4-6 呪い返し
まさか、という思いがあったが、珠里はすぐに目を開いた。
就寝にあたって灯りを消した部屋は暗く、視界は真っ暗だ。灯りをつけるより先に直観に従い、珠里は高らかに手を打ち鳴らす。
直後、部屋の壁が白く光り、部屋が照らされる。
「珠里様、何かありましたか!?」
手を叩く音が聞こえたか、戸が勢いよく開けられ、虎月が部屋に飛び込んできた。
彼は寝台の上に珠里を見つけ、それから室内の光景に剣を引き抜いた。
「仙獣白虎、力を──」
「駄目! 駄目です!」
慌てた珠里は、転げ落ちるように寝台を降り、眼光鋭く室内を睨む虎月の前に両腕を広げて立ちはだかった。
室内は、通常と様相が異なっていた。
一番は壁一面に貼られた符。これは、呪いを弾く符ではなく、呪いを捕らえるための符だ。
今その符が効力を発揮し、光っていた。符から出た幾筋もの光の線が、部屋の中央こ一点に集まっていた。
集まる先にはもう一枚符があり、今日就寝するまでは真っ白で一つの線も書かれていなかったそれは、黒く染まり、『呪』という文字が赤く浮かび上がっていた。
この部屋に入り込んだ呪いを絡めとる術式が、たった今発動し、符に呪いが封じ込められたのだ。
虎月が仙獣の力で払ってしまったら、何も追えなくなってしまう。
「失礼。呪い、ですか」
「はい。かかりました」
虎月が刃を仕舞ったと見て、珠里はほっと胸をなでおろして両腕を下ろす。
「まさか、今日仕掛けてくるとは思いませんでしたが」
背後を振り向いた珠里の目には、黒く染まった符以外にそれに纏わり付く黒い靄の塊が映っていた。
「道士を呼びますか」
隣まで歩いてきた虎月の問いに、珠里は「いいえ」と答えてから、「少し待っていてください」と寝台の下から一揃いの衣服を引っ張り出して、隣の部屋に引っ込んだ。
十中八九これから部屋の外へ行かなければならない。手早く着替えて、用意していた靴も履き、虎月を残した部屋に戻った。
「私がこれから呪い返しを試みます」
寝台横の棚から符を数枚取り出し、珠里は呪いと対峙する位置に立つ。
「見たところ強い呪いです。これなら追えるかもしれません」
呪いの強さで符の濃さは変わる。符の色は、弱い呪いの際の灰色ではなく黒だ。
珠里が手にした符に気を流し込み投げると、符は黒く染まった符にくっつく。
「おまえは、誰から送られてきたの」
珠里の声が室内に凛と響く。
気を込めた言葉に、ゆらり、と符が揺らぐ。
ゆら、ゆらゆらゆら。
黒い符に封じ込められた呪いが、今にも飛び出しそうなほど暴れている。その反応で、呪いの送り元が追えると確信した。
さあ、今度こそ逃がさない。犯人を逃がさない。
緊張で張り付く喉で唾を飲み込み、珠里は再び口を開く。
「おまえを生み出した者の元に還りなさい」
白い符の一枚から白い光が弾け、消滅した。残りの符は珠里のもとに戻り、同時に黒い符が符の形を無くし──黒い塊が光の帯から飛び出した。
珠里は黒い塊──呪いの動きを視線で追うが、後ろを振り向いたときにはもう寝所から出ていこうとしていた。
「嘘、こんなに速いの?」
とりあえず走って追いはじめ、外に出る。寝所の外を守っている武官が何か言った気がしたが、それに虎月が何か答える声が聞こえたので、珠里は構わず走り続けた。
「……雨……」
外は雨が降っていた。
天気の良し悪しは『気』に関わる。
昔々の伝説の怪の力になれば、悪い気によって天候が変わることさえあったという。雨天は呪いをかけるには適した天気だ。
夜中で、雨雲で月が出ていない空は真っ暗闇に包まれている。
灯りを持って出るような余裕はなかったので、珠里は何かにぶつからないようにだけ気を付けて走る。呪いは、符で見えやすくしているだけあって空と見間違えるという恐れはなさそうだ。
しかし、問題はその速さ。
呪いが飛んでいく予想外の速さに、珠里は見失いそうで焦る。後から見つける方法はあるが、離れすぎてはできない。
「虎月様、追えますか!?」
おそらく虎月の方が足が速い。隣を並走している虎月を見ると、彼は呪いの方と珠里を見比べて、突然膝をついた。
「──失礼」
素早く抱き抱えられた。珠里は目を白黒させたけれど、虎月の体に『気』が満ちたのを肌で感じて彼を見ると、虎月の目が金色を帯びていた。
白虎の力を使おうとしている。珠里が直観でぎゅっと虎月の服を掴むと、虎月はよろしいとでもいうように頷いた。
そして、珠里が当然の浮遊感に驚いて目を閉じ、開いたときには屋根の上にいた。
虎月は軽々と、皇宮の建物の屋根から屋根へと飛び移り、走る。いずれの動作も風のように速く、珠里が吹き付ける風の中で薄く開いた視界には、手を伸ばせば届きそうな距離に呪いが見えた。
これで見失う恐れはなくなった。あとは行きつく先を待つのみ。
やがて飛んでいく呪いの速さが少し緩んだかに見え、珠里は前方を確認した。
場所は、まだ広い皇宮の敷地内だ。その上、呪いが飛んでいく方にはぶつかる高さの建物が見える。
「……虎月様、まさか、この先は」
「はい。後宮です」
呪いは後宮に繋がる門を通り抜けた。虎月が後に続いて門の上から後宮へ入る。
後宮に許可なきものが入り込まないように見張る衛兵は、風が通り過ぎるような音のみの侵入に気が付かなかった。
呪いは後宮の敷地を飛んでいく。そうしてある建物にすーっと入っていった。虎月が一旦建物を通り過ぎたが、呪いが通り抜けてくる気配はなかった。
「ここ、は」
虎月に抱きかかえられたまま、屋根の上から珠里が見下ろした建物は後宮を構成する建物の一つ。皇帝の妃に与えられる宮の一つ。
「この位置は……蓮花宮です」
蓮花宮。それは、とある妃の名前が与えられたときに、名前の元となった花の名前に改名された彼女の宮だ。
──主は蓮妃
ここに、呪いの送り主がいる。
「中に入れるでしょうか」
入って犯人を捜さなければならない。聞きはしたが、珠里の目はどうにかして入らなければという意思を宿していた。
「話を通しましょう。理由は正直に言っていいですね?」
「はい。明日には道士の調査を再開させることになるでしょうから」
虎月は身軽に屋根から飛び降りた。地に下ろした珠里を背後に隠し、虎月は蓮華宮を守る衛兵の方に歩み寄っていく。
着地の際も音なく、ここまで音なき侵入を果たした存在に、そこで初めて衛兵は気が付いた。
ぼんやりと日々の見張りを行っていた二人の衛兵が、俊敏に身構える。
「皇帝陛下の護衛、仙獣戦士の一人皓虎月だ。蓮妃様にお取りつぎを」
衛兵たちは、突如現れた武官の正体と要求に、驚いた顔を見合わせた。