5-4 疑い
牢を出た途端、珠里は息をついた。
「大丈夫ですか?」
地面の方へ下がった珠里の視界に、虎月が覗き込むように入ってきた。
「少し、雰囲気に疲れただけです。とても、人の呪いが染み付いている場所でしたから」
「そうですね。少し休んでから……と言いたいところでしたが」
虎月は出てきたばかりの方を見やって、躊躇った。休憩するには、これほど気が休まらない場所もない。
「俺が走ればすぐですから、お連れしましょう」
両手を広げられて、珠里は一瞬ぽかんとした。それから、白虎の力で走ればすぐだと言われていると気がつき、慌てて首を横に振る。
「そんなことに力を使ってはいけないでしょう」
「そんなことはありませんよ。陛下や陛下の身の回りの方の具合が悪くなったときにお運びすることはあると父が言っていました」
そういえば虎月の父は、珠里が幼いときに怪に襲われたとき、落ち着くまで白虎の姿でいてくれた。そんな子守りのようなことをしてくれたのだった。
「そんなに疲れていませんから、今は大丈夫です」
「そうですか」
虎月は素直に差し出した手を引っ込めながらも、なおも珠里の顔をじっと見つめる。
「それでも顔色が優れないように見えます……早く戻りましょう」
虎月に促され、珠里は皇宮に戻る方へ歩き始める。
「虎月様は、杜霞南をどう思われますか」
「嘘をついているようには見えませんでした。珠里様の目には、どう見えましたか」
最後に、護符を取って見た結果だろう。
「彼女から邪気は出ていませんでした。……今回私は単なる道士として会っていて、『皇帝』としてではありませんが、彼女は私に対して救いさえ見出だそうとしていました。悪感情を抱くまでもない必死さだったのですよね。有力な手がかりが見つからなかったのは……」
厳しい、と心の内で呟いて、珠里は目元に手をやった。そうしてまた、無意識の内に視線が下がる。
「無駄ではありませんでした」
きっぱりとした声に引っ張り上げられるようにして、珠里は顔を上げる。
虎月が、その真っ直ぐに珠里を信じる目で、珠里を見つめていた。
「現状、呪い返しによってほとんどの者が彼女の罪を確信している状態です。尋問するにしても、内容は『なぜ』したのか。そんなものです。この場合普通は物証も求められませんから。なので、俺達が来た意味はあります」
唯一、彼女が無実かもしれないと考えて動いているからだ。
「そうですね……そうです。意味はありました」
珠里はぎゅっと拳を握って、意識して前を向く。
「杜霞南の『気』が込められた符がなくなっていないかだけ確認を──」
独特の花の香りが鼻腔を擽った。すっと一瞬で消えてしまう、寂しい香りだ。
珠里が視界の端を過った白を目で追うと、白い花が荷車に乗せられて運ばれていた。
「……皇葬儀式」
ふるりと体に走った震えを感じ、珠里はそちらに背を向けた。
*
夜中になり、珠里は一人で私室の机に向かって深く息をつく。
杜霞南の『気』が込められた符は保管庫にあった。
道士の中での高等技術を蓮妃が扱えた可能性はかなり低く、現状と杜霞南の証言では、蓮妃と杜霞南では杜霞南しか『気』に『気』を混ぜられない。
杜霞南はまだ出来ないと言ったが、彼女の次の昇級試験には含まれる技術で、すでに出来るとしても不思議ではないのだ。
杜霞南の『気』の符も誰も分からない間になくなっていたなら別だが、その証拠も証言もない。
「杜道士の符もなくなっていたとして、彼女の『気』なら容易に補充できる可能性はある。蓮妃は妃だからそんな機会ないけれど……でも、そうだとしてどうやって誰がしたか見つけるの?」
それとも、と珠里聞いた話を思い出す。
「呪いの出所は蓮妃様で、彼女が別の道士を雇い杜道士の『気』を混ぜさせて罪を被せようとした……?」
蓮妃について、ある情報が出てきた。
蓮華宮に仕える女官の一人が、恐る恐るこんなことを溢したという。
曰く、『蓮妃様は、五年前皇帝陛下が崩御されたとき、当時皇子殿下でいらした現皇帝陛下と故皇后陛下を恨めしく思っていらっしゃいました。……なぜ殿下だけが生き残ったのか、一緒に死んだ皇后陛下が恨めしい、一緒に死んでしまいたかった、と』
先代の皇帝を愛していたがゆえの錯乱で、今では見る影もなかったのだが、当時側に仕えていた女官は知っていると言った。
その上でもう一度蓮妃の女官に聞き取りが行われたところ、数人認めた女官が出てきた。
つまり、蓮妃には今回皇帝を呪ってもおかしくないと思われる過去がある。
「……でも、蓮妃様には邪気が見えなかったのに……」
本当に正しいのか。今のままでいいのか?
いいはずがないと思う。納得できていないのだ。けれど感覚だけの話で、間違いだと示せる証拠がない。
珠里は、少し、途方に暮れた心地になる。
「蓮妃様の動機があるかもしれなくて、杜霞南はそんな彼女に献身的に仕えていた……これも周囲が納得するようにしか見られない。また頭打ち……呪いが二つに返って進展があると思ったのに……五年前の件も五年前の件で……」
視界の端に入り続けていた白い花から、珠里は目を背けるようにして手で目を覆った。
この花は、皇葬儀式の日まで至るところに置かれる花だ。魂の安寧を祈るための花。
「この目が見ていることは正しいの……? お父様、お母様、誰が殺したの……?」
机の上には、もう一度読み直そうと五年前の件についての記録を広げていたが、もう一言一句溢さないように読んだのだ。何度読もうと中身は変わらない。
「天栄……」
今回の犯人を逃がせば、天栄もこの先殺されてしまうかもしれない。そんなことは耐えられない。
つー、と頬を流れる感覚と、ぽた、という微かな音がして珠里は目を開く。
「まずい」
真下にあった記録に落ちた。文字が滲んでしまう……。
「……?」
慌てて涙が落ちた箇所を確認したところで、珠里はあることに気がついた。
涙が落ちて紙が少し透けた部分と、全く透けていない部分がある。記録者の名前が記載されているあたりで、幸いにもぎりぎり空白の部分だ。
指で紙に透けない辺りを撫でると、透ける部分と透けない部分で微妙に厚みがある境目があった。
「何これ」
少し怪訝に思って紙を灯りに透かせてみると──一部だけ裏にも薄く何かが塗られていて透けない。
おかしい。珠里は眉を寄せる。
これは貴重な記録で、修正は許されていない。提出されたときにも一度確認されるのだと虎月が言っていた。修正が必要なら新しい頁に一から書き直すことになる。それほど厳格な記録だと。
ならば、これは一度提出されたあとに誰かが修正した?
紙と同じ色が塗られている箇所は、名前の記載部分だ。他の頁も見てみると、同じようにされている。
そうでない頁は、五年前の道士長の名前が記録者として記載されている頁だった。残りは全部、当時の副道士長にして、現在の道士長の名前だ。
なぜ名前を?
記録者が、前の道士長から現在の道士長の名前に切り替わった境は、当時の道士長に嫌疑がかけられ調査の指揮が移った頃だろう。
だとしても、元々前道士長の名前で記載されていて、現在の道士長の名前に修正されたわけではないはずだ。
記録者は変わったことが当然で、当時の道士長の嫌疑がかけられた部分を道士長が書いていては逆におかしい。
「……一頁だけ」
誰にともなく言い訳めいた呟きを溢しながら、珠里は引き出しから小刀を取り出す。
そして、刃を水平から少しだけ傾け、塗料の上を撫でるように削る。慎重に、少しずつ。そうして現在の道士長の名前が削り取られ、表れたのは。
「…………え」
削りかすを払っていた手が止まる。
しばらく削ったあとを凝視している最中、今回の件で疑いがかけられているあらゆることが頭に巡る。
呪物の可能性、護符の欠陥の可能性、結界の不備の可能性。
──『あの護符、本当は──』
にわかに、珠里は燕家から持参し身に付けている方ではなく、皇帝用の護符を取り出した。
布を上部で留めている細い紐を解くと、乳白色の石と符が出てくる。
符に描かれている模様を読み解くが、まさかと思った欠陥はない。
当然だ。すでに珠里自身一度確認したし、これは天栄の側にいる術士にも、そして暗殺未遂があってから道士の確認が入っている。
でも、と思う。
思えば、皇宮に来てから何度か燕家から持参した護符を解いているが、いやに体が重くならなかっただろうか? それは人の負の感情が染みつく皇宮ゆえと思っていたが……。
「そういえば、蓮妃様も同じ護符をつけているはずだけど、体調が悪くなってた……」
以前、外を歩く蓮妃が具合が悪そうにしていたところに遭遇した。あのときはそれ以上気にも留めなかったけれど。
偶然? いや、そういえば、あのとき蓮妃付きの女官が言っていた。
──『蓮妃様だけではないわ、他の方も、女官も体調を崩しているのよ』
前皇帝の他の妃たちも、皇位の妃であれば同じ護符を与えられているはずだ。偶然にしては、数が多い。
護符のせいであると考えるとして、刻まれた術に不備はない。皇帝暗殺未遂を機に、全て点検されたはずなのだ。
「……この護符は、『気』を利用してる……」
例えるなら、皇宮を囲う結界の小規模版だ。
護符や結界の作りを異常無しとして、綻びを作れるとしたら? 呪いが強すぎたのでもなく、怪がより強くなったのでもなければ?
最高の護符を身につけた人が呪いにかけられ、最高の結界を張られた皇宮に怪が入り込めば、誰もが護符と結界に問題ありと考える。
不備があったか、力が弱かったかと。
実際、五年前も今回も、一度は疑いがかけられている。
「…………気脈……」
気脈は神仙の残した神聖な気の川だ。結界は気脈を汲み、その力を利用して張られている。
気脈に異常ありとなれば。
珠里は護符握り締め、灯りを掴んで外に飛び出した。戸が高い音を立てて、少し跳ねる。
「珠里様!?」
庭に素足で出た途端、珠里は声をかけられて鋭い目付きのままそちらを見やったが、すぐに目を丸くすることになった。
「虎月様? なぜここに?」
珠里は思わず空を仰いだ。今日は月の出ている夜空模様だ。
「夜ですよ」
虎月の護衛は日中で、夜の護衛はこの前が特別だったはずだ。しかし彼の装いは隙のない武官装束のままだ。
「それは俺の言いたいことでもあるのですが。こんな夜更けになぜ外に」
そうだった!
珠里は部屋を飛び出してきた目的を思い出し、頭の中で皇宮の敷地内の地図を思い描き、この辺りかと地面に這いつくばる。
「汚れますよ!」
「構いません」
もう一つの方の護符の紐を解き、目を凝らして縁の下を見る。
しばし念入りに周囲を見たが探した痕跡はなく、珠里は身を起こす。髪からぱらぱらと土が落ちても、どうせまた汚れるので気に留めない。
「虎月様、ついてきてくださいますか」
一人で歩き回るわけにはいかない。すでに歩き始めながら尋ねると、珠里のただならぬ様子を感じてか、虎月は一切疑問を口にせず隣に並んだ。
しかしながら移動しては同じように地面を這いつくばり、建物の下を覗き込む珠里の行動に問わずにはいられなかったようだ。
「何か失くされたのですか?」
「失くし物ではありませんが、探し物ではあります。推測を、確かめています」
珠里は身を起こし、また場所を移動する。衣服の膝と袖は、もう土だらけだ。
「私の推測が正しければ、皇宮は今とても無防備な状態にあります。そして、五年前の記録はただの紙屑と化すかもしれません」
「それは、どういう」
「それどころか、道士の調査さえ信じられなくなるでしょう」
そして、自分達は直接見聞きしたもの以外の全てを疑わなくてはなくなる。
しかしさすがに皇宮内を探し回るには、一人ではかかりすぎる。闇雲に探しても運任せになるだけ。
幾度目めになるか、珠里は身を起こしたが立ち上がりはせず、地面の上に座り、考える。
皇帝の寝所の建物の下にはなかった。では、どこにある可能性があるのか?
……気分が優れない蓮妃が歩いていた。他にも、後宮に同じように体調の優れない者がいた。
皇帝の居住区域内でもなく、後宮内の区域内でもない。それより前の、気脈が枝分かれする前の共通の気脈は──。
珠里はすくっと立ち上がり、小走りに脳内の地図に従って気脈の筋を辿りはじめる。
やがて視界に微かに靄が掠め、目を凝らして進んだ先に、根本を靄に覆われた木があった。
「あ、った」
こんな、仙石があるわけでもない隅っこに。よく見ると木が枯れているが、誰が気にするだろうか。
珠里は膝をついて、土に触れた。
「珠里様、顔色が」
「え? ああ……」
珠里は、解いていた護符を身に付け直し、改めて隠されたものを暴こうと土に触れる。
五人の死んだ道士。
道士長の使い。
記録に記された名前。
呪い返しが行われたということは相手の道士に分かる。珠里が呪い返しを行い、呪い返しがされたことは相手の道士に伝わっている。
ずっと思っていた。
杜霞南が犯人としか思えない状況だとして、なぜ彼女は身を隠そうとしなかったのだろう?
道士長や副道士長に呪い返しが命じられる可能性を考えなかったわけではないだろうに、なぜ。
素知らぬ顔をしていればばれないと思ったのか? 呪いを送れば呪い返しをされる。自分以上に優れた道士がいると分かっていただろうに。
そう、だから、彼女はやっぱり犯人ではない。
一度目の呪い返しでは、彼女に呪い返しは返っていないのだ。
それでもまだ、解決も納得も出来ないことがまだまだあって、珠里は土に突き立てた手で埋められたものを明らかにした。
珠里は、一度、大きく息を吐いた。
それから土から手を離し、立ち上がり、一度問うたきり黙ってついてきてくれていた虎月と今ようやくまともに向き合った。
「虎月様、お願いがあります」
何かを探し、辿り、地面を掘り返した珠里に、彼は欠片も訝しげな表情を滲ませもしていなかった。
ただひたすら真剣に、珠里の言葉を待っていた。
「あなたの足で、五年前故郷に戻った道士の家族の元を巡るのにどれほどかかりますか」
「……白虎の力を使ってですか」
「はい」
「一日もあれば行って帰って来られます」
「では」
「ですが、それを願われたとしても聞きかねます」
珠里が頼む前に、それを封じるかのように虎月は厳しい表情で拒否した。
「俺は、あなたの側を離れるわけにはいきません」
「体調不良で一日部屋に籠っているつもりです。朝議にも出ません」
「それは──」
どういう心変わりだと言いたげだった。珠里は、身代わりという役割ゆえに、怪に襲われた後、目覚めた翌日から朝議さえ欠かそうとしなかったのだ。
「一度、状況を整理する必要があります。正直、今虎月様と琅軌様に話す前に整理したいです。その間に、お願いできませんか」
顔が強張っている自覚があった。虎月はそんな珠里を見て、ひどく葛藤しているのが見て取れた。
「……それが、すぐにでも必要なのですね」
「はい」
「あなたに危機が迫れば用件が済んでいなくとも戻ります。それでよろしいですか」
「はい」
そこまで聞いて、虎月はとても苦労したような、絞り出した声で最後の一言を口にした。
「何をしてこればよろしいですか?」
珠里は心の中で彼の決断に感謝しながら、立ち上がった。
虎月が発ったあと、理由あって起こした蝶翠に呼びに行ってもらった琅軌がやって来た。
「虎月は」
珠里が本題に入るより前に、琅軌がそんな疑問を口に出した。まるで、虎月がすでにいるのが当たり前のような口ぶりだ。
「もしかして、虎月様が今日護衛していたことを知っていらっしゃったのですか」
「今日、と言いますか毎日夜も張っていますよ」
「え?」
「あ。……そういえばこの前口止めされたような……」
琅軌が何やらぼそぼそ言っているが、珠里は衝撃の情報にそれどころではない。本題に軌道修正も忘れて、「毎日?」とすっとんきょうな声を出すはめになる。
「ええ、まあ」
「じゃあ、いつ寝てるって言うんですか」
「さあ? 仙獣の化身を宿していると、人の身を超越する部分もあるではないですか。その一部では?」
父も大概でしたと、あっさり言ってくれるが、珠里は呆気にとられるばかりだ。
だって、そんな素振り一切見えなかった。虎月が日中ぼんやりしていたことなど一回もなかったのだ。
「それで、ところで虎月は?」
本題に戻してくれたのは、意図せずにだろうが琅軌の方だった。
「虎月様には、頼みごとをしたので明日までいません」
「は?? 虎月がそれを了承したのですか」
「してもらいました。琅軌様にも、調べて欲しいことがあります」
前提がひっくり返ろうとしていた。




