1-1 悪い知らせ
そう、本日三刻前まで珠里は平凡な日常の中にいた。
──貴族の中でも名家中の名家、燕家の屋敷にて
広大な敷地には紅梅が咲き、視界に華やかに、鼻孔をよい香りが擽る庭があった。
大きな池には、澄んだ水の中を魚が泳ぎ、池から伸びた小川沿いに並ぶ木々からは鳥の声がする。
小鳥のように囀りながら庭沿いの廊下を歩く使用人たちのうち、一人がふと向かい側の廊下を行く人に目を留めた。
「あら、蝶翠様だわ。あれは……珠里様のお部屋の方ね」
燕家の中でも位の高い侍女の行く先に、女たちは同時に憂いに満ちたため息をつく。
「こんなにいい天気なのに、珠里様は今日も部屋に閉じ籠られていらっしゃるのね」
「無理もないわ。ご両親とご友人であらせられた公主様が亡くなられてまだ五年よ」
「いつ、お元気になられるのかしら……」
心配そうな使用人の視線の先には、一つの部屋がある。
部屋の主は燕家の末姫燕珠里──当の珠里はというと、青空が広がり、水がきらめき、葉がつやつやと輝く景色に背を向け、薄暗い室内で机と額を突き合わせていた。
使用人たちが想像する引きこもりかたとは少々異なり、珠里は真剣な顔つきで、手のひらほどの大きさの四角の紙に慎重に筆の先で線を描いていた。
「姫様」
生真面目な女性の声が間近でして、小筆の先が揺らぐ。
あっ、と小さく声を上げて、珠里はため息をついて背後を振り向いた。
「蝶翠、入る前に声をかけて」
いつの間にか部屋の中にいたのは、侍女の蝶翠だ。
「お声がけ致しましたよ。十度も」
にっこりと苦言を呈され、珠里は「それはごめんなさい」と殊勝に謝った。
「お食事をお持ちしました……が、どこにお置きすればよろしいでしょう?」
「ご、ごめん片付ける……あ! 胡麻団子!」
珠里は慌てて書物を机の奥に押しやりながら、蝶翠の手の盆の上に好物を見つけて目を輝かせる。
「それは全てをお召し上がりになってからしか差し上げません」
珠里が胡麻団子のために匙を手にして粥から片づけ始めると、蝶翠が部屋の有様を見てため息をつく。
言いたいことは分かったので、珠里は急いで粥を飲み込んで、もごもごと口を開こうとする。だが「分かっております。姫様は一日の終わりには片づけてくださいますから、いい方です」と蝶翠に先回りされてしまう。
「食事のあとは、外に出てみてはどうでしょう? 本日は天気が良いので日に焼けない程度に外に出てみてはどうか、と旦那様から伺っています。具体的には──」
「あ、本当、天気がいい。兄様たちがいない内に剣の稽古をしなくちゃ」
珠里が食後の甘味を食べ終えお茶を飲んでいる頃、そう提案されて、珠里はがたりと音を立てて立ち上がった。
長兄と次兄が留守の間に、剣の稽古がしたい。
以前に黙って始めて見つかったとき、禁止を言い渡されてしまったから、兄たちが仕事で不在の日中にこっそりやるしかないのだ。
「旦那様が、外に出るときは日に焼けない程度にと……」
「肌を極力隠せばいいのでしょう? 頭から布を被れば顔も焼けないわ。蝶翠、着替えを持ってきて」
「そこまでして、なぜ」
食器を盆の上に片付けながら、蝶翠は嘆息する。
珠里は書物を手早く閉じ、棚に手早く仕舞っていた手を止めないままに答える。
「私は、武官か道士となって皇宮に仕えるんだから」
──名門貴族燕家の深窓の姫君
燕珠里はそう巷で言われていた。
十五にもなった姫の姿を見たことがある者はごくわずかだ。
燕珠里の両親は五年前に起きた皇帝暗殺事件に巻き込まれ死に、本人もまた暗殺事件の影響を受けたがために、治療のために母の姉である燕家当主夫人によって燕家に引き取られた。
しかし後遺症と心の傷により引きこもって中々出てこない。
……と、自家の関わりの薄い使用人にまでそんな噂が流れる姫が、まさか剣を振っているとは思いもよらないだろう。
「ふぅ」
屋敷の敷地の隅っこで、振っていた剣を下ろし、珠里は額を伝う汗を拭いながら一息つく。
「兄様みたいになるにはほど遠い」
「若様方は幼い頃からの積み重ねがありますから、数年で追い付こうなど不可能ですよ」
初老に差し掛かろうかという年齢にも関わらず、体格が良い男が珠里を見下ろす位置で肩をすくめた。彼は珠里の護衛の斗騎と言う。
国軍で、若くして将軍の一角を勤める長兄。
別の一軍の副将を勤める次兄。
彼らは珠里が剣を振ることをよしとしていないので教えを請えない。そのため剣は、この斗騎に教えてもらった。珠里の熱意に負けて、内緒ですよと言いながら彼は教えてくれた。
「それに、姫様は女性ですから若様方とは異なる剣の道を選ばれた方がよろしい」
「……男だったらなぁ」
思うように筋肉がつかない細い腕を手のひらで握り、珠里は嘆息する。ああ、男だったら、全ては違っていたかもしれないのに。
「こら!」
しんとした庭中に響きわたりそうな怒声に、珠里は体を震わせた。
「これはまずい」という斗騎の言葉と同様に、珠里も嫌な予感に駆られて声の方を見た。
そこには、斗騎と同じくらい体格の良い男が一人立っていた。国軍所属と一目で分かる鎧を身に纏い、黒い瞳が目力強く珠里を見据え、眉間に皺を寄せている。
「──暁雲兄様」
他ならぬ長兄その人が、珠里の方に歩いてくる。
なぜここに。珠里は驚きに見張った目を思わず空にやる。太陽の位置で大まかな時刻を確認したが、まだ太陽は丸々出ていて、彼が帰ってくるような時間ではない。
「……暁雲兄様、お早いお帰りではありませんか。お仕事のお時間だと思われるのですが、お仕事はどうしたのですか。怠けているのですか。そういうのはよくないと思います」
視線をどこぞへ逸らしておいて、持っている剣を後ろに隠し、珠里は場の主導権を取りにかかった。しかし話の内容には動揺が表れていて、でたらめもいいところだ。
「珠里、本来花嫁修業でも何でもして、少しは令嬢らしく慎ましやかに家で過ごしているはずのお前は、どんな格好で、何をしていた?」
主導権を握るなんて、まあ、この状況では無理な話ではあった。いわゆる現行犯なのだから。
格好といえば、貴族の姫らしく裾の長く着るにも脱ぐにも一人では容易ではないそれではなく、動きやすく着やすい、男が着るような服装をしていた。
なお、きちんと日焼けしないように服では隠れない手には薄い手袋を。顔には頭から目以外に覆いをかけている。
ぐうの音も出ない格好をしていた珠里は、黙ってますます視線を逸らす他ない。一瞬で着替える術があれば、見間違いではないかと言えるのに。
「それに、今日に限っては帰りが遅くなった方だ。帰りがけに怪に遭遇して少し遅れた」
「怪に……?」
珠里が怪訝そうにしている間に、暁雲は珠里の行動なんてお見通しで、珠里が背後に隠した剣を取り上げる。
「あっ」
「こんなものを振って。手に変な型がつくぞ」
「お嫁に行く予定はありません。ところで、兄様は本当にどうしてこんな時間に家にいらっしゃるのですか? その上、わざわざ私をお探しでしたか……?」
長兄がちょっと家に戻らなければならない用事があったとして、自分をわざわざ探す理由と用事が思いつかない。
これ以上小言をもらう前に、珠里が本当に気になっていることを問いつつ話題を逸らすと、暁雲はじろりと珠里を見ながらも仕方なさそうに口を開いた。
「父上が呼んでいる」
その言い方では自分のことを? と珠里は首をかしげた。
「着替えた方がいい用事ですか?」
「……どうだろうな。いや、やっぱりそのままでいい。ついでに父上にもお前が剣を振ったりしていると言ってやる」
「えっ。絶対着替えます!」
珠里は即座に踵を返したが、気がつけば腹に腕が回され、捕まっていた。まさかと見上げた先では、長兄の圧の強めの微笑みが待ち構えていた。
「観念しろ」
将軍を勤める兄がその気になれば、珠里の抵抗なんて意味をなさないのである。長兄の腕はびくともしなかった。
「父上、珠里を連れてきました」
「……連れてこられました」
珠里がようやく下りられたのは、呼び出し元の父の部屋だった。
珠里は不満顔で床に足をつけた。
燕家当主、燕赤座。部屋の中央の長椅子に座す彼の長兄そっくりの目が、珠里の姿を認識するや、眉を潜める。
「珠里、その格好は何事だ」
「剣を振っていたんですよ、父上」
即刻長兄が告げ口した。「それも木剣ではなく、真剣だ」と没収した剣まで机の上に差し出した。
「まあ、珠里も武官になるのかしら」
父の隣から、そんな声があがった。艶やかな黒髪に、黒真珠のように美しい煌めきを秘める黒い瞳が垂れ、微笑んだ女性は燕明玉。燕家当主の妻だ。
「母上、ご冗談を。珠里が剣を持って生きていくことはありません」
「あら。暁雲、それを決めるのは珠里ではなくて?」
手を頬に当て、おっとり聞いているようで明玉からは圧が発せられていた。それは息子をやんわり黙らせる効果くらいは持っていた。
「──父上はどう思われますか」
「兄様、何が何でも私の邪魔をしたいようですね!」
父は反対派なのだ。母への返答に困ったからと言って、そちらに話題を投げるのは如何なものだろうか! 抗議する珠里を、暁雲が冷静な目で見下ろす。
「当たり前だ。お前にその必要がない」
「必要がない? 私が必要だと思うなら、必要あります」
「なぜ必要なんだ」
「約束のためにやれることを増やしたいからです」
「約束?」
「彼と、したのです」
暁雲は眉を寄せ、何か悩ましげにして再び口を開いた。
しかしその前に、
「──約束」
知らない声が言った。部屋の右方からで、そちらには衝立が立っていた。
衝立の向こうに誰かがいる。父と長兄には驚いた様子が欠片もなく、父はともかく、兄も知っていたのだろうと察せた。
珠里は燕家にいる者以外の人間とめったに会わない。燕家で新年の宴で客人が呼ばれようと、その他の機会に父や母への客人が訪れようと会わない。
一体誰だと父に目を向けると、父は衝立の向こうに声をかける。
「もう隠れる意味もあるまい」
「失礼致しました、思わず」
「いいや、こちらも関係のない話を聞かせた。先に話をしよう」
衝立から、一人の青年が出てきた。長兄とは異なりかなりの軽装の類いだが、武官の装いだ。歳は、自分よりは上だろうか?
「珠里」
呼ばれて再び父に目を戻すと、父は怖いほどに真剣な目をこちらに向けていた。
この人は大抵そんな顔だ。だけれど今、理由も分からず呼ばれた状況も相まって嫌な予感がする。
母も、父の横で心配そうな顔をしている。
「心して聞きなさい」
「……はい」
「先日、皇帝の暗殺未遂があった」
言葉が耳に入った瞬間、珠里は呼吸を忘れた。心臓が止まり、時が止まったかとさえ感じられ、耳が音を拒絶するかのように耳鳴りを起こした。
それらを懸命に堪え、珠里はゆっくりと瞬いた。
「暗殺未遂」
聞いた言葉を繰り返すことでいっぱいだった。
──当代皇帝、天栄は齢十五の若き皇帝だ。
五年前、先代皇帝である父を始め、母と姉を亡くし一人ぼっちでその座についた皇帝。つまり十歳にして、皇帝になった。
珠里よりも小さな背丈、小さな頃は女の子と間違われていた顔、笑った顔、泣いた顔──。それらが瞬きをした一瞬で瞼の裏に駆け巡る。
「呪いによるもののようで、穢れの痕跡が見つかったらしい」
母が「可哀想な甥っ子」と呟く。彼女は先代皇帝の姉だ。珠里の伯母でもあるが、現皇帝の伯母でもある彼女は、皇帝という立場により狙われた甥を案じていた。
「……今度は彼を、呪い殺そうと言うの」
珠里は震える声で呟いた。許せない、とふつふつと怒りが生まれるのを感じた。
「皇帝陛下は、無事なのですか?」
「ああ。ただし身を隠し、療養されるそうだ。だがそのためには問題があってな」
皇帝は狙われた。療養は秘密裏に行いたい。たとえ本人が本当は不在だとしても、必要最低限の者以外には皇帝不在と知られるのを避けたい。そこで皇帝の不在を隠すため、身代わりを用意することにしたという。
「身代わりとして、おまえを指名したそうだ」
父が見知らぬ武官を示した。彼は皇帝からの使者だったのだ。
「あなたが、燕珠里様ですか」
「はい」
黒に青が混じる瞳と、真正面から目が合う。彼は、名家の姫とは思えない格好をした珠里に眉一つ動かさず、軽く一礼した。
「皓虎月と申します」
顔を上げた彼は観察するように珠里を見ながら、懐から紙を取り出した。
「これを、陛下より預かっています」
小さな紙は、折り畳まれもせず文面を隠す素振りが一切感じられなかった。宛名も差出人の名前もなし。紙の中央に二文字だけ記されていた。
「珠里が身代わりなど何かの間違いでしょう、父上」
紙を受け取った珠里の隣で、長兄は顔色を変え、父に問うた。そこまでは聞いていなかったらしい。
通常、皇帝の身代わりには専用の人間がいる。通称『影』と呼ばれ、彼らが表に出るときは身代わりとしての顔でのみ。それが本人か影かは、必要最低限の人間しか知らない……。
だから皇帝が不在にするために身代わりが必要だとしても、普通に考えて訓練を受けた影以外を代理に立てることはあり得ない。
「いいえ、兄様」
間違いなどではない。珠里が見下ろしていた紙から顔を上げ、真っ直ぐに虎月を見ると、彼は珠里の眼差しに驚いたように目を見開いた。
そんな虎月から視線を移し、父を見据え、珠里は言う。
「お父様、そのお話『喜んで』お受け致します」
隣で長兄は驚いた顔をし、母は力なく首を横に振った。
「……虎月、決まりだ」
父だけは表情を変えず、虎月に言った。しかしその手は長椅子の手すりを握りしめていた。
「燕総帥、本当によろしいのですか」
「陛下が命じられた、そして珠里が受けた。ならば私が口出しすることはない。珠里、彼は陛下の護衛だ。今回お前の護衛をすることになる」
赤座の言葉を受け、虎月が改めて珠里に正面から向き合う。
「改めまして皓虎月です。二年前より陛下の護衛武官を勤めています。今回、あなたを身代わりにと陛下の命を預かり参りました」
髪は紺色、黒に青が混じる目。体は長兄ほどにではないが、鍛えられていると分かる立ち姿だ。
「燕珠里です」
珠里も彼に習い、名乗り返しながらも、その眼差しに既視感のようなものを覚えて、思わず「……会ったことありますか?」と聞いた。
「燕家の姫とお会いするのは初めてですが」
では何かの気のせいか。そうですよね、と珠里は話題をなかったことにした。会う人間なんて限られているし、その中に見覚えがある姿なら会った瞬間に分かっているはずだ。何を言っているのか。
そんな珠里を、虎月がじっと見ていたかと思うと、一言。
「いいんですか」
漠然とした問い方だったが、珠里は考える間もなく答える。
「はい」
「命を狙われますよ」
分かっているに決まっている。珠里が返事の代わりに微笑めば、虎月は目を細めた。
暗殺未遂? どこの誰だかは分からないけれど、目にもの見せてやるから。
珠里が握りしめた紙には、『約束』の二文字が記されていた。綺麗な字は一見見知らぬ筆跡で、けれど見覚えのある癖がわずかに残っていた。