1-3 始まり始まり
翌日、父親と同年齢かそれより上の年齢の臣下たちが顔を伏せ、い並ぶ光景を眼下に、数段上の座から彼らを見下ろす皇帝がいた。
黒い瞳は十五とは思えぬ妙な迫力を持つ。
その瞳に温かな感情など一切なく、大の大人を一瞥で硬直させる。ちらりと横の方に視線が外れると発言していた者が内心安堵の息をつき、視線が戻ると体が緊張する。
皇帝に扮する珠里は、そんな様子を見て内心ため息をついた。
丞相と護衛武官の監修による皇帝の立ち振舞いは、常に無表情か仏頂面で、とにかく臣下に厳しいとか。聞く限りで、五年前から会っていない少年は知らない様子になっていた。
皇帝の服で、顔で、表情で、視線で見る光景は、普段皇帝が見ているものだ。
物思いに引きずられ、珠里が伏せかけた目を我慢した拍子に眉間に皺が寄った。途端に空気がもっと良くなくなり、彼らが顔を伏せていようと、表情を窺う視線をあちこちから感じる。
珠里は今度はため息をつきそうになった。
現皇帝の名を、天栄。
現在十五という若さにも関わらず立派に皇帝をしているようで、表立って侮り嘲笑する臣下は今のところ見ていない。
けれどまだ十五。
五年前まで、元気に走り回ることの方が多かった彼を思えば、現在の様子に虚勢が混ざっているとは想像に難くない。
そしてそんな彼を。家族を呪いで失った彼を。呪い殺そうとした者がいる。この中にいるかもしれない。
一瞬『皇帝』の拳が震えたが、本当に微かで──否、微かになるよう抑えられたため、気がついた者はいなかった。
初仕事が終わり、控えていた虎月と場を後にする。
しばらくして「虎月」と側にいる護衛の名前を呼んだ声は、丞相と護衛よりお墨付きを得た皇帝の声だった。少年らしい高さがまだ残りつつも、声変わりし始めている声。
その声を、珠里は知らない。
「どうだ」
虎月は「驚きました」と答える。
「さすがは従姉君です」
皇帝の顔をした珠里は得意気に笑って、それからしまったと表情を一旦無にする。けれど、昨夜天栄が笑うのは稀と聞いたことを思い出して、少し悲しくなった。あんなにも笑う子だったのに。
戻った部屋は皇帝の執務のための部屋だった。中は、珠里の勉強部屋と異なり整頓されている。
「気が散るからという陛下の理由により、俺以外は室内に常駐しません。用のある者は許可すれば入って来ます。陛下は断ることもありました。……兄上は勝手に入ってきます」
「なるほど」
ということで、今室内にいるのは珠里と虎月だけ、という状況が出来上がっているわけだ。
ここより先どうすればいいか説明を受けていない。
先ほどの場では、諸々の報告を威厳たっぷりに聞いておいていただければと言われたので、特に珠里から話すことはなかった。その場で側にいた琅軌はどこへ行ったのやら。
机上の書簡などを見て、虎月にこれは目を通すべきなのか聞こうとした珠里だったが、棚と机の引出しに目を留め、引出しに手を伸ばす。
「何をなさっているんですか?」
珠里が引出しを次々と開け始めたので、虎月が不思議そうにする。
「うん、何もない」
「?」
ざっと確認したけれど、書き置き・手紙の類いは一切なし。燕家で虎月に渡された紙切れ一枚だけらしい。珠里は何事もなかったかのように、引出しを全て閉めておいた。
「お疲れ様です」
「琅軌様」
「及第点でした。これからもあの調子でお願いします」
「ああいう場で、これからもあんな調子で?」
何も言わなくてもいいの?と珠里は聞いた。
「もちろん陛下は必要なときに話すなり聞くなりされていましたが、あなたに急にそうせよというのはさすがに無理な話です。ご安心を。短期間であれば誤魔化せますし、必要に迫られれば私が分からぬように耳打ちでも致します」
「そうですか。ところで、これからどうすればいいですか?」
「執務はされずともいいです。執務は出向くもの以外は私にお任せください。押印はしていただけると、助かりますが」
「分かりました」
机上のものを見て聞こうとはしていたが、やれと言われても出来ないこともある。字は読めるし、学も当然あるにはあるが、それだけで何とかなる仕事ではない。
せめて押印するだけの簡単な手伝いはしよう。珠里は頷いた。
「後はお茶でも昼寝でも散歩でもしていただいて結構ですよ。誰かに会わなければならない場合は起こすなりしますので」
昨日は徹夜だった。衣服から見た目の調整と、表情と声の調整が同時進行で行われた。
見たこともない表情と、記憶に残るものとは異なる声の再現は、丞相と護衛武官の評価だけを元に行ったので妙な感じだった。
とにかく、そんなこんなで珠里は結局ろくに寝ていないので、休憩したいのは山々だ。強いて言えば眠い。
「じゃあ──」
「それか、陛下はこんな風に部屋にお籠りになる時間を作っておられたので、籠っているふりをして『皇帝以外の者』として外に出ることも可能です」
珠里は、今日は寝ようかなと言いかけた言葉を飲み込む。
警備は各場所に配置されているが、一番近くにいる護衛は虎月だけ。
室内に基本的に自由に出入りするのは事情を知る琅軌くらい。
抜けるにも都合がよく、そもそも自由に行動できる時間が設けられている。
「なるほど。……それなら、ちょうどいい」
珠里の呟きに、側近兄弟は揃って珠里を見た。
「陛下が呪いをかけられた部屋に案内してくれますか?」
次いでの珠里の言葉には、琅軌は予想通りという顔をして、虎月は目を丸くした。
女官の服に着替え、珠里としての顔で部屋を後にした。
琅軌は残ったが、虎月はあの部屋に皇帝がいる場合は、出入口を固める護衛に警備を任せて出てきても構わないようで一緒に来た。元々皇帝に用事を言いつけられて離れることがあるらしい。
「……珠里殿、どうしました?」
珠里が目の前を手で払うような仕草をしたので、案内で先を行く虎月がちらりと珠里を気にした。一介の女官の格好に合わせてか、呼び方が「珠里殿」に変わっている。
「いえ、少し髪がかかったので。──それより、さすがは皇宮と言うべきか、大きな呪いによる暗殺が起きるような場所だから当たり前と言うべきか、『空気』が良くありませんね」
「空気ですか」
「『邪気』や『穢れ』のことです」
「ああ」
怪が発するほどではないが、人がいる場所にも良くない『気』が生まれる。
邪気や穢れと呼ばれ、それらから転じ、『呪い』が生まれる。呪いは人の良くない感情が元となっているため、人特有のものだ。
さて、女官に扮して向かう先は天栄の寝所だ。現在皇帝の寝所は他に移っているので、皇帝に化けていてもこちらの部屋には来ない。
皇帝の部屋が移ったからか、それとも呪いがかけられたからか、人気は皆無に等しい。
──彼は、この部屋で呪われた
「ああ、本当」
入った途端、空気が淀む。呪いを感じる。
見た目には、人が殺されたわけでもなく流血騒ぎもなかったので、汚れ等なく普通だ。
ただ、珠里の視界では異なった。
外より明らかに『靄』が濃い。
さすが皇宮と言ったのは、この靄がうっすらとではあれど外を普通に漂っていたからだ。
珠里は、穢れや邪気が目に見えた。
よくない感情が呪いを生む。そういう意味では皇宮は呪いがこびりついている場所だ。何しろ陰謀渦巻く皇宮は、歴史に様々な謀略が刻まれている。
部屋の中を漂う靄として見える邪気を手で払ってしまうのをぐっと堪え、珠里は室内に入る。
「今回、皇宮の道士も当然調査を行ったのですよね?」
「はい。ですが」
「呪いの送りもとは分かりませんでしたか」
「はい。五年前もそうだったようですから、ないことではないとか」
「そうですね。薄い呪いほどその傾向があり、濃い呪いほど追いやすいもののはずなのですが、五年前結局呪いの主は分からなかったそうです。五年前の呪いは、護符を身に付けている皇帝を呪い殺すほど強烈なもののはずだったのに」
それは調査をする頃には現場に残る呪いが薄くなっていたのか、呪いを仕掛けた者の技量が高かったのか。今となっては分からない。犯人は分からず、とうに犯行現場は清められているはずだ。
「五年前は怪も皇宮に入り込み、気の流れが混ざっていたと言いますから。今回は呪い殺すほどのものではなかったのなら、分からなくてもおかしくはない……そういえば、ここはまだ清められていないのですね」
「はい。陛下の命令で」
そうですか、とだけ珠里は呟いた。懐から、一枚の符を取り出す。白い紙に一筋模様が描かれたそれを見て、虎月が眉をぴくりと動かす。
「珠里殿は、道士なのですか?」
道士とは、怪自体は払えないが、怪が出した邪気や穢れを払い、また、病や怪我を癒すことさえできる者を言う。
神仙が地に残した気脈を利用し、力を込めた符による術の行使を行うのだ。
対怪の専門が仙獣であるとするならば、人の身に影響したあとの邪気や穢れと、人から生じた呪いは道士の専門と言えた。
「まだそう名乗れる立場にはありません。自称している者もいると聞きますが、私はまだ国からもらえる資格を有していませんから名乗るつもりはありません」
なりたいとは思っている。武官か道士では、道士の方が説得しやすいと睨んでいるのだ。
問題は周りの説得で、今回上手くいけば、一石二鳥で説得の材料を作れるかもしれない。
「なので、内緒でお願いします」
珠里が微笑みかけて頼めば、虎月は一度頷いて応えた。
口止めに成功した珠里は、改めて虎月に背を向け、符を乗せた手のひらを前に差し出す。
深く息を吸い込んで、靄が流れる動きではなく、この地に宿る気の流れを掴もうと集中する。すると、すぅっと清廉な空気の流れを感じ取れる瞬間が訪れる。
すかさずその気を小川の水を汲むような感覚で、符に流し込むと、符が淡く光る。
「集まりなさい」
靄を睨み、念じると、黒い靄が揺らぐ。
「集まりなさい、ここに。人の穢れたち」
もう一度念じれば、手のひらの符の上に靄が集まりはじめ、濃くなる。部屋の中の靄が手のひらの上にあらかた集まったところで、珠里はまた口を開く。
「おまえの主は誰」
小声で問うと、塊の靄はゆらゆらと揺らいだが、揺らぐばかりで何も示さなかった。
「駄目、か」
ふう、と珠里が息をつくと、靄はさっと散り、元の通り室内に薄く漂うばかりに戻った。
符から模様が消え、虚空に消えるようになくなった手のひらを下ろし、珠里は虎月を振り返る。
「虎月様、案内ありがとうございます。もう十分です。戻りましょうか」
「分かりました。……お疲れですか」
虎月は珠里の顔色を窺うようにした。
「そうですね、寝ていないからかも」
微笑んで言ったところで、珠里はあれ?と気がつく。虎月の周りの靄が薄い──と言うより、靄が遠巻きになっている。ここの靄は陰の気が強いから、彼は陽の気が強いのだろうか?
気だるさと徹夜ゆえの眠気で、そんな風に考えていると、室内を見て、珠里の様子をじっと見た虎月の口が動き、何か言った。
だが、ちょうど間の悪いことに珠里は欠伸を噛み殺していて聞き取れなかった。
その間に、虎月が動いた。
銀色の線が一筋。虎月の動きが速すぎて、そのように見えたのだとは後から理解した。
気がつくと、刃が珠里に向けられていた。
「何、を?」
虎月が、手にした剣を真っ直ぐに珠里に突きつけていた。