第四話‐1:夕闇に交る ―マシな捨て犬―
新品の真っ青なジーンズを見、俺は半ば腰を折ってうなだれる。リネちゃんには悪いが、このチョイスはどうかしている。まるで囚人服だ。玄関ホールの鏡のなかで、縮こまった囚人Aが途方に暮れていた。
とうとう半年洗わないでいたジーンズまではぎ取られてしまった。酔っ払ってこぼした酒や、人知れず流した涙が染み込んだ、俺の一番の相棒だったのに。まあ、ヴィンテージものでもないからいくら洗濯されてもかまわないんだが。それにしたって、おろしたてのジーンズほど居心地の悪いものはない。その感触たるや、遠い昔初めてアソコがおっ立った時の感覚に似そっくりだ。何も知らないピュアな俺は、どう触れていいのかもわからない。はじめて覚える違和感に、少年はただ身を委ねるしかないのだ。
洗濯物を溜め込むごとにリネちゃんのおっかなさは増していた。俺に催促する時の彼女は、いつもどおり口調はおとなしいのだが、言葉の端々にぎらついた棘を山盛りに仕込んでいた。そんな棘つきバットのような小言を事務所ですれ違うたびにピンポイントで投げつけてくるのだ。ピュアでナイーブな俺にはとても耐えられない。どんな無理難題だろうと、彼女の願いならば従者の如く聞き入れるより他はない。君は将来きっといい奥さんになれるだろう。俺が保障する。斜に構えてそう言ってやると、彼女は本当につまらなそうに礼を言った。最近はどうも腕が鈍ってる。十四歳の女の子さえ落とせそうにない。
小さな女王に別れを告げ、俺は事務所を飛びだした。ドアを開くなりムッとする湿気を顔面に食らい、夕暮れ時の喧騒が耳を塞ぐ。なるだけ気にせず階段を駆け下り、斜陽に赤く染められた人々の群れにダイブする。傍若無人に流れに掻き入った俺へ皆の視線が集まるが、彼らはすぐに顔をそむけ、背中で非難を浴びせながら再び行進に溶けていった。全く湿気た街だ。無関心か、殺し合いか。文明の最果てに棲みつく人間は、二通りのお付き合いしかできないようだ。
程なくしてタクシーを捕まえ、エルシティの中心街に向かう。いつもならMJ社製のフロートバイクでひとっ走りするところだが、生憎こないだのミッションでバッテリーパックを野良エグゼに撃ち抜かれ、二ヶ月の修理に出していた。奴は俺がバイクから声をかけるなり構わず拳銃をぶっ放しやがった。バイク前部に取り付けられた分厚いパックが盾になって、俺は無傷で済んだのだが。せっかく執行前に説得してやろうとおもったのに、こちらが下手に出るとすぐこれだ。俺は殺したいほどの怒りを抑えてバイクから飛び降り、丁寧に奴の右膝を撃ち抜いて生け捕りにしてやった。ジーンズは奪われるは、バイクは撃たれるは。いっぺんに友人を失った気分だ。
俺は何をするでもなく、タクシーのドアに頬杖をついて窓の外を眺めていた。ガラスの向こうに、累々としたCラインの街並みが浮かび上がっては消えていく。群生する建物の地肌は沈みかけた太陽に赤黒く塗られ、さながら死体の山を見るようだった。いつも通りの単調な風景は眠気を誘う。ついさっき起きたばかりなんだが、この頃いくら寝てもしつこく睡魔が付きまとってくる。平穏の徴なのか。それとも。ただ年をとっただけか。
薄い意識の中、やがて建物は途切れ途切れになり、アスファルトと騒音対策の衝立以外は何も見えなくなった。ハイウェイに入ったようだ。
「お客さん、中心街っていうと、ダレスの駅前でよろしいんですかね?」
急に眠りの淵から呼び起され、心底不機嫌になる。スラムの運転手は客への気配りってやつを全くわかっちゃいない。気を配るほどの価値がある客が、ほとんどいないのも事実だが。
「ああ、それで頼む。月が昇るまでには間に合うようにしてくれよ」
クレイグのおっさんとの約束は六時だったか、七時だったか。女の子との待ち合わせだったら秒単位で時間を合わせるが、今日のデートのお相手はあの一年中暇そうなおっさんだ。きっと今頃にはもう、安い酒をあおり始めている。一、二時間遅れても、ろれつの回らないお叱りを受けるだけで済むはずだ。
あのおっさんと飲むのはいつ以来だろう。前回呼び出されたのは確か、プラズマガンの年度更新をサボったときだったか。いや、ゴートの連中とやりあったときか? いずれにしろあのおっさんは、大した理由もなしに度々俺を呼びつけては夜通し管を巻く。まぁ、昔からうちの事務所は彼の世話になってるので文句は言えない。
タクシーはハイウェイを降下し、雑居ビルの乱立するエルシティの街並みに進入する。商業地区にあるような洒落た高層ビルは見当たらないが、酒場と風俗に関してはフェリス随一の充実っぷりだ。I‐3の方々から、包みきれない欲望と少しばかりの金を握りしめた男たちが夜虫のように吸い寄せられていく。おかげでエルシティの税収は、諸産業が軒並み衰退する中でI‐3区画のトップに立って久しい。肝臓と下半身が、この腐った都市を回している。
週末の夕方だけあってメインストリートは無数のガソリン車でごった返している。そりゃスモッグもなくならないわけだ。二十世紀の遺物が、いまだに我が物顔でアスファルトを支配していた。
どうにか車の波を切り抜け、タクシーがダレス駅のクライスト像前に滑り込んだ時には七時をとっくに回っていた。タクシーを降り、財布をしまうついでにデバイスを取り出す。二件新着メッセージが入っていたが内容の確認はしない。どうせクレイグのおっさんだ。我が麗しのマージさんをはじめ、女性からのメッセージが届く時は大音量で「愛のコリーダ」が流れるようにしてある。それ以外の奴からなら当然無音だ。俺は短いため息をつき、約束のバーへ向かった。