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冷酷な月の光

作者: 康也

「救急車を呼べえっ」


 父さんと母さんの関心は、俺の分も救急車に乗せられてサイレンとともに全部運んで行かれてしまった。今まで病院に置き去りにされてきたそれが、再び均等に分け合えるなんて。そんなわけ、ないのに。



「俺が医者になるためにって、随分お金を使わせた……。なのに、何もできなかった。逆に治療を受ける側になって、もっとお金を使わせた。望みもないのに。これからだってなあんにも、できないんだよなぁ……」


雲の切れ間から銀色の月明りが差し込む。隣の布団で窓に視線を向ける兄さんのやつれた白い顔はとても美しくて。乾いた唇から紡ぎ出される少しかすれた低めの声はすうっと俺の胸に沁みこんでいく。


 そんなことない。思わず出かかったその言葉は喉元に出る直前で中途半端に詰まった。


「だって、家に帰ったのだって。もう、無理だからだろう」

「それ、は……」

「生殺し」

 それを、なぜ俺に言う。俺に言われたって困るんだよ。ていうか、俺だって辛いんだよ。あんたばかりが辛いわけじゃないのに。


 兄さんの病気が発覚してから、俺にも使われるはずだったお金はほとんどが兄さんのために費やされた。塾に行かせてもらえるわけでもなく、そのくせ両親は俺が医者になることを望んだ。しかし、それは、俺自身への期待ではなく、代わりに夢を叶えて俺に兄さんの姿を投影するため――。


 真っ暗闇の天井をにらみつけると、胸の中にぐろぐろとしたものが渦巻く。

 黙り込んだ俺に兄さんはぽつりとつぶやいた。

「怖い」


 どの口が言う。


俺はやり場をなくしたそれを握りつぶした。

兄さんはいつ見舞いに行っても明るく迎えてくれた。幼いころから頼りがいのある強いひとだった。辛い治療が続いても、治ることを信じて涙一つ見せなかった。その兄さんが、怖い? あり得ないだろう。


 いつも兄さんは俺の先を行った。どんなに努力しても俺は敵わなかった。そして、俺はどこに行っても常に兄さんと比べられ続けた。常に評価にかかわってきた。俺が県でも屈指の有名高校に受かったら、兄さんは東京の国立大学に進学した。ついに、俺だけが評価されることはなかった。


俺は、どこへ行ってもおまけだった。


――あんたもすごいけど、お兄さんはもっと優秀ね。

――なんでこいつにできることがお前にはできないんだ。

――お前、もっといい大学に入って兄貴を見返してやれよ。


 でも、俺は兄さんのことが嫌いではなかった。それどころか、密かに心のどこかで尊敬していた。

――でも、それは兄さんが入院するまでだ――。

 両親は病気の情報を躍起になって集め、対照的に俺は放っておかれた。夕食は冷たい惣菜が増え、家族の会話は減った。

 なりたくて病気になったわけじゃない。


 俺よりも、兄さんの方が苦しんでいる。


分かっているんだ、そんなこと。


 俺が間違っていることなんてわかっている。十分すぎるほどわかっている。

 兄さんを恨むなんてお門違いだ。知っている、そんなこと。恨んではいけない。兄さんは辛い治療を受けて病気と闘っているんだから。知っているんだ、そんなことくらい。



「何言ってんだよ、らしくないな」

 笑いを含んだ声で、俺は言い放った。


「お前に言うのはお門違いだって。そんなの知ってる。」

「何、言って」

「でも、怖い。現実を知るのが。怖いんだよ。」

 兄さんの声が震えている。窓の外で冷たくもある光を放つ月に向けられた虚ろな目には透明な薄い膜が揺れていた。唇を噛み、なにかが壊れるのを必死にこらえているように見えた。

――こんなに弱い兄さんは、見たことがない。


「らしくないな。こんなに弱い兄さん、見たことない」

 

 俺は、もう一度そう言った。俺がついさっき鋭利な刃で切りつけてできた傷口に、塩を塗り込んでいるとも気づかずに。

 兄さんは、空虚な笑みを浮かべて言った。

「はは、そうだよな。いつも『兄』は強いもんな。」

「え……」

「弱かったらダメだよな。どんなに辛くても、強くなきゃいけないもんな。そうやって、死ぬまで『兄』からは逃げれないんだろうなぁ。もう、嫌だよ。疲れたよ。あは、ははは……」

 乾いた笑い声とともに鋭い棘のような言葉がチクチクと胸に突き刺さり、鈍い痛みを感じる。


――もう、嫌だよ。疲れたよ。



俺は初めて気づいた。――いや、ずっと目を背け続けてきた現実に強引に向き合わされた。


「兄」という立場がずっと、兄さんを苦しめていたのだということ。いつも明るく振舞っていたのも、俺たちを心配させないようにするがための演技で。


一番つらいはずなのに、兄さんは家族の誰にも頼ることはできなかった。はっきりとしたことが何もわからない、不安と絶望に押しつぶされそうになる日々の中、兄さんは誰のことも頼ることはできなかった。


「こんなこと、お前に言うのはお門違いだって分かってる。分かっているんだ。でも――それ、でも……」



ごめんね、兄さん。頼れる家族になれなくて。


ごめんね、兄さん。らしくない、なんて押し付けて。


ごめんね、兄さん。ひとりでずっと孤独に耐えていたことに気づいてあげられなくて。


 次々と胸から湧き出すものは言葉にはならなかった。その代わりに、熱いしずくが堰を壊して流れ出し、枕元に染みをつくる。


「ねえ――」

 一緒に寝ようよ。言葉にならなかった思いを汲み取ったのか兄さんが布団を俺の方に向かってめくる。温かくて優しい兄さんの匂い。消毒液の尖った冷たさが混じってしまった中にもそれは柔らかく残っていて。


 俺は兄さんをぎゅうっと抱きしめて穏やかな寝顔を見つめた。




 金色の満月はいよいよ闇の中に美しく輝き、慈愛に満ちた光を一軒家の窓へ届けておりました。前の、そのまた前の。ずっと前の満月から、わたしは見ておりました。その先で大人と子どもの狭間で葛藤し、悩む兄弟の姿を。


――このまま、薄く冷たい壁ができていくのだろうか――。


 ですが、それは杞憂のようですね。彼の目には、とても穏やかな光がともっております。乾いた唇には、微笑みさえ浮かべております。

 しかし――。わたしは思うのです。お兄さんがいなかったら、彼の目に光はともらなかったと。数多くの葛藤が、彼の目に穏やかな、それでいてどこか強い芯のある光をともしたのでしょう。

 ほら――。今、わたしに向けている視線も、前みたいにどんよりとした影はない。まだ、少し不安気に揺れているけれど。


――ようやく、刻が来ました。それでは、彼に試練を与えましょうか。わたしは微笑んで、天使に言いました。

「その、一番短い左から四番目のろうそくを吹き消しなさい――」


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