1-2 側近兄弟
陽が落ちた頃、ひっそりと紛れ込んだ皇宮にて、馬車から降りた珠里は裏門から人目を忍んでとある宮に通された。
真っ暗な廊下を、虎月に導かれて歩いていく。真っ暗闇というわけではないが、灯りもなしで虎月はすいすいと歩いていく。
全く人気がない様子に、珠里は前を行く背に声をかける。
「虎月様」
「虎月で構いません」
「陛下であればそうかもしれませんが、私が呼び捨てにするわけにはいかないでしょう」
それに燕家の屋敷から女官の出で立ちをしてやって来たので、今誰かが通りかかったとすれば珠里は女官にしか見えない。
一介の女官が、皇帝を側で護衛する身分の武官を呼び捨てにしていてはおかしい。
「今回のことを知っている人は、どれくらいいるのですか?」
「……身の回りのお世話を担当する者たちを省き、さらに燕家の人間を除いては、皇宮で知るのはあと一人──丞相です」
虎月に導かれて入った部屋に、待っている男が一人いた。
あと一人と言われ、待つ者が一人。服装は世話人のそれではなく、燕家の人間ではない。
では、彼が丞相か。
「お待ちしていました」
迎えた男の冷たい瞳が珠里を映す。
「皓琅軌にございます」
丞相といえば、皇帝を補佐する最高位の官吏のこと。随分と若い丞相だと思った。
年の頃は三十代前半か。
しかし珠里を見る目から感情を読み取るのは難しく、掴み所がないと感じた。暗殺等が起きる陰謀の中心皇宮で、高い位についているだけあるとその目で感じさせられる。
「燕珠里です」
「陛下より全て承っております。早速これからのことを──話したいのは山々なのですが」
「何か?」
早速何か問題でも? 珠里は首を傾げる。
「今回経緯が経緯であるので、命を狙われる可能性が高いかと思います。それはご承知の上で?」
琅軌も首を傾げた。微笑みは少しも変わらず、彼はさらりと天気を聞くような自然さで珠里に問うた。
問いに、珠里は一度きょとんとしたものの、そんなことかと次の瞬間には微笑んだ。
「はい」
そんな反応に、琅軌はわずかに目を見張ったかに見えた。
「……これはこれは、陛下が仰った通りだ」
刹那、琅軌の完璧な微笑みが、人の悪いようなそれに変わる。
「失敬。陛下はそうは仰っていませんでしたが、万が一途中でごねられると面倒なので確認させていただきました」
話し方も若干変わり、珠里は目を繰り返し瞬く。人相が変わったわけではないが、雰囲気ががらりと変わった。
「……兄上、これから彼女に完璧に『化けろ』と言うのなら、兄上も彼女の前では完璧に『化け』を通してみてはどうなんだ」
虎月が苦々しげに、苦言を呈した。
珠里が傍らを見上げると、虎月は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
今回のことを任せられている護衛とはいえ、丞相に随分砕けた口をきく。私的な知り合いなのだろうか──いや、違う。今、何と。
「兄上……?」
そういえば、丞相は皓琅軌と名乗っていた。そして珠里の横にいる青年の名前は皓虎月……。
珠里が見上げていた虎月から、前方の琅軌に目を戻すと、丞相は元の通りの隙のない微笑みに戻っていた。
「はい。ここより先、我々兄弟が中心となりあなたを補佐致します」
「兄弟」
「はい」
琅軌が、品の良い雰囲気の笑顔とはちぐはぐに、少し雑に珠里の隣を示した。
「それは私の弟です。どうぞ有事の際はご存分に盾になさってください」
その雑な扱いに、なるほど身内だと納得するべきか。瞳の色や顔立ちに今さら血の繋がりを感じるべきか。
「兄上に言われなくとも、有事の際には盾にでも何でもなるつもりだ」
虎月は目付き鋭く兄を見たあと、珠里に目を落とした。
「珠里様、こんな胡散臭い兄ですが、万が一裏切るようなことがあれば俺が斬り捨てますから、信用しなくてもいいので安心はしてください」
「そんな、物騒すぎない?」
「ならば虎月が万が一裏切れば、私が切り捨てますので安心してください」
「だから物騒すぎない?」
聞いてる? 珠里の言葉にも、二人とも表情一つ変えないし、冗談だとも言わない。何だか完全に兄弟喧嘩に巻き込まれているような気分だった。
とはいえ、琅軌の方は面白がっている空気が顔に出ていて、ついさっきの初対面までは完璧な丞相に見えていたのに……と珠里は思う。
虎月の方も生真面目な印象だけだったのが、こんなにむきになるのだなとも思う。
少し戸惑っていたけれど、二人のやり取りに自らの兄妹喧嘩を思い出して、勝手に親近感を感じた珠里の口元は勝手に緩む。
「信じていますよ」
珠里の言葉に、片方は微笑み、片方は真顔で視線を交わしていた兄弟が、揃って珠里を見た。
「だって、陛下が他の誰より信じたからあなたたちに私のことを頼んだのでしょう?」
「……陛下に『他の誰より』信用されているのは間違いないでしょうが、あなたは私達を信用していると言うより、陛下のことを信用しているのでは?」
琅軌に言われ、珠里ははて、と考える。
「……確かにそうですね。信じていると言うのなら陛下のことを信じている、になるかも」
そもそも、初対面の人間をすぐに信じるというのが無理な話だ。
「訂正します。私は陛下を信用しているので、陛下に今回事を任されたあなた方を信じています」
珠里が微笑んで訂正すれば、琅軌が人の悪そうな方の表情で笑い、虎月が何やら複雑そうな顔をした。
「虎月、頑張れよ」
「頑張るのは兄上もだろう」
「私より護衛であるお前の方が共にいるだろう?」
「少なくとも兄上より先には信用されるだろうな」
「まあ私はいつも通りやるだけのつもりだからな」
兄弟喧嘩は兄弟喧嘩でも、やっぱり特色があるのだなあ。珠里は背の高い二人を交互に見つつ感想を抱いていた。
燕家の長兄と次兄は、もう少し、こう、荒っぽい。これくらい時間が経過していれば手が出ている。両方武官だからだろうか。呑気にそんなことを思った傍ら、一つ思い出したことがあって珠里は「どうりで」と呟いた。
「何か?」
耳がいい。笑みの形に固定されたかのような丞相の目が、すっと珠里を見た。
「ああ、いえ、琅軌様に先ほど問われたこと、虎月様にも問われたことを思い出しました」
「ほう、どれですか」
「琅軌様は先ほど『命を狙われるが承知の上か』どうかお聞きになりましたよね。虎月様からも『死ぬかもしれないがいいのか』という確認をされました」
「なるほど」
なぜか、琅軌は無音で笑う。
「虎月と私では、『いいえ』と答えられた際の行き着く先は違ったと思いますよ」
「? どういうことですか?」
「私であれば、『それでは覚悟を決めてもらいましょう』と言いました」
さらりと言って、琅軌は「そろそろ本題に入りましょう」と話題を切った。珠里がでは虎月はと聞く隙もなかった。
「本物の陛下はすでにお発ちになりました。あなたには明日の朝議より陛下を始めていたただきます」
「明日からですか」
さすがに急だと驚かざるを得ない。今、もう陽は完全に落ちた時刻だ。
それに、天栄に一目くらい会えるかと思っていたのだ。珠里は、少しの落胆と直接様子を見られない心配を覚える。
「つきましては明日までに完璧に陛下になっていただきたい」
琅軌は簡単に、「完璧」を珠里に求めた。
笑みの形の目の奥には、有無を言わせない感情が見える。
けれど珠里は臆することはなかった。ただ一言「分かりました」と引き受けた珠里に、丞相は笑みを深めた。