5-3 尋問
楽耀の執務室を出ると、予定通り杜霞南に面会するため牢へ向かう。
牢屋は馬に乗った方がいいくらいの距離にあるが、武官ならまだしも、位なしの道士を装っているので目立たないために徒歩で行く。
「一つ、認識を確認しておきたいのですが」
道中の虎月の前置きに、珠里はどうぞと先を促す。
「珠里様は、楽耀殿を信用してはいらっしゃるのですか?」
「え?」
「今や事情を明かせるものなら明かした方がいい状況ですが、珠里様は楽耀殿に事情を明かされません。その理由は陛下が事情を明かされていないからで、珠里様自身は楽耀殿のことを信用されているのでしょうか?」
虎月は首を傾げた。
「俺は彼の人となりを知らないのであらゆる人と物を警戒していますが、楽耀殿は珠里様のことを心配していらっしゃるようですし、珠里様は楽耀殿を頼っておられます」
どうでしょう? と虎月は珠里に問うた。
珠里は手を口元にやり、少し考える。
「そうですね……まずこの状況において、頼ることと信用は私にとって別です。頼るとは言いますが、言い方を変えれば利用できるところは利用していきます。なのでそれとは別問題で、お師様に全てを明かす判断に至れない理由がいくつかあります」
虎月が言うように、天栄が楽耀に事情を明かしていないこと、頼み事をできる程度には顔見知りでも燕家の人間のように珠里を知る『身内』ではなく、ここ何年かは顔を合わせていない期間があったこと。
「その中の一つで、私自身がお師様を信用しきるにはお師様は『分からない』と感じるところがあるので、自信が持てないんです」
「それは、どういった部分にですか?」
「うーん……あのですね、お師様は優しいんですよね」
ぶっきらぼうに聞こえる声で話しながらも、今回そうであるように何かと意外と面倒見がいい。
行動も言葉も珠里を気遣い、守ろうとしてくれているところに嘘偽りも感じられないのだ。
「? はい」
それは良いことではないだろうかと言いたげな様子で、虎月が不思議そうにする。
珠里も、優しくされること自体はありがたく思っている。
「出会った最初の十日ほどは冷たかったと記憶しているのですが、気がつけばそんな雰囲気はなくなっていました」
仏頂面と無感情の声。氷を思わせる雰囲気を帯びていた彼を前に、自分は、それまでとても甘やかされ、どれほど温かな環境にいたかを知らされた心地だった。
けれど、まるで冬の終わりに気がつけば雪が解け、春が訪れるように、楽耀は変化を遂げた。
仏頂面は変わらないままに、雰囲気と態度にそれらは表れた。
「それが時間が経つにつれ不思議に思えました。あの方と過ごしていく内に、私が燕家に迎えられた理由に同情や哀れみを覚えるような人には思えなかったので、なぜこの人の態度は柔らかくなったのだろうかと不思議に思っていました」
「珠里様が教えを真面目に学ばれていたからだとかは」
「今まで一旦そう考えていましたが、さっき心配、されたのは意外だったんですよね」
楽耀はああ言っていたが、珠里はうーんと首を捻る。
いや、まさか。と思う理由はあるにはあるけれど。
「つまり珠里様は、楽耀殿に気にかけられる理由が分からないので完全に信用はしていない、と?」
珠里は苦い表情を虎月に向ける。
「すみません、人の優しさの裏を考えるのは聞いていて気持ちよくないですよね」
「いえ、俺も皇宮にいては人を無条件で信じることはそうないので」
さらりと何でもないように虎月に言われて、珠里はああそうだと改めて思い出す。
今いる場所はそういう場所なのだ。腹の探り合いが毎日繰り広げられるここでは当たり前のことかもしれなかった。
けれど、かつての珠里には皇宮はそんな場所ではなかった。
「……昔は」
地面を見つめてぽつり、と零れた自らの声に、珠里は慌てて口を閉じる。
けれど、聞き逃さなかった虎月が「何ですか?」と穏やかな口調で続きを促したので、そろそろと口を開く。
「……昔は、周りが優しいのが当たり前で、自分もそういう風に他人に接するのが当たり前なのだと思っていました」
今は、そう見えていただけで、腹の中に正反対の感情を抱えている人も混じっていたのではないかとよく思う。
「ですが、自分に優しい人を無条件に信じる時期は過ぎました。なぜこの人は自分に優しくするのか、裏がなく優しくしてくれる人か思惑があっても自分の害にはならない人か。理由が分からなくては信用するのが難しくなりました。……怖くなりました」
今回は特に、天栄が信じているかどうか分からない人に、自分の判断だけで事情を明かすにはより慎重にしなければならない。
一つの判断の誤りが、天栄にまで害を及ぼす。
「裏切られるのは、嫌です。許せないことでもあります」
珠里は独り言のように、囁くような小ささで言った。
「……珠里様は」
地面を見つめていた珠里は、隣を仰ぎ見た。
「どうして俺を信用しようと判断されたのですか? 陛下の信用がそれを容易にしたとして、珠里様自身が信用してくださる理由は何ですか?」
今の珠里の思いを聞いて、不思議に思ったようだった。
けれど、それは容易に答えられることだ。珠里は口元に笑みを滲ませる。
「虎月様、あなたの行動と言葉が嘘偽りなく、私を守ろうとしてくださっていることなど明白です。見舞われた事態により、誰よりも証明してくださいました」
虎月を護衛として、個人として信じているのかは珠里自身にもまだ分からないけれど。あれらが演技であるとして、万が一裏切られる未来があったとしても、仕方ないと思えるくらいには彼は証明した。
なのに、本人に自覚がないとは。まるで、当たり前にしたことで、それが当てはまると予期していないのがおかしいくらいだ。
びっくりした表情の虎月に、珠里はおかしくてますます微笑んでいたら、虎月も微笑む。
その微笑みで、少し幼く見える虎月に幼い頃によく会っていた少年の面影が重なりそうになる。
けれどあの少年に似ているから珠里の判断が甘くなったわけではない。
──皓虎月が、珠里に分からせたのだ
「守りますよ。あなたを何者からも。必ず、あなたの信用に報います」
決して裏切らないと思わせてくる目と芯の通った声で虎月は言った。
牢は、まだ陽が落ちていないにも関わらず薄暗かった。
万が一の脱獄を徹底的に防ぐためか、光を取り込むための窓はなく、空気が冷たい。
すきま風が吹き込んでいるからというわけではなさそうで、冷たい石の壁と──死罪になるような数多の罪人が投獄された牢にこびりつく死の気配が、そう感じさせるのだろう。
牢に入った途端、珠里はきつく眉を潜めた。視界には、皇宮にうっすら漂う靄など比べ物にならないほど濃い靄が漂っていた。
法を犯したか、人を害したか、冤罪でなければそのような人間のみがいる場所だ。当然と言えた。
人の怨嗟、妬み、嫉み、憎しみ、呪いが染み付いている。
珠里は無意識のうちに護符を衣服の上から押さえた。
「……大丈夫ですか」
足元を照らす灯りが明るくなったかと思うと、珠里の変化を察し、虎月が気遣う表情で珠里を振り返っていた。
その手には、太陽がまだ沈んでいないにも関わらず、牢の中が暗いせいで灯りがあった。
「問題ありません」
珠里は笑みを浮かべた。無理矢理にだと虎月に伝わってしまうだろうが、帰ってしまう気はないと伝わればいい。
虎月は若干眉を寄せたように見えたが、黙って頷いて、前に向き直った。
案内は断ったため、大体の場所を聞いて奥に進んでいっている。
そもそも、この大罪人用の牢にいるのは現在杜霞南のみだというので、牢の中に入っている者がいればそれが彼女だということになる。
左手の牢を見ながら歩くこと少し。
虎月がぴたりと足を止めた。彼は一つの牢を照らすようにして、灯りを掲げた。
格子の向こうには人影が一つ。奥の壁にもたれ、項垂れていた。
「杜霞南」
虎月の声に、牢の中の体がびくりと震えた。
恐る恐るといったように顔が上げられたが、茶色の髪が乱れており、顔は少ししか見えない。髪の間から覗く顔は汚れていた。
『皇帝』がまだ尋問は許していないため、拷問の類いはされていないはずだが、投獄されるまでにすったもんだがあったか。そんな姿だった。
怯えた様子でこちらを窺っていた杜霞南だったが、珠里たちが着る位なしの道士の服を捉えるや、身を乗り出した。
「私の無実が証明されたの?」
武官や文官ではなく、罪を裁く役職がない道士が来たのは、牢から出られるためと思ったか。
彼女の必死の目と、希望と安堵が混ざった表情に、珠里は目を細める。杜霞南は容疑を否定していると聞いていて、今前にする表情は心からのものに見えた。
珠里は虎月の隣に並び、格子越しに杜霞南と向き合う。
「いいえ」
たった一言で、杜霞南は光のない目に戻った。
「杜道士。私たちは、真実を求めに来ました」
「──私は、陛下を暗殺しようなんてしていない!!」
真実、という言葉に杜霞南がより身を乗り出し、その拍子にがちゃんという冷たい音が鳴った。足と手首につけられている鉄枷だ。
それでも彼女は、前に出られるぎりぎりで、助けを求める眼差しで珠里を見る。
「では杜道士、昨日皇帝陛下に送られた呪いにあなたの『気』が混じっていたという結果が出ましたが、これに心当たりはありませんか?」
「私は呪いなんて送っていないわ!」
「それは聞きました。送っていない場合に、『気』が混じるような心当たりはないかと聞いているのです」
興奮に冷や水を浴びせるような珠里の声音に、杜霞南が固まる。
かしゃんと音がして、格子までは至れないように杜霞南を留めていた鎖が緩み、地に落ちた。力なく地面に膝をついた彼女は、首を横に振る。
「わ、分からない。呪いなんて送っていないし、蓮妃様からそんな話をもちかけられたこともないもの」
「『気』を込めた符か何かを盗まれたことは?」
「ないと思う……けど……」
そこで、わずかに杜霞南が言い淀んだ。
問われているうちに、ふと何か思い出したかのような。けれど、彼女はそのまま口を閉ざした。ぎゅっと唇を強く引き結んだ様子は、何か葛藤しているようだ。
何かを隠し、言うべきかどうか迷っている。
どうやってその情報を引き出すべきだろうか……。
「現在の自分の状況を正確に把握していますか」
珠里の隣から虎月が冷たく問い、杜霞南が不安げに虎月を見る。
「現在、呪い返しにより陛下暗殺未遂の容疑者となっているのは二人。蓮妃様とあなたです。陛下による命で朔副道士長による呪い返しがされ、これ以上の呪い返しは望めないというところです」
虎月は現実を容赦なく突きつけ、続ける。
「では容疑者は二人、一方の蓮妃様の父である吏部長は蓮妃様は呪いを送ってはおらず、道士の策謀だと主張しています。正直、このままでは最悪の場合蓮妃様の家が、あなたが全て計画したことだと罪を被せてしまうでしょう」
「──そんな、蓮妃様にあれほど尽くしたのに」
「この場合、蓮妃様の意思はあまり関係ありません。彼女の実家がそうするのですから。
……蓮妃様にそれほどの大きな恩があるのなら今後拷問を受けるなり自由に選択されればいいかと思いますが、そうでなければ心当たりを吐いたほうが賢い選択です」
明らかな脅し文句を言う虎月の物言いは、彼の兄である丞相を思わせた。
淡々と言葉で詰め寄られ、杜霞南は喉を上下させ、視線をさ迷わせた。迷っている。かなり迷っている。
けれど、これは──堕ちる。
「………………蓮妃様の」
小さな声が、その名を口にした。
「蓮妃様が、何でしょう?」
虎月が促さなかった代わりに、珠里がそっと促す。虎月は鞭役をしてくれたのだ。
「蓮妃様が、道術について学びたいと仰った際、蓮妃様に道士としての素質があるか調べて、素質があったから『気』を採取したの。皇宮の道士にはそうするから。でも……」
「でも?」
杜霞南は、また、今度はもっと言いにくそうにした。
だが、ここまで言ってしまったのだと決断したか。珠里を見上げて、小さな声で言う。
「でも……それが、一回なくなって」
「一回なくなった? いつ? どのくらいの期間?」
「い、一ヶ月前くらいに、期間は分からない。全ての道士の『気』を封じた符が保管してある部屋で一緒に保管していたのに、定期点検でないって気づいて。記録からもなくて──わ、私ちゃんと記録につけたのよ!」
「それで?」
「……その、こっそり、また取り直して保管し直したの。でもこれ関係ないかもしれないし、黙っててくれない?」
怒られるとでも思っているのか。死刑になるかもしれないというのに余程混乱しているのか、そんなことを気にして、今にも泣きそうな声と表情で、杜霞南はすがるように珠里を見上げる。
珠里は思うところがあって、少し考えてから、問いを重ねる。
「その保管室には誰でも入れるのですか?」
「鍵を持っているのは道士長と副道士長だけだけど、他の者は新しく道士が来るとか出入りが必要なときに鍵を借りて入るの」
では、それらしい理由を作るか、本当の用事のついでであれば入ろうと思えば入れて、盗むことは可能になる。
「その『気』の符は普通はどんなときに、どういう風に使用するのですか?」
「一番の目的は、もしも呪術士として出奔してしまって本人から『気』が採れなくなってしまったあとに何か事件があってその人が怪しいとき、それをこ、今回みたいに、呪いの『気』と一致しないか比べるためよ。過去に、皇宮支えの道士も呪術士として出奔してしまった例があるから……」
予想通りの答えだ。
「あなたの『気』が込められた符は盗まれていなかったのですか?」
「確認したことないわ。今回については、直接『気』を採取されたし……」
「分かりました。こちらで確認しますね」
蓮妃の『気』が封じられた符がなくなったのは、別問題なのかどうか。まずは杜霞南の符を確認してみよう。
「関係がありそうなのですか」
虎月がそっと珠里に尋ねた。
「呪いに蓮妃様の『気』を混ぜることが出来れば、蓮妃様にも返る可能性があります」
本で読んだことがある。呪いを受けた者に対して、道士が行える最高の治療行為が他人の『気』に『気』を混ぜる行為だ。一つの符に複数人が『気』を込めることもある。
それが呪いでも出来るなら……。
「『気』に『気』を混ぜるなんて、私まだ出来ないわよ!」
杜霞南が目を剥き、叫ぶ。
「可能性の話です」
珠里はそう答える他ない。
「ねえ、私、本当にやっていないの……!」
問いが止まり、面会の終わりを察したのか杜霞南が再度訴える。
その必死の姿に、珠里はただこう答える。
「杜道士、私は真実を求めています。あなたが無実であるという主張が事実で、他に犯人がいるのなら、私はその犯人を明らかにします」
杜霞南が気の毒だとか、その必死さを見ていて感じないわけではないが、関係ない。珠里はただ、事件の犯人を突き止めるだけだ。
けれど杜霞南は、珠里の揺るぎない断言にほ、と少し肩の力を抜いたかに見えた。
「出ますか」
虎月も、珠里が聞きたいことは聞き、これ以上杜霞南から引き出せる情報はないと判断したのだろう。隣から囁きが落とされた。
「最後に、一応『視ます』」
珠里は、身につける二つの護符のうち、自らの力を封じる方を取った。そして開いた目に、牢の中の杜霞南を映した。




