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08 霧に消える

 葬儀は石田家の旧領にある菩提寺で行われた。

 桐吾は東興(とうきょう)近郊に住む留学生仲間の三人とともに参列した。その中には川島魁山もいた。

 石田家の三人の息子のうち長男と次男は父の死を理解しているようだったが、三男はわかっていないようで、本堂に多くの人々が集まっているのを興味深げにきょろきょろ見ていた。

 未亡人となった妻は突然のことでまだ気持ちの整理もつかないようで呆然としていた。

 さすがに出棺の際、棺の蓋に釘を打つ時は泣き崩れていた。そばで三男が母上、泣かないでと舌足らずながらも言っているありさまは参列者の涙を誘った。


「若過ぎる」


 魁山の言葉に皆同意した。

 菩提寺近くの墓所に石田幾三郎の棺は埋められた。こうして石田幾三郎は享年三十九で生涯を終えた。

 四十九日が過ぎた頃、桐吾はふと緑明館のパーティに来た商人夫婦のことが気になって、所在を調べた。すると石田の葬儀の十日後に夫婦はフロランに帰国するため日本を出たことがわかった。夫人の名まえはフロランの女性によくあるものであった。偶然に似ていただけなのだろうと桐吾は結論づけた。






 だが、五年前、桐吾が肺炎で危篤に陥った時に夢で見た石田はあちら側ではなくこちら側にいた。

 あれは己の生きていて欲しかったという願望だと孫の章子には言った。けれど、あの夢よりも前に、桐吾は石田がまだ生きているのではないかと思うことが幾度かあった。

 亡くなった翌年の初盆の前に、桐吾は石田家を訪れた。一家は夫人の実家の所有する借家に住んでいた。夫人は仕立物や近くの農家の手伝いをしながら三人の男子を育てていた。苦労のためか白かった顔も手も日焼けしていた。

 仏壇に燈明を上げ、三人の子どもらに母上を助けてしっかり勉強するように言い、仏前に備えるにしては少々多めに包んだ金封を渡すと、夫人は驚きいただけませんと言った。

 桐吾は石田君には世話になったからと言って無理矢理受け取らせ、時間がないので帰りますと辞した。

 するとお送りしますと長男が立ち上がり、幼い三男もともに駅までついてきた。

 すでに夕方近い刻限であった。ふと見上げると、雀よりも一回り大きな黒い影がすっと頭上をかすめるように飛んでいった。


「蝙蝠だ」


 長男の言うように蝙蝠らしかった。すると三男が言った。


「あのコウモリ、よく家の近くにいるよ。きっと父上だよ」


 桐吾はセルマイユの港でのことを思い出した。


「父上が蝙蝠なものか」

「だって、父上みたいにぼくをじっと見てるもの」


 すでに中学生になっている長男にとっては末っ子の言葉は理屈に合わないものだった。桐吾もふだんなら一笑に付すことであった。だが、セルマイユで蝙蝠が岸に向かって飛び、その岸にヴァッケンローダー夫人が立っていたのを思い出すと、蝙蝠が人に、人が蝙蝠に姿を変えることがなぜか不自然には思われなかった。

 駅に着くと、長男と三男はありがとうございましたと改めて礼を言った。桐吾はホームに立って改札口の向こうの少年二人を振り返った。長男は母親に似ているが、三男はどことなく石田に似ていた。

 駅舎の上にまた黒い影が見えた。今度は蝙蝠は二羽いた。

 蝙蝠はぱたぱたと羽根を翻し駅舎の屋根の向こうに消えた。






 数年後、桐吾は公用でシソハイに行った。そこでも、自分を見つめるように建物の屋根にとまる蝙蝠を見た。霧がやがて立ち込め晴れた時には蝙蝠の姿はなかった。

 その夜、桐吾は宿舎になっているホテルで夢を見た。

 ベッドに眠る自分を見下ろしている人間がいる気配がした。これは物盗りの類ではないかと思ったが、夢かもしれぬと思い、目をしっかり開けて見上げると、見覚えのある顔だった。

 黒ずくめの三つ揃えの背広に黒いマントをした石田が立っていた。

 やはり夢だと思った。石田は死んでいるのだ。

 石田は何も言わず、じっと桐吾を見下ろしていた。


「心残りでもあるのか」


 尋ねると、石田は首を横に振った。ああよかったと桐吾は思った。長男は高等学校に入り、次男も中学生、頑是(がんぜ)なかった三男も小学生になった。夫人も元気だと聞いている。心残りのあろうはずはなかった。

 いつの間にか、横にヴァッケンローダー夫人が立っていた。

 一緒にいるのかと思っているうちに桐吾の意識は遠のいた。夢はそこで終わったらしかった。






 そんなことがあったせいか、桐吾は石田は死んでいるはずなのに、どこかで生きているように思えてくることがあった。

 生きているはずなどないのだが。孫娘に話したように、棺桶から出てくることは愚か、死者が生き返ることなどありえぬのだ。

 それにヴァッケンローダーという伯爵家は存在しない。名まえを偽る等の彼女の行動はどう考えても間諜の振舞としか思えなかった。だから章子に間諜だと言ったのだ。

 ただ一つの可能性を除いては。






 孫娘の嫁入り数日前のことだった。

 章子は書棚の本を紐でくくっていた。新居に持って行くためである。片付けの途中で女学校の友人が来たと知らされた章子は部屋を離れた。

 ちょうど桐吾は庭先を歩いており、章子の部屋の近くまで来ていた。孫の部屋を縁側から覗くと、まだ片付けの終わっていない本がたくさんあった。

 桐吾も息子夫婦も章子が本を読むのを黙って見守っていた。きわどい内容の本でなければ、買うのを許していた。世間では娘が本を読むと近目になってしまう、頭でっかちになってしまうと言って嫌がる家が多いが、内川家ではそれはなかった。

 一体、いかような本をと思い、縁側から上がってそこに積まれた本を見た。

 いかにも女学生の読みそうな物語やイスギリやメカリアの児童文学の翻訳本があった。

 このような書物を読んで、孫は留学の夢を育んでいたのだろうと思うと微笑ましかった。

 が、その中に少しだけ表紙の趣の違うものがあった。手に取って開くと、「世界の怪異譚」という題名が書かれていた。目次をさっと見た。

 狼男、魔女、悪魔、古城の幽霊、水妖、火龍などといったおどろおどろしい文字列の中に女吸血鬼という文字があった。桐吾の脳裏にひらめくものがあった。

 女吸血鬼の項はすぐに見つかった。なぜなら、幾度も読まれた跡があったからである。

 読み進むうちに桐吾の手は震えてきた。

 吸血鬼は夜だけ行動し陽の光にあふれた昼間は姿を見せない。鏡に姿が映らない。鋭い犬歯で首筋から血を吸う。血を吸われた者も吸血鬼の眷属となり不死となり永遠の安息を得られない。蝙蝠に姿を変えることもある。

 桐吾は思い返した。ヴァッケンローダー夫人を天気のいい昼間見ることはなかった。引っ越して来た日の午後は昼間だが曇っていた。エイムズ家に来たのも夕刻だった。

 蝙蝠に姿を変えるのなら、タッカー家の屋根裏部屋の外に現れてもおかしくない。フロランのレストランから馬車を追いかけて来た蝙蝠、セルマイユの港の蝙蝠も、もしや……。

 そして初盆の日に見たのも、シソハイで見たのも……。

 信じがたいが、頻繁に現れる蝙蝠を思うと、あれは石田ではなかったのかと思われてくる。

 だとすると、石田の首筋の口吸いの痕は血を吸われた痕ではなかったのか。

 石田もまた吸血鬼の仲間になってしまったのではないか。


「手伝ってくださるなんて、いいのかしら」

「任せて。いつもお兄様の出張のお手伝いをしているから」


 章子と友人らしい少女の声が聞こえてきたので、桐吾は本を元あった場所に置いた。

 章子と友人は祖父の姿に驚いた。桐吾は英英辞典を持っていないようだから、自分のをやろうと言って自室に戻った。






 以来、桐吾は思う。

 ヴァッケンローダー夫人は吸血鬼だったのではないかと。

 彼女は石田のことが忘れられず、東の果てのこの国まで商人の妻に身をやつしやって来たのではないか。

 石田幾三郎は彼女に再び魅入られて、妻子を捨てその眷属に加わってしまったのではないかと。

 墓所の土の下の棺桶に果たして彼は眠っているのか、確認はできない。だが、シソハイの夜に見た夢は夢であって夢ではないように思えてくるのだ。

 もし石田が吸血鬼になったとしたら、その不思議な力で人目のない真夜中に棺桶から抜け出せるのではないか。吸血鬼のヴァッケンローダー夫人の手助けがあれば難しいことではあるまい。

 ことによると、夫と称する商人もまた眷属ではないのか。二人がかりで墓の土を掘り、棺桶の蓋を開ければ、よみがえった石田をたやすく外に出すことができよう。

 商人夫妻が出国した際に石田は身をやつし召使として同じ船で一緒に国外に出たのではないか。召使のことまで桐吾は調べていなかった。

 そうして不死となった石田は夫人とともに名を変え世界をさまよっているのではないか。

 梅の花が散って梅の実を成すように、人は後の世の人のために働き死んでゆく。

 その流れに逆らって不死のまま永らえることは果たして幸せなのか。






 泰尚八年(一九一九年)三月、横浜の港からメカリア西部の都市サングレゴリオに向かう客船上に肱岡春樹・章子夫妻の姿があった。

 桟橋には見送りの仕事仲間や親戚が並んでいた。乗客らは別れを惜しんで甲板に出て手を振っていた。

 出港という時になり、急に霧が出てたちまちのうちに深くなった。出港はいましばらく待つこととなった。

 章子は見えなくなった桟橋から視線を横の春樹に移した。相変わらず端正な顔である。


「出港遅れるわね」

「でも、霧は必ず晴れるものだよ」


 春樹は穏やかに微笑んだ。

 その時だった。霧の中、黒い影が船に近づいた。


「あ、蝙蝠」


 章子の視界に二羽の蝙蝠が現われ、やがて船を覆う霧の中に消えていった。


「珍しいね、こんな船に飛んでくるなんて。少し冷えるな、部屋に戻ろう。出港の時は知らせがあるはずだ」


 章子は夫に従い、船端から船室の入口に向かった。

 霧は深く、向こうからこちらに向かって歩いてくる人の姿がおぼろげに見えた。


「深い霧ですね」


 春樹は向こうから近づく人に向かって言った。


「ええ。困ったものです」


 紳士の穏やかな声が聞こえた。


「あなた方はメカリアへおいでですか」


 紳士の連れの婦人が流暢な日本語で言った。よく顔は見えないが金色の髪だけが見えた。


「はい。首都に仕事で参ります」

「そうですか。それはご苦労様です」

「幸せを祈っています」


 近づく紳士の姿が霧の中から浮き出るように見えた。春樹は足を止めた。


「あなたは」


 章子は夫の声の震えに気付いた。その時、近づく紳士と連れの婦人の姿がくっきりと見えた。

 紳士は壮年の日本人で黒い三つ揃えのスーツを着て肩にマントを羽織っていた。横に立つのは金色の髪に澄んだ青い目をした異国の婦人だった。羽織ったコートの下には赤葡萄酒の色のドレスを身に付けていた。

 章子はかつて聞いた祖父の話を思い出していた。

 まさか……。

 口を開こうとした時だった。霧が急に深くなり、二メートルほど先にいた紳士と婦人の姿が見えなくなった。

 それから十も数えぬうちに霧がさああっと晴れた。

 春樹と章子の前には誰もいなかった。ただ夕闇を背景に船と港の灯りが見えるばかりであった。


「今のは……」

「きっと他の入口から船室に入ったのだよ。入口は一つではない」


 春樹はつぶやいた。紳士が伯父の家の仏壇に置かれている祖父の若い頃の写真によく似ていたことなぞ、妻に言えば怯えるに違いなかった。

 章子は夫の言う通りだろうと思った。葡萄酒の色のドレスの女性などどこにでもいるはずである。それに同じ船に乗っているのだから、この先会うこともあるだろう。

 出発を告げる銅鑼が鳴らされた。

 章子は桟橋の方に身体の向きを変えた。春樹は冷たい風から妻をかばうように立った。

 友人や家族が大きく手を振るのが見えた。春樹と章子も手を振った。

 若い二人の旅立ちだった。






 桐吾は港には行かず自宅にいた。

 今頃船は港を離れたであろうか。

 五十三年前の初冬、郵便船で横浜を出港してイスギリまで長い旅をした。様々な事件があり、いろいろな人に出会った。かけがえのない日々。共に学んだ友。

 正味二年もない留学であったが、あの日々が、友が愛おしかった。けれど残っている友は数少ない。遠方に住んでいれば会うことも難しい。

 恐らく章子が帰国する頃には、己はこの世にはいないであろう。

 だが、己や仲間の仕事は様々な法や規則となってこの国に残る。法を守り法に守られて章子や曾孫たちは生きていくだろう。

 部屋の障子を開けて庭を見ると梅の花はすでにない。小さな実が付き始めているようだった。

 不意に梅の木の枝に黒い何かがパタパタと音を立てて止まった。

 それを見ようとしたが、目の前に霧がかかったようにかすんで見えない。

 セルマイユの港の霧のように深い霧が桐吾を包んでいるようだった。けれど迷いはなかった。霧のかなたに一条の光が見えた。それに向けて桐吾は歩き始めた。霧の中にいまださまようかのような友とその恋人を残して。






 梅の木に止まっていた蝙蝠二羽は老人の永遠の眠りを見届けると、月のない空に向けて飛び立った。

 



   Fin



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