始
大陸随一の大国にして、神仙より遣わされた仙獣伝説が残る最初の国、大爛国。
世が平穏なときにのみ現れるという瑞獣麒麟は、その国から姿を消したばかりだった。
伝説であれば麒麟が守護する国の中央にある皇都、皇宮は物々しい雰囲気に包まれ、裏門に人目を忍ぶ者たちがいた。
「やっぱり、嫌」
子どもが二人、大人が六人。
まだ寒さの残る曇り空の下、向き合う子供を囲み、大人たちは周りを警戒していた。
子どもは二人とも十ほどの年頃で、質のよい毛皮を使用した上衣を身につけていたが、少年の上衣の陰から皇族のみに許される喪服が覗いていた。
上衣の下に暗い色の普通の衣服を身につけた少女の方が、少年の手を取り言う。
「わたしが側にいる」
「駄目だ。ここは危険な場所だ」
「だから、天栄を一人にしたくない」
「僕はここにいなくてはならないけど、──珠里は用がない限り出入りするべきじゃない」
その言葉に、少女は表情を歪める。
「約束したことは忘れない。そのときが来たら、来てくれる?」
少年はあどけない顔立ちに不釣り合いな強い意志を目に宿し、少女を見た。少女は同じ目で見返し、しっかりと頷いた。
少年と少女は互いを抱擁した。少年の方が少し小さいので、少女の方が少しだけ包み込むようになる。
「じゃあね、珠里」
「またね、天栄」
子どもの別れが終わり、「さあ、珠里」と少女は傍らに立っていた男に抱き上げられて裏門を出た。
そして、以降五年、皇宮に立ち入ることはなかった。
*
「珠里様」
頭から地味な色合いの薄布を被った珠里は、呼びかけに物思いから意識を目の前に戻した。
大爛国の皇都は人と物で賑やかに満ち溢れる、国で最も栄える都だ。中央に位置する広い道には、日中庶民が行き交い、商人の馬車、警備の馬、貴族の馬車が走っている。
しかし夕刻になり日が沈むと、人通りはぐっと少なくなり、賑やかさはなりを潜める。
とある夜、大通りを一本外れ、地味な見た目の馬車が静かに通りを上っていた。
珠里の前に座る青年は、武官のなりをしていた。
髪は紺色、瞳は黒に青が混じる色合いで、端正な顔立ちをしていた。
目付きは多少鋭めだが武官の範疇と言え、粗野な雰囲気はない。
「……本当に、よろしいのですね」
青年の問いかけは、もう屋敷から三度目で、珠里は布の陰で笑った。黒くまっすぐな髪が笑った拍子に揺れ、衣の下から覗く黒の瞳が青年を見る。
「虎月様、ここまで来てまだ仰いますか?」
三度にもなる問いだが、今回こそ最後の問いと言えた。と言うものも目的地はすぐそこに迫っていた。
「そもそも私はいいと言ったどころか、『喜んでお受けします』と言いましたよ」
それとも、と珠里は相手を試すような微笑を口元に浮かべる。
「燕家の『引きこもり姫』は頼りないでしょうか?」
「引きこもり……? いや、俺は燕家の『深窓の姫』は病弱だと聞いていたので、言えばそちらの懸念なんですが……」
「え」
珠里は目を丸くした。というのも珠里は、兄に巷で自分は引きこもりと言われているのだと聞いていた。そのため、想定外の言葉に思わず隣に座る侍女を見ると、彼女は困ったように微笑んだ。
「うそ、兄様、嘘をついていらしたのね!」
思わぬところで嘘が発覚し、珠里は憤慨した。が、前からの視線に空咳して居ずまいを正す。
そうして何事もなかったかのように、淑やかに微笑んだ。
「まあ、燕家の娘として他の貴族に会ったのは数えるほどなので、そんな話にしたのかもしれません。私があまり外に出ないものですから」
「つまり、違うと?」
「違います。でなければ父は病弱な娘を放り出す鬼畜ですよ。あ、そう思ってらっしゃいますか?」
「大変厳しい総帥だとは聞きますが。俺が気にしているのは、単純に身代わりが危険すぎるからです」
珠里が「危険は危険ですね」とけろりと言うと、虎月は眉を寄せる。
「──死ぬ可能性があるんですよ」
囁くように小さく言われた言葉にも、珠里は「そうですね」と言うばかりか微笑んだ。
その、何も恐れがないばかりか、純粋そのものの微笑みに、虎月が虚を突かれたように目を見開く。
そのとき、こんこん、と馬車の外から合図がされた。珠里がちらりと外を覗くと、前方に巨大な石の壁が見えた。いよいよ着くのだ──皇宮に。
「さあ、始めましょう」
五年間、一歩も立ち入らなかった皇宮に珠里はこれから入る。
なぜ、そのようなことになったのか。事は、三刻前に遡る。