2-2 染み付いた感情
遠回りして執務室に戻ると、「お帰りなさいませ」と琅軌がばっこんばっこんと豪快にせっせと印を押していた。皇帝の印がいる書簡だろう。
珠里はささっと琅軌のいる机まで寄っていって、袖を軽く捲る。
「代わります」
「ありがとうございます。ですが先に着替えてからですね」
「そうでした。すぐ着替えます」
部屋の奥に衝立があるため、衝立の向こうに引っ込むと燕家から一緒に来てくれた侍女の蝶翠がひっそりと控えていた。
女官装束を勢いよく脱いでしまい、蝶翠の手を借りながら皇帝に化けていく。そうして女官装束よりも動きにくい格好に戻り、表情をいつでも天栄仕様に出来るように練習しながら戻ると、琅軌に印を渡された。
「では私が目を通して、印を押しても良いと思ったものをここに置いていきますので印をお願いします」
「分かりました」
珠里は早速置いてあった紙を取る。印に赤い色をつけ、恐る恐る印を押して離すと、くっきりと印がついていた。
「丁寧になさらなくとも良いですよ。全体が写れば良いので、勢いよく雑にどうぞ」
「さっきの琅軌様の勢いだと、壊れそうでしたけど」
「思っているよりも丈夫ですから」
そういうものなのか。そういう問題なのか。と思いつつ、珠里はさっきより気持ち勢いよく、速さを重視した印の押し方に変更した。
「お茶を淹れます」
「ありがとうございます」
虎月の声に反射的にお礼を言ってから、疑問に思って、……ん?と珠里は顔を上げる。
「……虎月様が淹れるんですか?」
「はい」
虎月が振り返って「それが何か?」と聞こえてきそうな首の傾げ方をした。
珠里も首を傾げる。普通、お茶を淹れる役目は少なくとも護衛武官のものではないのでは? だって護衛武官の仕事は護衛だ。
「この弟それなりに信頼されているようでして、陛下は虎月が淹れるのなら毒味を介さないと仰って、それをいいことにこの部屋には雑用を行う者はめったに立ち入らないのです」
首を傾げ合う二人を見かねてき、書簡から目を上げないまま、琅軌が答えを寄越してくれた。
どうやら、本当に虎月は天栄に信頼されているらしい。そんな護衛武官に出会えて良かった。珠里は少し、安心する。
「そうだ。琅軌様、蓮妃様はここにいらっしゃいましたか?」
お茶を淹れに虎月が退室したあと、そういえばとずっとここにいただろう彼に聞いてみた。
結局、遠回りの道中では二度と蓮妃一行には遭遇しなかったのだ。
琅軌は「ええ、はい」と頷いた。
「お見舞いに?」
「はい。当然お帰りいただきましたが、一度会っておくのが良さそうですね」
「私もそう思っていました」
「ですが、あなたはしたいことをなさってくださって構いません。留守のときにいらっしゃるようであれば、今度は影を使います。陛下に許可はいただいていませんが、少しくらい良いでしょう」
「少しくらいと思ったことで、今これほどにある信頼がなくなるかもしれません」
珠里が手を止め琅軌を見ると、彼もまた珠里を見ていた。
「そんなことはなさそうなくらい、琅軌様も虎月様と同じように信用されているようなので無用の心配かもしれませんけど」
珠里は本心で言ったのだが、このとき初めて琅軌が複雑そうな感情を表情に滲ませた。
「……私は、あなたが私達に対してそうであるように、陛下が虎月を信頼し、その虎月が私を信頼しているのでここにいるのですよ」
「え?」
そのとき、虎月が盆を片手に戻ってきた。
「何ですか?」
珠里が戻ってくるなり虎月を見つめたので、虎月が不思議そうに尋ねた。
「い、いいえ、武官の格好とお盆があまりに見ない組み合わせだったから。ありがとうございます、虎月様」
「陛下にまずいと言われなくなったので、まずくはないと思います」
最初はまずいと言われていたのだと察せた。
でも無理もないと珠里は思う。皓家と言えば、燕家と同じように名門貴族だったはずだ。
つまり虎月は皓家の若様で、お茶を淹れてもらう立場にあっても、お茶を淹れる機会なんてなかったはずだ。
そこまでして、虎月にお茶を淹れさせ、毒味を省いた。虎月の何が天栄を信用させたのだろう? 虎月の人柄が良いとは感じるが、それが裏表変わらぬ姿だと信じるのは難しいはずだ。
「──うわぁ、お茶美味しいです」
「それは良かったです」
ところで、何の雑味もないお茶は、滑らかな舌触りもさることながら、香りも逃さず鼻を抜けていく大変美味なものだった。とても武官が淹れたとは思えない。
そんな美味しいお茶を飲みながら、珠里は虎月を横目で窺う。
……まあ天栄が信用しているのだから自分にとってはそれで良いだろう。珠里は茶杯を置くとともに、思考も置いて、視線を琅軌の方にやる。
「ところで琅軌様、仕事を増やしても構いませんか?」
「何なりと。どのような命令にも従えと仰せつかっております」
「では、今回の件の調査記録と五年前の皇帝暗殺事件についての調査記録が欲しいです」
珠里の置いた茶杯に、お茶を追加で注いでいた虎月の手が止まる。
虎月は、珠里を凝視した。
「まさか、調査をするつもりですか」
「ええ、そう」
「それも五年前のことまで」
「うん」
珠里の淀みない返答に、虎月の方が言葉が詰まったように口を閉ざす。
しかしそれも少しの間のこと。
「約束」
一言、虎月は言った。虎月は茶器を傍らに置き、真剣みが増した顔で珠里を見据えた。
「あの日、俺があなたに渡すように預かった紙には『約束』と書かれていました。珠里様は、何を、陛下と約束なさったのですか」
「……聞きたいことがあると仰っていたのは、それですか?」
「はい」
聞かれると予想はしていた。だから珠里はあらかじめ決めていた答えを返す。
「秘密です」
虎月はぐっと何か抑えるような表情になりながらも、食い下がる。
「……陛下は呪いに倒れた際、苦しみながらも笑みを浮かべておいででした。『尻尾を掴むときが来た』と」
内容ゆえに無意識にか、小さな声で虎月は言った。
「どんな笑みを」
「こちらの背筋が凍るような、妙な迫力がある笑みでした。……普段、陛下は会議の場などで大人を気圧すような笑みを浮かべられることがありますが、それは作られたものです。ですが、そのときの笑みは心の底から出たものだと感じました」
まるで、呪いにかけられるときを待っていたかのように。
「そしてあなたは、陛下の命を戸惑うことなく受けました」
それがいずれ来る命であると待ち構えていたかのように。
「正直陛下は療養されるつもりには見えません。今この状況ではまるで、あなたを囮に──」
「虎月様、言えません」
もう一度、珠里は答えた。
天栄が言っていないのなら、言えない。言っていいか分からない。自分はそれほど虎月を知らない。今、珠里が虎月を信用しているのは、天栄が信用しているからだ。
「……分かりました。すみません、陛下が仰っていないのであればそれには理由があると分かっているのに」
「いいえ、謝ることではありません」
頭を下げた虎月に、珠里は首を横に振る。言えるかどうか判断できないことと、役目とはいえ巻き込んでしまうことに、少し、申し訳なく思った。
「それで、琅軌様。用意は出来ますか?」
「出来るには出来ます。まず五年前の資料ですが……陛下が所持しておられるものの中にあるやもしれません」
琅軌が読みかけの書簡を手にしたまま、珠里の背後の棚の元まで行ったかと思うと、突如棚の一番下を蹴った。
「ちょっと!?」
珠里はびっくりして、立ち上がる。ここに代々あるものに、何て扱いをするのだ。
「申し訳ございません。手が塞がっていたものですから、まあこれだけしか人がいませんのでご容赦ください」
手が塞がっているなら、その手に持つ紙を置けばいいのでは? と珠里は思ったが、苦情を言う前に棚に起きた変化に意識を引かれた。
「隠し引き出し?」
「はい」
琅軌が蹴った棚の一番下が飛び出て、他の段より半分以下の高さの平べったい引き出しが出てきた。いくつかの書物が入っているのが見てとれ、それらを確認し、琅軌は珠里に「なさそうです」と言う。
「それ、何が入っているのですか?」
「見る限り……どうやら先代皇帝陛下と皇后陛下の日記のようですね。陛下は暇さえあればこれをご覧になっていました。それこそ親の敵のような顔でご覧になっていたことがあったので可能性があるかと思ったのですが……」
珠里は、思わず顔をしかめた。それに気づかず、琅軌は続ける。
「今回の調査については、公に命じればすぐに手に入るかと思いますが、五年前のものともなれば理由を気にする者もいるやもしれません。出来るだけ内密の方がよろしいでしょうか? であれば少々お時間をいただきます」
珠里は、隠し引き出しに入っている書物を見つめていた。
そっと一冊を手に取ると、端がぼろぼろになったそれには、薄く、靄がかかっていた。きっと、琅軌にも虎月にも見えていない靄だ。
その靄から、感情が伝わってきた。
「……聞いても、いいですか」
「何なりと。むしろ時間がなかったため知らないことの方が多いでしょうから、もう少し状況をお話しましょうか。例えば、陛下の状況についてなど」
「はい、一番それが知りたいです。命に別状はなく、ぴんぴんしていると聞きましたが、詳しい状況を聞きたいです」
珠里は顔を上げた。顔には微笑みはなく、かといって皇帝を装った表情でもなかった。心配だけが浮かんでいた。
その表情に、皓家の兄弟は視線を交わし合い、兄の方が口を開く。
「本来最も腕のよい道士に呪いの治療を任せるべきところなのですが、陛下が拒んでおいでで、何とか現状を維持しているところのようです。現在陛下の身の回りにいる者の中に道士はいますが、力及ばず呪いの影響を完全に払うまでに至っておりません」
療養のつもりとは思えない、と虎月が言ったのはこれが理由と察した。本当に療養なら呪いの影響を払える道士を呼び寄せ、治療するはずだ。
だが、天栄は自身には何も異変は起きていないかのように、じっと息を潜めている。
琅軌の後を引き継ぎ、今度は虎月が口を開く。
「そして俺たち仙獣戦士は怪や怪の穢れを払うことは出来ても、人より生まれた呪いに関しては根から穢れを払うことはできません。元より、穢れを近づけないことが仕事でもあります。……麒麟の化身がいれば別ですが、かの仙獣の化身は五年前に刺殺されたきりです」
「……そうですか」
一刻も早く、珠里が目的を達成しなければならない理由が増えた。
どれほどの覚悟をもって、天栄が事に及んでいるか分かる。
手にした書物から、悔しい、悲しい、と五年会っていない少年の感情だけが伝わってくるような気がした。
「彼がここに籠っているときは、どんな様子でしたか」
「習慣化されていましたから、ただ籠っているときもありましたが──それ以外では怒っておられました」
虎月は、すっと部屋の奥の隅にある長椅子を指差す。
「そこの長椅子で丸まって、声を抑えて悪態をついておられることはざらにありました」
悪態? 天栄には想像できない言葉が出てきて、珠里は目を丸くする。
「悪態とは、具体的には?」
「『頭でっかち共、へらへら愛想笑いで躱しやがって! くそ、何も上手くいかない! あんな奴ら全員追い払えればいいのに!』」
虎月が言葉を選ぶように黙した隙に、琅軌が何のためらいもなく述べた。
言葉だけ聞くと、子供のような癇癪に違いはないが──
「な、なるほど」
呆気にとられそうになりながら、珠里は「随分、口が悪くおなりで……」と溢した。
「ああ、それであれば悪態をつきたいのに悪態の種類をお持ち合わせであらせられなかったようなので、僭越ながら私が伝授致しました」
「あなたも皓家の育ちですよね?」
悪態の種類をそれほど持ち合わせていないはずでは?
すると丞相は微笑み、「幼い頃は領地の州の方で、庶民に紛れて遊んでいましたよ」などと宣った。
いや、悪態の内容はともかく、頻繁に悪態をつくのは苦労しているという証でもある。
「あまり良くない精神状態ですね……」
やはり、今回の暗殺未遂の調査資料は最速で入手すべきだろうか……。
「あ」
思いついたことがあって、珠里は思案に耽り下を向いていた顔を勢いよく上げた。
「琅軌様、今後皇宮内を動き回るにあたって、女官の服だけでは動きにくいから他の服が欲しいです。例えば、道士の服など」
「陛下もそうお考えだったようで、準備済みです」
「では、調査記録の入手方法についてですが、私が直接取りに行きます」
「は?」
「ついでに直接聞いてきます」
誰に? 何を? と聞こえそうな様子で、琅軌と虎月が揃って首を傾げた。