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07 梅

 肱岡春樹の祖父は石田幾三郎だった。

 幾三郎亡き後、残された妻は親族の援助を受けながら三人の息子を育てた。そのうち次男が肱岡家に婿に入って生まれたのが春樹であった。

 春樹の両親は早くに亡くなり、石田家の長男である伯父英太郎の援助を受けて帝國大學に入学したのだった。

 祖父の話していた石田の孫ということで、章子の中には急速に親しみのようなものが湧いてきた。今までは見目の良い帝大生の家庭教師でしかなかったのに、昔からこの人を知っていたような心持ちさえ覚えた。

 春樹の伯父は春樹との血縁関係を説明し、いかに優秀な甥か力説した。


「私も父を早くに亡くしましたが、春樹はそれよりも幼い頃に両親を亡くし寂しい思いをしたはずですが、今や立派な帝大生。内川様のお孫さんと縁ができて亡き父も喜ぶことでしょう」

「それでは式はいかがしましょう」


 父の問いに決まっていたかのように伯父は答えた。


「来年三月、章子さんが女学校を卒業しましたら」


 祖父も両親も賛同した。本人達の意思は置き去りである。


「私が大學を卒業してからではいけませんか」


 おずおずと春樹が言った。章子はほっとした。あんまり早過ぎる。


「こういうことは早いほうがよい。春樹君、先ほど君が言ったように章子は学校に通うことになるが、別に結婚していても学校には行けよう。学費は当家で持つ。君は帝大を卒業したら外務省に入るつもりだと聞いている。海外勤務になれば、章子も一緒に行ってそちらで勉強もできよう」


 祖父の言葉に章子ははっとした。妻ならば春樹の洋行についていくことができる。


「それでは、よろしいのですか、来年三月に」


 春樹の声がうわずっていた。章子は驚いた。こんな春樹の声など聞いたことがなかった。


「構わん。この年寄りが生きているうちに、孫の花嫁姿を見せてくれ。できたら曾孫も見せて欲しいが、それは贅沢な話だな」


 祖父は笑った。


「ありがとうございます」


 春樹の感謝の言葉に章子は驚いた。もしかしたら、春樹さんは私のことを?

 その後は母屋の洋室でクリスマスの晩餐会となった。

 章子は向かい側に座る春樹の顔がまぶしくて顔をまっすぐ上げられなかった。それでも時折ちらりと見ると相変わらずナイフとフォークの所作が美しかった。

 晩餐会終了後、章子は両親とともに玄関まで春樹と伯父を見送った。


「それでは、また」


 いつも家庭教師の時間が終わる時と同じ口上を告げて、春樹は帰って行った。

 章子は次の授業が来るのが怖いような楽しみのような不思議な感覚を覚えていた。






 縁組が決まって初めての家庭教師の時間はその二日後の午後だった。

 春樹は女子英文塾の過去の英語の入試問題を試験と同じ時間で章子に解かせた。

 解答と解説はいつものごとく辛口だった。章子はこの前のことは夢だったのではないかと思った。

 時間になったので、春樹が帰ろうとすると、ばあやがやって来た。


「お時間がよろしければ、お茶をご一緒にと奥様が仰せです」


 春樹はお言葉に甘えてと言い、章子とともに応接室に入った。

 待っていた母に春樹は先日はどうもありがとうございましたと礼を言った。母はこちらこそよろしくお願いしますと言い、ちょっと用があるからと部屋を出て行った。

 お茶とお菓子の載ったテーブルを挟んで二人だけになると、章子は急に心細くなった。勉強を教わっている時はそちらに夢中だったが、こうやって二人だけになるとどうしていいかわからない。

 だが、それは春樹も同じようだった。うつむいてティーカップを見つめるだけだった。

 章子はこれではいけないと思った。


「先生、お茶をお飲みください」

「はい、いただきます」


 章子もティーカップを手にした。紅茶の味が今日に限ってわからなかった。

 二人同時にカップを皿の上に置いた。


「あの」


 同時に声を出していた。なんだかおかしくて章子は笑ってしまった。すると春樹もハハと小さく笑った。


「ごめんなさい、笑ってしまって」

「私こそ。章子さん、この前は驚いたでしょう」


 章子は顔を上げて春樹を見た。端正な顔である。


「結婚、本当にいいのですか。私などで」


 それは章子の本心だった。嬉しい気はするが、自分はこんなに見目の良い人とは釣り合わない気がする。薫子のような人ならきっと似合うだろう。でも、もし薫子と春樹が結婚すると聞いたらきっと悲しくなるに決まっている。


「章子さんだからいいのです。私が伯父に頼んだのです。あなたを妻にしたいと」


 上ずった春樹の声を思い出した。やはりそうだったのだ。


「一緒にメカリアに行きましょう。あなたは向こうの学校で勉強すればいい。でも、たまには私と一緒に大使館のパーティに出てくださいね。外交官の夫人は我が国の婦人を代表して赴任先に行くのですから、たくさん勉強してください」

「はい」


 この人とともに生きる。章子は決意した。






 泰尚四年三月、ミャーロッパでは相変わらず戦争が続いていた。

 高等女学校を卒業した内川章子は肱岡春樹と結婚した。親戚だけのささやかな挙式であったが、章子は幸せを噛みしめていた。

 実家近くの小さな借家が二人の新居だった。新郎は帝大生、新婦は女子英文塾の学生である。実家の援助で女中を雇い、章子は勉学を続けた。

 漠然とした憧れだけで留学を考えていた頃と違い、外交官夫人として恥ずかしくない教養と語学力を身に付けるという目標を得て章子の勉学は一層進んだ。

 春樹も目標に向けて専門の国際法の勉学に励んだ。

 若い二人を周囲は温かく見守った。






「大殿様、大殿様」


 おきよの声で目を覚ました。


「御加減はいかがですか」

「今日はよい」


 おきよの手を借りて内川桐吾(とうご)は床から出て着替えた。嫁に行った孫の章子が今日挨拶に来ると知らせがあったので、きちんとした姿で出迎えねばならなかった。


「おひいさまはメカリアに行ってしまわれるのですね」


 おきよは昨日から何度もこの言葉を繰り返していた。

 結婚してから四年、帝大を卒業した春樹は外務省に入り、このたび在メカリア大使館に書記官として赴任することになったのだ。女子英文塾を卒業した章子もともにメカリアに渡り当地の女子大の聴講生となることになった。

 ミャーロッパの戦争はメカリアのフロラン・イスギリ側への参戦によってナストリア・シンガリア帝国とゲマルン王国の敗北という形で終結した。メカリアは今や国際関係において大きな影響力を発揮していた。そのような情勢の中でのメカリア大使館勤務が重要な役割を担うということは、老人にも十分理解できた。

 袴を着けると、老人はおきよの用意した朝食をとった。ほぼ全部食べ終え、おきよが膳を持って行った後、縁側に出て庭を眺めた。

 春浅き早朝の庭の中央にある二本の梅の花は散り始めていた。やがてこの梅は実を成し、それを摘んだものを塩漬けすれば梅干しになり、酒に漬け込めば梅酒となる。花の散るのは寂しいが、実りを思えば悲しくはなかった。

 すべての物は滅びることで次を育む力となるのだろう。それは人も同じ。


「石田、なぜ、おぬしは」


 石田幾三郎の死の数日前のことを、桐吾は思い出していた。






 あの日緑明(ろくめい)館で外国人を招待してのダンスパーティが行なわれた。

 幕末に諸外国と結ばれた国際条約はミャーロッパやメカリア有利のもので、不平等なものであった。条約改正を進めるために、新政府は海外の大使らを歓待する施設として緑明館を建設した。

 海外の大使や名士らを招待して様々なパーティが行なわれた。海外の新聞記者らは猿真似のようなことをしてとせせら笑ったが、新政府の要人たちは夫人や令嬢とともにパーティに出て、国の近代化をひたすらアピールしていた。

 内川桐吾もまた内務省の役人として、パーティの手伝いに駆り出されることがあった。なぜ、こんなことまでと思うこともあったが、国のためならと耐えた。

 その日のパーティは海外の教育関係者や商人を招いたものだった。教育関係ということで文部省の石田幾三郎も大臣のお供として控えていた。

 役人になってからもたびたび会っていた桐吾と控室で二人きりになった時、石田は言った。


「こんなことをして、条約は改正できるのか」


 桐吾も同じ思いを抱いていた。パーティだけで条約が改正できるわけがない。


「これだけでは駄目だ。だが、できることはなんでもしなければ。我が国はまだまだ東洋の小国に過ぎぬのだ」

「だが、似合わぬ外国のドレスを妻や娘に着せて踊らせるような真似は」


 それは桐吾も思っていることだった。けれど、手段を選んではいられない。

 そこへ給仕が来て大臣のお召しですと言うので、二人はホールへ向かった。

 きらびやかな灯りの下、楽団の演奏が流れる中、大勢の貴顕がホールで踊っていた。

 大臣の元へ行くと、ちょうど来客の外国人との談笑中であった。


「石田君、ここへ。内川君も」


 呼ばれた石田は大臣の傍にはせ参じた。その後ろから桐吾もついて行った。

 来客はフロランの商人だった。年は自分達とさほど変わらぬように見えた。挨拶をすると、商人は振り返り背後で大臣夫人と話している夫人を呼んだ。

 振り返った顔に桐吾は血の気が引いた。ありえない。

 石田の後ろ姿に衝撃が一瞬走ったのを桐吾は見逃さなかった。

 結い方こそ違うが豊かな黄金色の髪、ほっそりとした胴回り、白い肌、青く透き通るような瞳、高過ぎず低過ぎぬ鼻、赤く艶やかな唇、白くきれいに並んだ歯、薔薇色の頬、それらが理想的に配置された顔、商人の夫人はヴァッケンローダー伯爵夫人とうり二つだった。

 商人は石田に、君はダンスの名手と聞いている、妻と踊ってくれないかと言った。石田は畏まりましたと言って、夫人に挨拶をして踊っていただけますかと話しかけた。夫人はにっこりと笑った。

 そのまま二人は手を取り合って踊りの輪の中に入っていった。

 それは見事な踊りだった。明らかに他の踊り手とは違い、息がぴったり合っていた。

 桐吾は恐ろしかった。ヴァッケンローダー夫人はあの頃三十前後だったはずである。とすれば今は四十半ばを過ぎているはず、ことによると五十になっているかもしれぬ。それなのに、この女性は瓜二つで年も取っていないように見えた。

 同じ人物とは思えぬが、あまりに似過ぎていた。娘かとも思ったが、そのような年齢にも見えぬ。

 大臣や高官、商人らと会話を交わしながら、桐吾の頭の中は踊る二人のことでいっぱいだった。

 やがてパーティはお開きになった。

 後片付けを指示する石田の顔は紅潮していた。酒など一滴も口にしていないのに。

 すべてが終わり、緑明館を辞した時にはすでに冬の満月は真上からやや西に傾いていた。

 ともに同じ方向に住まいがあったので二人は冬の夜道を並んで歩いた。

 しばらく二人とも黙っていたが、桐吾が切り出した。


「似ていたな、あの婦人」


 しばらく石田は黙っていたが、ややあって、ああとだけ答えた。


「血縁の者だろうか」

「わからぬ」

「あの頃は、こんな仕事までするとは思わなかった。パーティの片付けまでするとは」


 そう言って桐吾は話を切り換え、高官たちの噂を語った。無論、差し障りのない範囲での話である。

 石田は黙って聞いていた。

 やがて道が二手に分かれるところまで来た。石田の家は左手、坂を上った先にある。桐吾は右である。桐吾は右手を上げて言った。


「それでは、また」

「どうもありがとう、さようなら」


 石田は立ち止まり、桐吾に頭を深々と下げた。こんな丁寧なお辞儀は初めてで、桐吾は驚いたが、きっとあの婦人のことで頭がいっぱいで調子がいつもと違うのだろうと思い、手を振って右手の道を進んだ。

 それが生きている石田との最後のやりとりだった。

 三日後の朝、役所に出勤した桐吾は石田の近所に住む同僚から訃報を知らされた。






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