泥田坊の話
風が、土臭さを増した。湿りを帯び、べったりと鼻腔の奥に、張り付くようだった。
胃の腑を揺らす低い響きは、二つ向こうの山か、三つ向こうの山か。
雨が、近い。
井深甚右衛門は薄い酒を嘗めつつ、簾の下がった戸口を睨んだ。その眼球は黄色く濁り、鋭さを欠くものの、剣呑にぎらついている。
土色をした唇から伸びた舌先は厭に赤く、唇を濡らす酒の残滓を蛞蝓の這うように嘗めとると、土中に潜るようにまた姿を隠した。
やがてぼつぼつと、雫が地べたを叩く音。二つ三つ四つと始まって、間もおかず、途切れること無い雨垂れの音へと変じた。
朽ちかけた東屋は、屋根の其処彼処からぼつぼつと雫が漏れ滴り、灰色に枯れた床板に黒い染みを作り始めた。
雫がぴしゃと、甚右衛門の首筋を打った。
渋染めの襟首は擦り切れほつれ、茶黒い垢がこびりついていた。
甚右衛門は忌々しげに次の雫を湛える梁を睨むと、大儀そうに尻をずらした。
まだ体温が残る床板を、ぼつと冷たい雫が打ち、黒く滲んだ。
甚右衛門はまた縁の欠けた杯に唇を湿し、舌打ちをした。薄いばかりでなく、雑な味の酒だった。
甚右衛門はまた、戸口に下がる簾を睨んだ。
否。簾の向こう、降る雨に紛れて近付く何かを睨んでいた。
ザアザアともゴウゴウとも響く雨風の中から、バッシャと飛沫を上げて、濡れ鼠になった何かが、簾をくぐり、転がり込む。
「ひやあ、酷え雨ですぜ、兄ィ」
濡れ鼠は、甚右衛門の弟分の三吉だった。
甚右衛門は息一つ吐くと、無意識のうちに掴んでいた刀の柄から指を解いた。
三吉は細面で、左右の目の間が広く、反った前歯が口唇から覗いている。その面構えはまさしく鼠のそれであった。
「三吉、ちゃんと仕事のカタはつけてきたんだろうな」
「へっへっ、あたりめぇです。しつこい爺ィでしたが、兄ィの手を煩わすことはねぇです」
三吉は懐から綻びた巾着を引っ張り出すと、中身をジャラジャラと板間に空けた。
「あの爺ィが持ってた銭は、これっぽっちでしたわ。蹴ッ倒して家捜しして、火鉢の底までひっくり返して、これっぽっち。こりゃあ、嶋屋に田畑を召し上げられるのは当然でさぁ」
「はした銭は好きにしろと嶋屋の旦那は仰せだ。三吉、その銭で酒買って来い」
「うへぇ、この雨の中をですかい。今帰ってきたばかりなのに」
三吉は泣き出しそうな声を上げた。
いい歳をした男が上げる情けない声に、甚右衛門は渋柿を齧ったように顔を顰めた。
「後で構わん」
吐き捨てるように言った言葉でも、三吉の緊張を解くには十分であったらしい。
「さすが兄ィ、懐が深ぇや」
相好を崩し、三吉はどろどろに汚れた草鞋を脱ぎ捨てると、板間に上がった。三吉の通った後に、黒い濡れ染みがべたべたと広がった。
三吉は濡れた小袖を脱ぎ、褌一丁になると、大袈裟な素振りでちろちろ燃える囲炉裏の火に当たった。
「しかし、嶋屋の旦那も酷ぇ商売をしなさる。碌に字も読めねえ鈍百姓に高利で銭貸し付けて、返せなかったら担保の土地ごと引っぺがすなんてぇなぁ」
口ではそう言いながら、三吉はへらへらと嗤っていた。
それが、甚右衛門の癇に触った。
甚右衛門は残り少ない杯の酒をグッと飲み干すと、手の甲で口元拭った。
「酷いも糞もあるものかよ。端っからそういう話になってたんだ。深くも考えずに、目先の銭にホイホイと飛びつく奴が悪い」
「相変わらず、兄ィはキッツイなぁ」
三吉は相変わらず、無意味な苦笑いを垂れ流していた。
「しっかし、あの爺ィ、ほんとにしつこかったんですよぅ。おいらが銭払えねぇなら田んぼいただくだけだって凄んだら、それだけはぁそれだけはぁって、泣きながらしがみ付いて来る。家捜ししてる間も家にあるもんは何持ってったって構わねぇから、田んぼだけは勘弁してくれって。もううざとくってうざとくって」
胸糞悪い。
甚右衛門は、へらへら笑いを続ける三吉の横っ面に、唾を吐きつけたい衝動に駆られた。
「それでどうした、三吉」
「へぇ。結局銭もそこに在る分だけしか無かったもんだから、田んぼ召し上げだって言ってやったら、今度はもう鬼みたいな形相になって、またそれだけはそれだけはって。帰ろうにもしがみ付いて来るもんだから思ッ切り蹴倒したら頭打って、ようやく静かになって」
「貴様、殺してはなかろうな」
人死にが出ては、奉行所が動く。捕り方が嗅ぎ廻り始める。そうなっては、仕事どころの話ではなくなる。
「大丈夫です。ちゃんと脈があるのは確かめましたから」
「そうか」
甚右衛門はそれを聞いても、眉間に深い皺を刻みつけたままだった。
「どうしたんです、兄ィ。浮かねぇ顔ですぜ」
「土地に執着する老い耄れの妄念は、一筋縄ではいかんぞ。三吉」
甚右衛門は三吉を、黄色い眼で睨みつけた。三吉の顔からへらへら笑いが消え、血の気が引いた。腕に覚えがある者、独特の迫力だけではない。冷たい指で胃の腑を掴む、蛇のような毒々しい視線であった。
甚右衛門は、嗄れた声で己の来た道を、そぞろに語り始めた。
井深甚右衛門の生まれは、さる小藩の小禄取りの武士の家であったという。
甚右衛門がまだ二つの頃、藩が改易され、井深家は路頭に迷うことになった。甚右衛門の父はさる伝手を頼り、耕作放棄地を手に入れ、百姓としての生き方を模索した。
士分は失ったものの、父は甚右衛門に武士としての心構えを説いて育てた。
「斯様な賎しい身分に堕ちたれど、我が井深家は元は侍の家柄ぞ。気骨を持って生きよ」
甚右衛門の父は、士たるを貴しとし、農を賎しんだ。賎業を脱し、いつの日か武家としての再興を遂げよと、甚右衛門に己の望みを託した。
それが、甚右衛門には気に喰わなかった。偉そうなことを言い、見栄を張ったところで所詮は百姓。実りが無くば喰うにも窮し、年貢を絞られるばかりの生き様ではないか。
高潔たることを要求する父の教えと、泥に塗れてのひもじい生活とが、甚右衛門の心に歪みを生んだ。
歳が長じるにつれ、甚右衛門は父の言うことに反発するようになった。
甚右衛門十四の秋のことだった。飢饉が村を襲い、井深家も困窮のどん底に陥った。甚右衛門の父は僅かばかりの米を求めて高利貸しに手を出し、土地も家財も失うこととなった。
甚右衛門の父は「田んぼだけは」と哀願し、取立てに来たヤクザ者に縋りついた。妻や子が見ている前でありながら、日頃武士の気位などと語りながら、髪を振り乱して縋り、泣き喚く父に、甚右衛門は怒り、呆れ、失望した。
土地も家も失ったその日、甚右衛門は家を捨てた。
抜け殻のようになった父と、さめざめと泣き続けるばかりの母。誰も、甚右衛門のことなど見てはいなかった。奪われた田んぼばかりを、嘆き、惜しんでいた。
「俺は、親父のようにはならぬ」
甚右衛門はそれを心の柱とした。
「侍が何だ。偉そうなことを言いながら、食い扶持一つ満足に得られぬではないか。百姓が何だ。土地に縛られ、田に生かされるような生き方は御免だ。俺は、何にも縛られぬ。俺は、人から奪い、人を喰らってでも生きてやる」
顧みれば、甚右衛門はあの日、父を足蹴にした者共と同じ道に立っていた。
愚かな鈍百姓共は、土地を奪われるとなると、気が狂ったようにしがみ付いてくる。甚右衛門はその者たちを幾度も蹴り倒し、彼らの土地を容赦なく奪い続けてきた。
その度に、土地に縛られた者たちの狂気に慄き、その賎しさに憎悪を膨らませてきたのだった。
「彼奴らの執念深さを軽んじるなよ、三吉。土地を奪われた奴らは餓鬼にも等しい。なりふり構わず、土地を取り返そうとする」
うそ寒そうに、三吉は身を震わせた。
「まるで泥田坊ですなぁ」
「なんだ、それは」
「最近流行の絵草子に出てた化けもんですよ。田を奪われた怨念が、泥田の中から声を上げるそうですぜ。田を返せぇって」
甚右衛門は大きく舌打ちをした。
「化物のほうが、余程性質が良いわ」
うへへぇ、と三吉が気色の悪い笑い声を上げた。
甚右衛門は、刀の柄に手を掛けた。
三吉が声を詰まらせ青褪める。
しかし甚右衛門の視線は三吉ではなく、戸口に掛けられた簾の向こうを射ていた。
相も変わらず降り続ける雨音と、天上にくぐもり響く雷の轟きの狭間に、弱々しい声が微かに聞こえた。
「田んぼを……返してくれぇ」
甚右衛門は再び舌打ちをした。
「三吉、尾けられたな」
三吉の顔は青から白へと転じ、怒気を孕んで、さらに赤黒く変じた。
「あの糞爺! しつこいにも程があらぁな!」
三吉は褌一丁のまま転がるように土間に下りると、簾を翻して東屋の外に飛び出した。甚右衛門もそれに続く。
暗雲低く垂れ込め、目を開くも難い暴雨の荒ぶ中、痩せこけた老爺が立っていた。三吉が手を上げたのであろう、その右目瞼は大きく腫れ上がり、まるで幽鬼のように哀願の声を上げていた。
「田を、田んぼを返してくだされぇ……」
三吉はずかずかと歩み寄ると、老爺を殴り倒した。
「うるせえ! 金が払えねえなら田んぼは召し上げだ! そういう約束だったじゃねえか! 今更泣いて縋ったって遅ぇんだよ!」
三吉は倒れた老爺を執拗に蹴りつけた。その脚に、老爺がしがみ付く。
「田を、田を返してくれぇ!」
三吉は老爺を振り解こうと身を捩る。
雲中に雷光が奔る。
その刹那に、甚右衛門は老爺の手に鋭利な閃きを見た。
「三吉、離れろ!」
その声に、猿のような三吉の悲鳴が重なった。
三吉は、身体をくの字に折って泥に倒れこんだ。
老爺の手には、赤く塗れた匕首が握られていた。
「この気触れ者がぁっ!」
甚右衛門は刀を抜くや、野犬の如き獰猛さで老爺に突っ込み、大上段から斬りつけた。
老爺が逃げ腰になったために、甚右衛門の一太刀は、浅く額を割るにとどまった。
老爺はもんどりうってひっくり返り、一段低くなった泥土の中に転げ落ちた。
「田畑狂いの糞爺が! 貴様のような奴は見るだに虫酸が走る!」
甚右衛門も泥地に降りると、立ち上がろうとする老爺を蹴倒した。
「貴様のような、貴様のような生き方が! 貴様のような輩が、俺の人生を狂わせたのだ!」
甚右衛門は袴が泥に塗れるのも構わずに、老爺を何度も何度も蹴り転がした。
甚右衛門の目は血走っていた。鼻息も荒く、肩で息をしている。
甚右衛門にとってこの惨めな老爺は、彼の人生の、惨めさそのものを体現しているようにさえ思われた。
泥の塊のようになった老爺が身を起こす。
その顔に、片方だけの目が白くぎらついている。
厭わしい闇を湛え、洞となった口が開き、呪詛の詞を吐き出した。
「田を、返せぇ……」
甚右衛門の中で憎悪と嫌悪が、恐怖の火花を飛ばして、爆ぜた。
猩猩の如き叫びを上げ、甚右衛門は泥土の怪物に切りつけた。
肉裂く手応え。骨断つ音。
暗天に閃いた雷光に、映えた紅い飛沫が眼に焼き付く。
甚右衛門は怖れていた。慄いていた。
何処までが体で、何処からが泥ともつかなくなったそれに、甚右衛門は執拗に刀を叩きつけた。
悲鳴とも雄叫びともつかぬ奇声を上げて、甚右衛門は刀を頭上に振りかざした。
その瞬間、天地を灼くほどの光と轟音が奔り、刀の切っ先を撃った。
甚右衛門は声を上げる暇も無くその身を焦がし、泥田に砕け散った。
やがて、雨が止む。
漸う雲が晴れ、その隙間から覗いた歪な半月が、泥に塗れた三つの骸に、白けた光を投げ落としていた。
(了)