第三話:見えない距離 ―生活する少女―
せっかく雨はやんだのに、堆い鉄塔が伸びる空はスモッグで滲んでいた。これが晴れた空です、って誰かに騙されてるみたいだ。わかってはいたけど、少し落ち込んで目線をでこぼこのアスファルトに戻す。
わたしは小さい頃からこんな空しか見たことないけど、行政地区や商業地区にはアクリル絵の具で塗りつぶしたような青空が一面に広がっているらしい。大昔に商業地区で違法アルバイトをしていたパパから聞いた話だ。昼間は皆せわしなく歩くことに夢中で、せっかくの青天を気にも留めない。ところが日が沈みかけるとフェリスの海がカクテルの様に匂い立って、忙しい人々もしばし手を止め片時の感傷を楽しむ。やがて高層ビルの群れが競うように輝きだし、行き場を失った夜空の星達はやけになって瞬きつづける。子守歌代わりに聞かせてくれたそんなパパの都会の話が、幼いわたしは大好きだった。
今日の買い物はあと一軒。リーデル通りの端っこにある野菜屋さんへキャベツとトマトを買いに行く。あの通りは無認可の人たちやホームレスの人がたくさん行き来してて、夜になるとわたし一人ではとても歩けそうにない。でもまだ十分に明るいし、何といってもあのお店が仕入れてくれる野菜はCラインの町で一番おいしいのだ。カッコわたし調べ。地下温室で育ったスーパーの野菜とはまるで比べ物にならない。
ちなみに店主さんはかなりの無愛想で、品物を渡すときもたいてい無言のまま。だけど毎朝外地のファームから苦労して仕入れてくれてるのを知ってるから、わたしはあのお店がお気に入りだ。
買い物が済んだら事務所に帰ってジェイドさんとアランの洗濯物を片付ける。いつも汚れた服は朝までに出してほしいとお願いしてるけど、気のいい返事ばかりでなかなか出してはくれない。ほんとは午前のうちに洗濯を済ませたいのに。
ジェイドさんは週の五、六日は朝帰りで、帰ってくるなり着の身のまま寝てしまい昼過ぎまで起きてこない。夕方になるといつの間にか事務所を抜け出して、活気づきはじめたエルシティの歓楽街に消えていく。だからジェイドさんの服を奪い取るチャンスは午後の短い時間にしかないのだ。
アランはいつも着ているグレーのガウンをなかなか手放そうとしない。出かけるときも寝るときも、明らかにサイズの合っていないそのガウンにくるまっているのだ。今日の買い物のついでにオーソンズキャンディーを買ってくることを餌にして、やっと洗濯の約束をとりつけた。そろそろ夏になるのだから、薄手のものに切り替えなきゃいけないし。あの焦げ茶のマントでは厚すぎて代わりにならない。
マージさんが初めてアランを連れてきた日のことを思い出す。彼は焦げ茶のマントを深々とはおっていて、事務所の中でもそれを脱ごうとしなかった。温かい部屋の中なのに寒風から身を隠すように古びたマントにくるまり、冷めた視線を床に落としていた。つららのように垂れ下がった銀色の前髪が色白の顔を覆い隠し、マントの厚手さもあいまって、彼だけが雪原の中にいるように思えた。
夕食の時も左手だけを注意深くマントから差し出し、幼い体をわたしたちの目に触れさせないようにしていた。フォークを鷲掴みにし、慣れない手つきで皿上のステーキに突き刺す。口元まで肉を持ってくると、ソースをぼたぼたとこぼしながら夢中でかぶりついた。食事のマナーだけには厳しいマージさんは、その時ばかりは何も言わずにアランの所作を見守っていた。妙にやさしい彼女の視線に、わたしは少し不安になった。
全くアランを咎めようとしないマージさんやジェイドさんにかわって自分が注意しようと思ったけど、一瞬マントの下にちらついた黒金色の筒を見てからは、わたしは何も言えなくなった。
オールドガンナーだ。七年前の紛争で国防軍を壊滅状態に追いやった半人半銃の人たち。大切な家族と住みかを守るために、自分の身体を悪魔にささげた人たち。わたしのパパを殺した人たち。
幾日か過ぎ、無口だったアランは徐々に口を開くようになった。シャワーの使い方やゴミの分別も覚え、少しづつではあるけど事務所の生活に溶け込んでいった。彼は自分の身の上については何一つ話そうとしなかったけど、事務所の電子機器や街の建物がもの珍しく見えるようで、新しいものを見つけるたびにわたしを質問ぜめにした。最初はわたしも一つ一つまじめに答えていたけど、段々めんどくさくなってきてデタラメな知識を吹き込むようになった。そのたびに真剣に驚くアランの仕草がおかしくて、わたしの悪ふざけは加速するばかりだった。そうしているうちにわたしがアランの一番の話し相手になっていた。
アランは相変わらずあの焦げ茶のマントを身につけていたので、お小遣いで丈長のガウンを買ってあげた。大人用のサイズだったからアランが着るとぶかぶかだったけど、そのおかげで右腕の銃を隠すことができた。ガウンを着たアランは鏡の前でうれしそうに腕をくるくるとまわしていた。後ろに居るわたしに気づくと、半身だけ振り返ってぎこちなく微笑み、ありがとう、と言った。
わたしはまた何も言えなくなる。怒りとも憐れみともつかない感情が、胸にこみあげた。その時は無理に笑顔を取り繕い、無言のままうなずくしかなかった。
考え事をしていたら、いつの間にか歩調がゆっくりになっていた。わたしの悪い癖だ。あわてて腕時計を見ると、三時をすこし回るところだった。そろそろジェイドさんが起きだす頃だ。急がなきゃ。
低層団地に挟まれた日陰の裏路地を足早に通り過ぎていく。リーデル通りに寄るときに私がよく使う近道だ。表通りの賑わいから隔絶されたこの道には、あちこちに壊れた電化製品や野ざらしの家具が乱雑に置かれていて、ただでさえ狭い道幅がますます窮屈に感じられる。頭上の空間に浮かぶ明るい空と、地面や団地の古壁に張り付いた濃密な黒い影が目のくらむような対照を作り出していた。
遠くからリーデル通りの喧騒聞こえてきた。街はもうすぐだ。わたしはさらに歩を早める。
裏路地の出口を目に捉えたとき、人影が向こうからこちらを窺っていることに気づく。最初は逆光でよく見えなくて、怖くなった。でもすぐにガウンの余った袖をぷらぷらさせるアランだと分かり、わたしは安堵して、少しあきれた。
「なにやってるの」
少しいらついた口調で聞いてみせる。最近のアランはいたずらの楽しさを覚えたようで、わたしを驚かし、反応を眺めることを日課にしていた。立場が逆転しつつある。
「リネを待ってた。ここ女の子一人じゃ危ないから」
何の作為も感じられないその笑顔にさらにいらつく。ここでの生活はわたしの方がずっと長いのだ。道だって断然わたしの方が詳しい。
「はいはい、ありがとうね、アラン。危ない目にあったらわたしを守ってね」
うん! とアランは強く頷く。銃と一体になった右手を胸の前に掲げ、背筋を伸ばして得意げにポーズをとってみせた。本人は勇ましいと思っているだろうけど。わたしにはごっこ遊びをする子供にしか見えなかった。可笑しくなって、思わず吹き出してしまう。アランは右手を掲げたまま不服そうにわたしをにらむ。
わたしはアランが銃を使うところを見たことがなかったし、見たくもなかった。オールドガンナーであるとはいえ、アランが装着手術を受けたのは今よりもずっと小さい頃のはずだ。自分から進んで殺戮の徒に成り果てたとは思えない。過去のアランがどれほどの人を殺めてきたのか分からないけど、今わたしの前にいる彼は紛れもなく普通の、無邪気な男の子だ。だからわたしはこれ以上の現実を必要としなかった。
「リネ、ボディガードの給料がほしいんだけど」
私の笑いは苦笑に変わる。今日の目当てはこれか。スーパーのビニール袋からキャンディーボトルを取り出し、アランに手渡す。ひまわりのような笑顔が幼い顔に広がった。
二人で手をつないでリーデル通りの雑踏に足を踏み出す。年の近い弟ができたみたいで、なんだかうれしくなる。
昼下がりの大通りは、夕食の買い物客であろう主婦たちでにぎわっていた。薄汚れた大きな軍用のトラックが、商店街に挟まれた窮屈な道路を走り去って行った。