4-7 呪いが返った先
衛兵が中から人を呼び、出てきた者がまた中に引っ込み、しばらく。
蓮妃付きの女官と名乗る若い女性が出てきた。彼女は夜更けの訪問に、難しい表情で応対した。
「このような時間に何のご用でしょうか?」
「蓮妃様は」
「蓮妃様はお休みです。明日では駄目でしょうか?」
「今でなければいけないから言っている」
虎月の厳しい声音に、若い女官はたじろいだ。
「ですが、その……蓮妃様はここのところお加減が良くなく、私共で事足りるようであればそうさせていただきたく思いますと女官筆頭より命じられております……」
そういえば、先日見かけたとき体調が悪そうだった。虎月の背後でやり取りを見守る珠里はふと思い出す。
そうであれば、別に蓮妃と直接会わなければ事を進められないわけではない。
そっと虎月の袖を引き、反応してこちらを見た虎月に、珠里は首を振る。それだけで虎月は意を汲んでくれたようだ。彼もまた頷き、女官に向き直る。
「ならば宮にいる者を改めさせていただく旨だけお伝え願おう」
虎月の要求に、女官が戸惑った様子になる。
「な、なぜですか」
「先程陛下の元に呪いが送られた」
呪いという言葉に女官が青ざめた。
皇帝の呪いによる暗殺未遂については、皇帝側は出来るだけ隠したがっているが、広まっている。
以前見舞いに来た蓮妃は呪いのことまで宦官に聞いていた。その彼女つきの女官だ、耳にしていてもおかしくない。
「呪い返しを行った結界、呪いがこの宮に入った。呪いの送り主が身を潜めている可能性がある。蓮妃様始め、この宮にいる者全員の身の安全のためにも、寝ている者も起こし一部屋に集めてもらいたい。不審な者が潜んでいないかはこちらで調べる」
女官は青白い顔で何度も頷き、虎月に一礼するや身を翻して速足で中に引っ込んだ。
夜更けのため、宮にいる者は多くなく、あっという間に一部屋に集められた。
集められた者たちをざっと見て、珠里は虎月と視線を交わす。呪いの送り主はいない。
部屋に集められたのは、蓮華宮に仕える者のみだ。あとは、部外者がこの宮に身を潜めている可能性だったが……中を改めていた衛兵の報告は「いない」だった。
「いない?」
虎月は眉を寄せる。そんなはずはない、と聞こえてきそうな様子に珠里も同意だ。
ここにいるはずだ。呪いを送った者として、呪い返しの証を刻まれた者が。
「この宮の中にいるのであれば、まだ探せます」
珠里は衣服の中から、符を取り出す。
呪い返しを行う際に戻ってきていた符だ。灰色に染まっている。呪い返しした呪いの一部が宿り、限られた範囲の中でなら見失った後も追えるように作られた、呪い返し専用の対の符だ。
「還りなさい」
再度同じ手順を行うと、呪いがすぐに壁を通り抜け、ある方向へ消えた。
すぐに珠里と虎月は部屋を飛び出し、追おうとすると、「そちらは!」と背後から声がした。珠里は反射的に足を止めたのだが、虎月も止まった。
「こちらに行くのに、何か問題が?」
虎月の鋭い問いの矛先は、女官だった。
蓮妃付きの女官の中では、筆頭女官の次の位を持つ女官だと聞いた彼女ははっとした顔で「そちらには……蓮妃様がお休みになっておられますので」と言った。
「心配ない。用があるのは呪いの送り主だ。蓮妃様の寝所には、犯人が逃げ込まない限りは立ち入らない」
「……そうしていただけますと、助かります」
女官が礼を尽くすように顔を伏せた。その表情は、伏せられる直前強張っていた。
珠里は軽く背を押され、虎月に促された。改めて部屋の外に出ると、虎月がそっと囁きを落としてきた。
「珠里様、あの女官は何か隠しています。……まだ改めていない者はやはり改めておくべきだと思います」
「つまり……?」
「蓮妃様とその近くに控える者がいるはずです。お目通りを願いましょう」
虎月は躊躇なくその判断を下した。
先ほど女官の様子を見て、あのようなやり取りをしながらもその判断を下していたのだろう。
やはり、彼もこの皇宮で過ごしている人なのだ。優しいが、足元は掬われない鋭い目を持っている。
蓮妃自身ではなくても、周囲の人間に怪しい者がいる可能性はいくらでもあるだろう。あの宦官とか。
そう考え、珠里は同意を示した。
「この辺りでしょうか」
「この先だと思います」
女官が止めた方向へ進んで来たが、呪いはすでに見失っている。
宮の作り的に蓮妃の寝所はこちらだろうと珠里が促すと、その先の部屋からちょうど出てきた女官がいた。
黒髪に、灰色の髪が混ざる年齢の女官だ。女官は、道士姿の珠里と武官の虎月を見て、ぎょっと目を見開いた。
「──ここに何用ですか」
蓮妃様付き筆頭女官です、と虎月が囁きで教えてくれた。
なるほど、これまで会ってきた中で最も毅然とした女官だ。戸惑った様子も何も、瞬時に見えなくなった。
「この先は蓮妃様がお休みです。不審者は立ち入っておりません」
「筆頭女官殿」
それでも虎月は、女官の態度に判断を変えなかった。金色の光が未だに混じる目が、ちらりと女官の背後を見やる。
「お眠りのわりには、灯りがついているようだが」
それも、部屋を満たすほどの灯りが漏れていた。確かに寝ているというには、少し灯りが多い気がする。
毅然としていた女官が、思わずといった様子で勢いよく背後を見た。
「蓮妃様にお目通り願う」
何も言い訳する間を与えず、虎月が要求するが、女官は厳しい表情で唇を引き結んでいる。
「……蓮妃様は、お加減がよくありません」
「お加減が良くないのは承知の上だ。身を起こすことも、話すこともされなくて良い。そこにいる者を全員一目見るだけで用は済む」
それでも女官は部屋の前から動こうとしない。虎月の視線を真っ直ぐ受け、見返している。
だが女官の方が退くのも時間の問題だ。なぜなら普通であればそうするべきなのだから。
「あなたは、蓮妃様のことをどう案じているのですか」
虎月の横に進み出てきた珠里に、女官の視線が移る。小娘の道士と見て、彼女は訝しむ顔になる。
「武官とはいえ先帝陛下以外の殿方が寝所に入ることを懸念しておられますか。それとも今、蓮妃様を見られるのが都合が悪いのですか」
二つ目の問いに、女官は不快を露にする。
「先帝陛下のお妃様を疑うとは、不敬な」
「不敬であることへの罰なら後でいくらでも訴えればよろしいでしょう。ですが筆頭女官様、案じていると仰るならばあなたは不可解な行動をされておられます」
「……どこが不可解だと言うの」
筆頭女官ならば普段は賢明に違いないだろうに。普通に考えれば思い当たることに本当に気づかないのか、気づかないふりをして押しきれると思っているのか。
どちらにせよ、それが女官が冷静を欠く状況を抱えていると示していた。
「普通、不審者がいると聞けば蓮妃様の身の安全のために武官を中に入れるはずです。不審者に対してご自分たちで対処する術は持ち合わせていらっしゃるなら別ですが。頑なに入れないのは不自然です、襲われるという危機感はないのですか?」
女官は、う、と固まった。これ以上否定すればそれこそ怪しいからだろう。
その目の前に、珠里は灰色の符を見せつけ、畳み掛ける。
「よろしいですか。これは呪い返しのための符です。これより再度呪い返しを行います」
「呪い、返しを……」
ごくりと、女官が喉を上下させた。
「その際、もしも呪いがあなたの背後の部屋に入った場合、呪いの送り主がその部屋に潜んでいるということですので入らせていただきます」
「そ、それは」
「筆頭女官様。私は、蓮妃様を信じています」
珠里の言葉に、女官は目を見開いた。
珠里の真っ直ぐな目と芯の通った声に、嘘偽りを見つけられなかったに違いない。女官は戸惑いと、迷いを見せた。
──その隙に、虎月が女官の背後の戸を開けた。珠里もするりと女官の横をすり抜け、室内に入り込む。
「きゃあ!」
部屋の中から、三つ分の悲鳴が上がった。
室内にいたのは、三人。女官らしき女性が二人。その二人に挟まれて奥にいるのが──蓮妃は、虎月と珠里を見て袖で顔を覆った。
「やめなさい!」
筆頭女官が慌てて虎月と珠里の前に割って入り、背後の人物を隠すように両腕を広げる。
だが、遅かった。見えた。
虎月が信じがたいものを前にした声で、女官に言う。
「……筆頭女官殿、あなたは蓮妃様を確認されまいとしたのだな」
『彼女』が袖で顔を隠す前、見えた。
蓮妃の顔に、『呪』の文字が。──呪い返しの証だ。
「違います! 決して、蓮妃様は陛下に呪いなどお送りになっておりません!」
青白いを通り越して、もはや血の気の一切がなくなってしまった白い顔で、女官たちは首を横に振っている。彼女たちの必死な様子を横目に、虎月は珠里を見る。
「蓮妃様に道士の素養があるか、わかりますか?」
まさか、という思いでいっぱいだった珠里は我に返って考える。
「……呪いを送ることができるか、ということですね?」
虎月は「はい」と頷く。彼の表情には動揺は一切なく、冷静そのものの目で蓮妃の方を示した。
「蓮妃様は道士としての教えを受けたことはありますが、それは護符の知識をつけるためで呪いのことなど学ぶはずがございません!」
会話を聞き取った女官が、一筋の希望に縋るように割って入るが、その女官に珠里はあることを伝える他ない。
「道士としての素質がなく、自分で呪いを送ることはできなくても、呪いの元になることは誰にでもできます。呪いとは人から生まれるもので、恨み、妬み、嫉みなどの負の感情が源です。そして人間には誰しもその感情を得る可能性があるため呪いの元は誰でも作り得るのです」
たとえ道士としての素質がなくとも、蓮妃の疑いが晴れるわけではないのだ。
女官は、愕然とした様子で床にぺたりと座り込んだ。その痛々しい様子を前に、珠里は虎月に確認する。
「虎月様が気にしておられるのは、蓮妃様自身が呪いを送ったか、呪いの源が蓮妃様で呪いを送った者はまた別にいるか、ですね?」
「はい」
「蓮妃様に、道士が符を操る際に必要な自らの『気』が外に出せるほどあれば素質ありと言えます。そこから実際に符を扱うために気脈の『気』を感じ取れるかどうかがまた次の段階の素質となるでしょうが……」
それはここで見て分かるものではない。道士の試験に使われるという、『気』の量を図る符でもなければ分からない。
しかしそれらが分からない状況で、珠里はただただ信じられない思いでいっぱいだった。目は、女官に抱き締められて、顔は見えない蓮妃を凝視している。
「……でも、こんなの、あり得ない」
「なぜあり得ないのですか?」
虎月の問いかけに、知らず心の内の声が漏れていたと知って珠里ははっとする。
虎月は、あとで調べる他ないなど言わず、まるで蓮妃が犯人であるはずがないと言った珠里に、不思議そうにしている。
「彼女からは──」
邪気が見えなかった。見舞いのとき、彼女からは少しも邪気が出ていなかった。あれからそれほどの強い呪いの感情を天栄に持ったのなら別だが、その可能性は低すぎる。
反射的に口を開きかけた珠里は、そんなことを虎月に言うべきではないと一度口を閉じかけた。
しかし──言うべきではないのと、珠里が言ってもいいと思うのは別だ。虎月には言ってみてもいいと思えた。
珠里は、虎月を見上げて囁く。女官たちには聞こえないよう、小さな声で。
「彼女からは、邪気が出ていなかったから」
と。