罪を問われたことは皇宮にいた者なら知っているだろう。彼が皇帝暗殺の犯人だとまことしやかな噂が流れたようでもある。
「これは、そのような。決して陛下を害するものにはなりません。気になるようでしたら、せめてお守りのようにだけ思って持っていてくだされば……」
「そうだな、護符は道士長のものを差し置いて身につけるわけにもいかない。ああ、それならば清心にやってはどうだ」
「清心に、ですか?」
蓮妃が発言の意図が分からないという風に首を傾げる様を、珠里は目を細めて見る。
視界には、皇宮に来てからほとんどの場で見ている薄い靄が漂っている。呪いの元となる、穢れ、邪気はときとして人から発される様を見ることもあるが……。
珠里は、机の陰で見えない位置でそっと片方の腕を袖から衣服の中へと引っ込めた。そして、身に付けている二つの護符の内、燕家から身に付けている方の組み紐をそっと解いた。
瞬間、微かに体が重くなり、息もしにくくなる。それらをぐっと堪えながら一度瞬きし、開いた視界は少しだけ様相を変えていた。黒い靄の範囲が増えていた。
その発生源は──。珠里は音もなく唾を飲み込み、口を開いた。
「私に何かあれば、清心に後を頼まなければならないからな」
『皇帝』の発言に、蓮妃のみならず、室内の空気が凍りついた。
「──そ、のようなもしも、口にされるものではございません。どうか元気になって、この国をお願い申し上げます」
蓮妃が青ざめ、訴えかける目をする。
『皇帝』は酷薄な笑みを口元に滲ませた。
「元気になるもなにも、蓮妃。私は病でも何でもない。もしも、の話だ。父上のように、いつ命を狙われるとも知れない世のようだからな」
この固い空気が変わることはないまま、蓮妃との対面の場は終了した。
結局受け取るだけ受け取った護符を横目に、珠里はふっと表情筋を弛緩させた。衣服の中で体から離していた護符を元に戻し、袖に通して出した手で目元をおさえる。
「……皇宮には、怪しい人しかいない」
「蓮妃様が怪しいとお考えですか?」
「蓮妃様『が』、というより蓮妃様『も』ですね。動機はある者なんて、妃の中でさえ彼女に限らずまだいるでしょう?」
珠里は琅軌に苦笑を向けた。
本来、新たに皇帝が即位すると、皇帝の母を除き、後宮は解散となる。
子を産んだ妃のみが新たな住まいを用意され、他の者は降嫁か里帰りとなる。
歴史上では、即位後に皇帝が他の兄弟を皆殺しにしたという血なまぐさい時代もあったようで、その辺りは即位した皇帝のさじ加減だ。
しかし天栄は即位してから五年経っても、先帝の妃たちが後宮に残ることを許している。
そして妃たちの実家側も、現皇帝が新たに後宮に妃を迎え入れる動きがない今、妃に選ばれる可能性を考えて帰らせようとはしていない。
「ええ、腐るほど。小賢しい十五の皇帝が目の上のたんこぶになるのなら、暗殺して次の皇帝を操ろうと思う者も、そもそも自らの娘が皇子を産んでいればその子を皇帝に据えたいと考える者はいるでしょう。後者の場合は、元より皇帝の身内になるために娘を送り込んでいるのですから」
先代皇帝の皇子は、天栄の他に二人いる。
一人が蓮妃の子の清心で、もう一人は桔妃という、実家の位はあまり高くない妃の子だ。
だが、天栄が彼女たちを後宮にそのまま残している理由は、決して純粋な温情ではないはずだ。彼は五年前の事件に執着している。
──いや、それは自分もだ。珠里は目を伏せる。そのためにここにいる。そのための約束をした。
「先程の護符の件、反応を試しましたね」
さすがにわざとだとばれているだろうとは思っていた。
蓮妃とのあの場の目的は、皇帝に呪いの影響が残っていないことを見せることだ。そして護符は軽く流して受け取っておけば良かっただけの話で、わざわざ五年前の話を持ち出して、蓮妃を揺さぶる必要はなかった。
その上で、珠里はこれは好都合だとわざと不安を煽る話題運びを選んだ。
「はい。でも、結果的に彼女には気の毒なことをしたかもしれません」
「と、言いますと?」
「蓮妃は、純粋に天栄の心配をしてくださっていたと思います」
彼女から黒い靄は発生していなかった。相手を疎ましくも怨んでもおらず、単純に珠里の返事に困り、戸惑っていた。
「それと、あの護符には何も仕掛けられていないでしょう。大事な子どもに、何か仕掛けられた護符をと言われたら多少なりとも動揺するでしょうから。……利用されているだけならまた別ですけど」
宦官の方からは靄が出ていた。少なくともあの宦官は皇帝に良からぬ感情を持っている。
蓮妃の実家は柳家だ。
父親は皇帝直轄の部署の一つの長官。蓮妃が本当に何も知らなくとも、知らず知らずのうちに加担させられていることはあり得る。
例えば、今日の見舞いの品に何か仕込んで、父親が蓮妃に渡させた場合、蓮妃は後ろめたく感じることはないのだ。
「彼女の父親は、先代の皇帝と対立していたりしたか知っている?」
「私はそのとき丞相ではありませんでしたが、今は隠居している父から聞いた話での印象では、先代の皇帝陛下と対立していたというより──皇后様の家と犬猿の仲だということの方が印象に残っています。今も、長官同士がやりあっているではありませんか」
珠里は会議の場を思い出して「確かに」と相づちを打った。
五年前と関係がない場合、政敵の娘の子供が皇帝についたため、自らの娘の子を皇帝に据えるために今回暗殺しようとしている、とだけ考えられる。
五年前と関係があるのなら、皇帝も皇后もその子どもも始末しようとしていて、けれど五年前は天栄を殺し損ねて改めて自分の娘の子どもを皇帝の位につけようとしているとも考えられる。
全部、推測に過ぎない。
「……手がかりが欲しい……」
珠里は呟く。いっそ、自分を呪って来ればいい。むしろ、それを待っている。
──そのとき、傍らにいた護衛は、皇帝と全く同じ目を珠里に見た。呪いにかけられるのを待っていたかのようだった、底のない黒い瞳を。