3-3 夜更けに
──十年前
水色の衣服を捕まえようとした『珠里』の手から、衣服がするりと逃げていった。
「こっちだぞ」
「あっ小葉」
小葉というのは、天栄の幼い頃の名前だった。
大爛国では貴族以上の身分の子は、十五で成人するときに生涯の名前を与えられるため、幼い頃限定の名だった。
ずっと幼い頃の天栄が笑いながら逃げていくあとを、『珠里』も再度走っていく。
けれど息が整わず、はあはあと荒い呼吸をして、追いかけている小さな背中が霞んでいく。傾いていく──脚が絡んで、体が傾いだ。
「危ない!」
なす術なく地面に倒れるかと思った体は、誰かに支えられていた。見上げた方には、わずかに青が混じる黒色の瞳が見えた。
「……璃子」
璃子、というのは天栄の遊び相手に選ばれた貴族の男児だった。
昔より皇族の子どものために、遊び相手として貴族の子が皇宮に呼ばれることがある。
天栄のときにも遊び相手をという父である皇帝の意向があったが、同じ年の子がおらず、少し歳上の子供が呼ばれることとなっていた。
いつからの風習か、子どもが家の贔屓をしないようにと家名は伏せられることとなっており、『珠里』もその子供の家名を知らなかったし、興味も持つような年頃ではなかった。
一緒に追いかけっこに興じていた彼が受け止めてくれたらしい。
『珠里』がお礼を言って立とうとすると、璃子がそれを押し留める。
「無理をされてはいけません。体調が万全ではないのでしょう」
「どうしてそう思うの?」
その言い方ではまるで、体調を崩していたみたいではないか。けれど、『あのこと』を知っているのは父や母と、側に仕える者たちだけのはず。璃子は知らないはずだ。
不思議に思って『珠里』が目を丸くすると、璃子が言う。
「池に落ちたということになっているようですが、──実際は怪に襲われたと聞きました」
「しー」
理由を聞いたのは『珠里』だったが、まさか本当に知っていると思わなくて、慌てた。
周りを見て小葉の姿がないと確認し、璃子に向かって改めて人差し指を立てる。
「内緒よ」
先日、『珠里』は都の外へ遠出した際に池に落ちて数日寝込んだ。ということになっている。
本当は怪に襲われ、その影響を受けて熱を出していた。子どもはより影響を受けやすいので、護符はつけていたがそのようになった。
今日は病み上がりだ。
「小葉が心配するから」
「それにしては、ほとんどの者にも池に落ちたことになっているようですが」
「秘密を話す人が多くなるほど秘密が薄くなるってお母様が言っていたし、小葉に内緒にするために皆にも池に落ちたことにしたの。璃子も、言っちゃ駄目よ?」
璃子はすぐに返事をしなくて、何か堪えるような表情でしばらく『珠里』を見つめていた。その表情が真剣なものに変わる。
「俺が大人になったら、あなたを守れるような武官になります。絶対に、怪にも何にもあなたを傷つけさせない」
彼の言葉に『珠里』は驚いて、同時に胸にくすぐったい感覚を覚えた。
「待ってる」
ふわりと微笑んで、そう返した。
──幼い頃の、淡い思い出だった
◆
とても懐かしい夢を見た。
浴場で、自分を受け止め、こちらを覗き込む顔に記憶の中の少年の面影を見た。虎月は、あの少年なのだろうか。
「姫様、お目覚めですか」
「……蝶翠」
珠里がぼんやりと横の方を見ると、蝶翠が青ざめた顔で珠里を見ていた。
珠里は皇帝の寝所で、寝台に横になっていた。
どうやら、怪の穢れに当てられて寝込んだらしい。手探りで護符を確認していると、「新しいものに変えました」と蝶翠が言う。
あの場で蝶翠が一応つけ直してくれてはいたけれど、組み紐にも意味があるものだから、それが千切られた時点で効力は不完全なものになっていたのだろう。
「どれくらい、眠ってた? 今、夜?」
意識がはっきりしているわりに、寝すぎたのか体が怠い。
ちらりと外の方を見ると、直接外を覗ける窓はないが、太陽が出ていれば明るくなる方が真っ暗だ。
「今は夜です。姫様は一日眠っておられました」
「一日……」
やってしまったと、珠里は顔を覆う。
呪いをかけられて不在の天栄が何ともないと示すために代わりにここにいるのに、自分も寝込んでどうする。
「今日の皇帝の不在は、どう説明されたの」
「怪による影響で大事を取っていると」
昨日の怪の騒動はさすがに隠せるものではなく、皇帝専用の浴場が派手に破壊されたことから皇帝が怪に襲われたと広まっているそうだ。
「今日はこのままゆっくりお休みください。この時間ですから、琅軌様も明日も陛下不在で進められるご様子でしたから、明日も」
「いいえ。琅軌様に明日から戻ると伝えて」
「ですが」
「琅軌様が明日も陛下不在のままで進めようとなさるのは苦肉の策よ。本当なら、出来るだけ早く戻った方がいい。大丈夫、十分休んだわ。気分が悪いこともないし、熱もない」
ね? と念を押すと、蝶翠は渋々といったように珠里の言葉を受け入れた。
蝶翠は昨日から一日中珠里に付きっきりだったことは想像が難しくなかったので、琅軌への伝言後は休むよう言った。
それも渋られたが、侍医にも診察してもらい、体調に問題がないことを確認してもらった。
明日朝からまた側にいてもらうためだと言うと、これまた渋々受け入れてくれた。
蝶翠が去り、しばらく大人しく寝台の上に横になっていた珠里は、起き上がる。
「さて、と」
寝台から降り、灯りをつけてそーっと私室の執務室の方へ行き、棚の引き出しの一つを開ける。そこには、楽燿から借り受けた記録の冊子が仕舞ってあった。
「こっちに持ってきてて良かった」
灯りを机の上に置き、椅子に座って早速記録を開く。
「……そういえば、昨日の調査状態も聞かなくちゃ」
さすがに、朝議で話題に出るだろうか。記録を開いたものの、珠里は腕を組んで昨日の怪に襲われた一件について考え始める。
怪が万が一にも入り込まないよう、皇都を囲む結界とは別に結界が張られている皇宮。
楽燿が言っていたように、現在皇都を囲う結界は張り直しの時期にあるが、同時に皇宮の結界を張り直すなどということはされない。
なので、結界に不備が見つからない限りは外から怪が入り込むことはあり得ないわけで。
五年前もそうだったが、当時の調査では、結界に欠陥は見られなかったと記録があった。
「とりあえずは、道士の調査待ちね……」
自分の目で見に行くとしても、道士の調査が終わったあとになるだろう。
とんとん。
控えめに戸を叩く音が、珠里一人しかおらず静かな室内ではよく聞こえた。
「蝶翠?」
寝るように言ったはずなのに、部屋の灯りに気がついて戻ってきてしまったのだろうか。もっと時間を置くべきだったか。と思ったのだけれど。
「虎月です」
「虎月様?」
思わぬ声に、珠里は慌てて辺りを見渡して、椅子にかけていた上衣を羽織った。それから戸をそーっと開けると、本当に虎月がいて珠里は目を丸くする。それも、日中見るのと同じ武官服だ。
「虎月様、まだお仕事中なのですか? いつ寝ているのですか?」
「夜ですが」
虎月が真面目な顔で答えるものだから、珠里は思わず空を見上げる。うん、月が浮かぶ夜空だ。
「夜って、今が夜ですけど」
「今日は……特別です。昨日、あなたが襲われたばかりですから」
警戒してくれていたらしい。
「灯りが見えたので、声をかけました。寝ずに、何をなさっていたのですか?」
「……ずっと寝ていたから眠くなくて、記録を読もうとしていたところです」
部屋の中の机を示すと、虎月は少しだけ眉間に皺を寄せた。
「失礼します」
虎月の手が、珠里の額に触れた。髪を避けて直に触れた手は武官ならではの固い感触で、不意に浴場でのことを思い出させられた。
珠里は頬が熱くなるのを感じて、けれど虎月の目の前で手で仰ぐわけにもいかずじっと固まった。
「……先ほど、蝶翠殿から熱は下がったようだとお聞きしたのですが。少し、熱いような気がしますね」
するりとその手が額から、温度を確かめるように頬に少しだけ触れて離れた。
手が離れてほっと息をついたのもつかの間。身長差があって、普段は珠里が見上げなければ目が合わない虎月の顔が真正面に見えて、無意識に息を止めた。
そんな珠里の様子には気がつかず、虎月は夜で明るさが乏しい中、分かりにくい顔色をよく見るように、珠里に顔を近づけた。
「気のせいか……? ですが、今日は休んでください。目が冴えていても横になっているだけで違います。治りかけが一番用心しなければならないのですから、無理は禁物です」
「大丈夫です。体の怠さはありませんし、熱もありません。何より、ただでさえ一日無駄にしてしまったのです」
その言葉に、虎月が一瞬辛そうな表情をしたかに見えた。
でも、見間違いだったのだろうか。瞬きの間にそれはなくなっており、虎月は心配そうな表情で首を振った。
「珠里様、焦らないでください。陛下のことが心配なのは分かりますが、あなたの身が立ち行かなくなってしまえば元も子もありません」
その眼差しに、珠里は惹き付けられる。この人は、璃子なのだろうか。昨晩面影を見てから、虎月にその影を追ってしまっているだけなのだろうか。
けれど、年の頃は確かに一致するのだ。
そうであれば、虎月は、まさか珠里が『珠里』であることに気がついてはいやしないだろうか? そんな考えを頭から振り払い、珠里は微笑む。
「……虎月様は、優しすぎませんか?」
この人は、珠里の身をとても案じてくれている。
虎月は、何も答えなかった。その沈黙に、珠里はふとあることを聞きたくなった。
「私が身代わりとして皇宮に来た日」
虎月が、唐突な話に首を傾げた。
「あなたと琅軌様はそれぞれ私に『命を落とす可能性があるが分かっているのか』と覚悟を問うてこられましたね」
「はい」
「琅軌様はあのとき、私が『いいえ』という返事をした場合自分なら覚悟を決めてもらうと仰いましたが、虎月様なら違っただろうと仰っていました。虎月様なら、どうされたのですか」
あの日、結局問う暇はなく、日々の中で頭の隅で気になり続けていたことだ。
虎月は、まっすぐに珠里を見て答える。
「俺なら、やめられるように力を尽くしたでしょう」
「……皇帝陛下の命であるのに?」
その問いにも、虎月は少しも躊躇う様子を見せなかった。
「陛下の命で命を賭ける役割の者がいます。それは影であり、俺のような武官です。……それ以外の者が、強制的に命を危険に晒さなければならない絶対の理由は存在しません」
道理が通った理由だった。しかし、それに続けて虎月は言う。
「ですが今、たとえあなたが自らの意志で命を賭けているとしても。俺は必ずあなたを守りますが、それ以前に危険な目に遭ってほしくないと思います。昨日のことがあっては、特に」
あまりに真摯な目に、珠里は胸を突かれたような思いがした。
「心に、留めておきます」
けれど、と言いたくなった言葉は辛うじて飲み込んだ。何かを言いかけて口を閉じた珠里の様子に、虎月は何も追及しなかった。
「側にいても構いませんか」
「え?」
「夜更かしの件、少しだけなら目を瞑ります。ただし、俺が側で護衛するのを許してくださったらです」
「──そういえば虎月様、寝てください」
「珠里様が今すぐお眠りになるのなら」
「……そう来ましたか」
悩む珠里に、微かに笑い、虎月は「とりあえずここでずっと話していては、俺が珠里様に風邪を引かせてしまいますから中に入ってください」と珠里を中へ促した。