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05 蝙蝠

 石田はじきにエイムズ家に戻って来た。その途端に雨が降り出した。イスギリには珍しい大粒の雨であった。雨は夜半まで降り続いた。

 翌朝は嘘のように晴れわたり、私たちはエイムズ家の人々に見送られ手荷物だけを持って汽車でラングのいる家に向かった。石田はバラの花束をエイムズ夫人に献上していた。

 汽車の中で私は何も尋ねなかった。が、石田は言った。


「もう会うことはあるまい」


 石田は堅く己に誓ったようだった。






 章子は祖父の声がかすれ気味になってきたので白湯の入った湯呑を渡した。


「すまぬな。あと、もう少しなのだが、今日は疲れた。どうも、前のように話ができぬ」

「この前のように熱を出しては皆が心配します」

「そうだな。続きはまた」


 祖父はそう言って、起こしていた身体を床の中に横たえた。

 章子は自室に戻った。

 ヴァッケンローダー伯爵夫人。

 一体、何者なのであろうか。ひょっとしたらと思い、章子は書棚の奥に隠すように置いた本を取り出した。「世界の怪異譚」という題名もおどろおどろしい書物であった。両親が見たら、かようないかがわしいものは読んではならぬと言うに決まっているので、出入りの書店では買わず、級友に頼んでその叔父が経営している書店から入手したものだった。

 パラパラとめくった。あった。

 「女吸血鬼」という項目があり、夜の闇に美しい女性が犬歯をむき出しにして微笑んでいる挿絵は禍々しかった。

 恐らく石田の首筋にこの犬歯を突き立てたに違いなかった。鏡に映らないという記述とも一致する。

 これが夫人の正体なのではないか。

 だとすると、石田はどうなってしまうのであろうか。

 吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼となってしまう。石田は首筋に咬み痕があったのだから吸血鬼になってしまったのではないか。それなのに、伯爵夫人と別れることなどできるのであろうか。一体、石田はどうなってしまったのか。他の人間の生き血を吸うようになってしまったのではないか。

 章子は会ったこともない石田という男の境遇を思い身震いがしてきた。よもや、今も吸血鬼となってこの世をさまよっているのではないか。なんという恐ろしくも哀れなことか。

 まこと西洋にはこの国にはいない化け物がいるらしい。きっと、祖父は化け物がいるから行くべきではないと言いたいのであろう。

 だが、化け物に遭うこともなく、留学して名を成し、英学塾を創設した女性もいる。自分は男に迷わず吸血鬼の誘惑にも負けず、学問を究めると章子は決意したのだった。






 祖父の話の続きは意外に早く聞くことができた。

 三日後、祖父に来客があった。川島魁山(かいざん)という立派な白いあごひげをたくわえた老人である。関西に住んでいるが所用で東興に出て来たついでの訪問ということだった。

 病室に呼ばれた章子を見た魁山翁はにこにこと笑っていた。

 章子は初めましてと自己紹介をした。すると魁山は赤ん坊の頃に一度会っていると言い、大きくなったものだと言った。無論、章子は覚えていない。

 祖父もまたいつになくにこやかな顔をしていた。


「川島様は、私たち伝習生の取締役であった」


 あっと章子は叫んでいた。祖父の話にたびたび出て来た川島様とはこの人であったのかと。


「まあ、それでは。祖父がお世話になった方とは知らず」

「こちらがお世話になったようなもの。それに取締役といっても大したことはできず」


 川島魁山はそう言うと、昔を懐かしむように目を細めた。


「章子は女学校を出たら留学したいと申しております」


 祖父の言葉に魁山は微笑んだ。


「若いということは素晴らしい。私も若ければまたイスギリを訪ねたいもの」

「それで、私たちの留学のことを話しておりました。石田のことも」

「石田幾三郎か」


 即座に魁山は言った。


「はい。下宿を去り、ラングのところへ戻ったことまで話しました」

「わかった。では私が続きを話すことにしよう。もし記憶違いがあったら内川君、その場で訂正してくれ」

「川島様の記憶にはかないません」


 祖父は笑った。






 あれは慶明三年のことだから、もう四十七年たつのだな。

 イスギリの夏は実に美しい季節であった。到着した時は冬で陰鬱な霧に覆われていた街から澱んだ空気が一掃され、家の庭には花花が咲き乱れていた。

 ラングの家にも美しい花花が咲いていた。あの花の手入れをしていた庭師が誰の金で雇われていたのか考えると腹が立ったがな。

 そんな中に私たちは再び戻って来た。

 私たちは交渉の結果、それぞれ専門の学問を学ぶため大学に入学した。内川君は法律と政治を学んだ。石田君は英文学だった。私は年長であったし、フロランの都パロで行われていた万国博覧会においでになった公方様の名代の弟君のイスギリ訪問を迎えるため、フロランと行き来する必要があったので大学には行かず海軍関係の勉強をしていた。

 内川君は勿論、石田君の学問の進捗は目を見張るものがあった。私は会話が苦手だったが、石田君は実に流暢にイスギリの人々と話していたものだった。

 公方様の弟君がイスギリを訪問した際は、通訳を手伝ってもらった。彼のおかげで弟君は満足されて、今後の留学では家庭教師をして欲しいとも仰せであった。

 ラングの生活は相変わらずであった。彼はどうやったのか、幕府から我らに与えられた費用を食い物にしていた。私は取締として伝習生一同の不満を伝えたものの、大臣の命令で自分が預かっているのだからと、派手な生活を改めようとはしなかった。

 私はついにラングを解雇して欲しいと愛戸(えど)の御老中に手紙を送った。その返事を待つ間に、慶明三年の年は暮れ、慶明四年の一月四日。すでにイスギリの暦では一月の二十八日のことであった。パロにおいでの外国奉行から知らせがあった。

 前年の十月十四日に公方様が政権を朝廷に返上されたと。

 我らはその知らせに呆然となった。

 ドンロンの街が霧に覆われているかのごとく、我らの心もまた霧の中のようであった。これからどうなるのか、まったくわからなかった。

 それはフロラン、オランド、ラシアにいた伝習生も同様であった。このまま学問ができるのか、それとも帰国せねばならぬのか。

 幕府も混乱しており、帰国せよ、いや帰国せず学問を続けよと命令はころころ変わって、いやはやたまったものではない。

 恥ずかしい話であるが、我々も勉強に身が入らなかった。

 そんな中で内川君はこれこそ政治の生きた勉強だと言って、新聞を取り寄せ我が国がいかに報道されているか研究していた。章子さん、おじい様はまことに冷静な方なのだよ。

 石田君もまた勉学に励んでいた。帰国の命令が出るまでできるだけ学べることは学ぼうとしていた。

 私はといえば、イスギリ外務省やパロの弟君や外国奉行と連絡を取り合って今後の方針を決めたかったが、なかなかはかどらなかった。国からの送金も途絶えがちであった。故国の遠さが恨めしかった。

 結局、私がパロに赴き話し合いの末に帰国が決まったのは四月の末のことであった。あちらの暦ではもう五月になっていた。三か月以上我らは宙ぶらりんの状態であったのだ。

 一か月後の閏四月、我らはイスギリから船で海峡を渡りフロランのパロに向かった。そこでフロランとオランドに留学していた伝習生と合流した。

 公方様の弟君はなんとご自分の滞在費から我らの帰国の費用を出してくださった。十六歳というお若い身ながら、まことに御立派なことであった。もし弟君が費用を出してくださらなかったら、我らはイスギリ政府に船賃を出してもらいナフリカ大陸の南端を回るイスギリ船で帰国せねばならなかったのだ。一日でも早く帰国したい我らにとってはそれはまことにかたじけない御心であった。出発日の前日にはレストランで送別の晩餐まで開いてくださった。

 我らは汽車でフロラン南部のセルマイユへ向かいその港から地狭海を船でアキレサンドリアまで向かった。その後は往路を逆に帰って行った。

 忘れもしない六月二十五日、西洋の暦では八月十三日、我らはやっと故国の土を踏むことができた。

 我らはすでに髷を切っていたので、そのままの髪で自宅に戻れば人目につき何が起きるかわからぬので、付け髷をした。

 こうして我らの留学は終わった。

 内川君、付け加えることはないかな。






 川島魁山の問いに祖父はあると言った。


「川島様はお気づきにならなかったかもしれません。が、セルマイユを出発する時に、奇妙な出来事があったのです」

「奇妙なとは?」


 魁山同様、章子もそれを知りたかった。


「それは、パロでの送別の宴の後から始まっていた」


 祖父は目を閉じ、静かな口調で語り始めた。






 宴の料理はたいそう立派なものであった。レストランは森の中にあったことを今も覚えている。

 我らは森の中のレストランを出て馬車に分乗し、宿にしているホテルに戻った。私は石田、一番年少の蓑田大吾とその兄の秀作と同じ馬車に乗った。

 森を出てしばらくして、大吾が小窓の向こうを見て叫んだ。


「兄上、御覧ください、蝙蝠(コウモリ)が」


 秀作だけでなく、私も石田も馬車の横についてくるように飛ぶ蝙蝠を見た。

 一体、コウモリという生き物はかように早く飛べるものなのかと思うほどの速度であった。

 さすがに街の中に入ると、コウモリの姿は見えなくなった。

 我らはホテルの狭い部屋に戻った。一部屋に八名ばかりが入ったはずだ。来た時とは大違いであった。

 幕府が政権を返上するとはこういうことであったのかと我らは悟った。力をなくした幕府に仕えていた我らは異邦では只人に過ぎぬのだ。

 考えてみれば、政権を返上するほどに幕府は弱体化していたからこそ、ラングなどのような輩に我らは食い物にされたのかもしれぬな。権力がなくなるということはそういうことなのだ。

 その夜は一つのベッドに二人、三人が寝た。狭苦しかったが文句は言えぬ。国に帰れば、果たしてどういうことになっているかわからぬ。少しでも寝て明日からの長旅に備えねばならなかった。

 真夜中のことであった。ふと窓をカタンカタンと叩くような音がした。

 我らの部屋は三階にある。風の音であろうかと思ったが、それにしては誰かが叩いているような規則的な音であった。

 隣の石田もびくりとしたように頭を動かした。真っ暗な中、つぶやく声だけが聞こえた。


「カロリーネ」


 ヴァッケンローダー伯爵夫人の名をなぜここでと思った。

 石田は頭から毛布をかぶってしまった。私もそのまま寝てしまった。

 翌朝、我らはパロの駅を出発しセルマイユへと向かい、夕刻郵便船に乗った。

 出港まで時間があったので、我らは甲板に出て、フロランの夕景を眺めていた。が、不意に霧が立ち込め始めた。これでは出港できぬと思った。


「あ、蝙蝠だ」


 またも大吾が叫んだ。我らの近くに立つ帆柱の上に蝙蝠がとまっていた。

 私も石田もそれを見上げた。

 不意に蝙蝠が帆柱から飛び立ち、降下した。そして、我らの横をスイーっと飛び、霧の中を岸壁の方向に向かっていった。


「昨夜の蝙蝠がついてきたのでしょうか」


 ふだんは大人顔負けに英語を話す最年少の大吾が子どものようなことを言ったので、その周りの者は皆笑った。だが、石田だけが笑っていなかった。

 私の視線に気付いたのか、石田は笑顔を見せた。私はもやもやとしたものを感じていた。それが何かわからなかった。

 笑いがやんだ頃、霧が晴れ始めた。

 岸壁の様子も再び見えた。

 やがて、我らの乗った船は出港した。岸壁を見つめながら、私はミャーロッパでの日々を思い出していた。

 我が国より進んだ文明、汽車、印刷術、素晴らしい植物園、博物館、広い劇場、訓練された軍隊等々もさることながら、エイムズ家の人々の人情、タッカー大佐の憎しみ、ラングの狡猾さ、人々の無邪気な好奇心など洋の東西を問わず変わらぬ人の心を思い出し、私は感傷的になっていたのかもしれない。

 その感傷的になっていた目に信じられぬものが映った。

 岸壁に葡萄酒の色のドレスを着た黄金色の髪の女性が緋毛氈の色のバラの花束を持って立っていた。

 それは決して見間違いではなかった。なぜなら、私の隣に立つ石田もまたそちらを見つめていたからだ。

 石田の顔から読み取れる感情は一つではなかった。歓び、悲しみ、苦しみ、怒り、およそ恋情がもたらす様々な感情を見出すことができた。

 けれど、船は岸壁から遠ざかるばかりである。次第に女の姿は小さくなっていく。石田の表情は次第に悲しみの色を濃くしていった。


「カロリーネ」


 つぶやきは虚しく海の波音に消された。






「石田君も隅に置けぬな」


 魁山翁はそう言うと、冷めた茶を口にした。

 どうやら魁山翁は石田幾三郎の束の間の恋を知らなかったらしい。


「奥方一筋かと思っていたが、さようなことがあったとは。亡くなった時にも、誰もが真面目な男と言っていたが、色めいたこともあったのだな」

「亡くなられたのですか、石田様は」


 章子は思わず問いを発していた。

 ヴァッケンローダー夫人が女吸血鬼ならば、咬まれた石田も吸血鬼となって生きているものとばかり章子は思っていた。

 

「明慈十八年だから二十九年前だな。三十八であった。心臓の発作であった」


 魁山の言葉に章子は少しがっかりした。ヴァッケンローダー夫人は吸血鬼ではなかったのだ。


「私はその頃はすでに役所勤めを辞め、私塾を始めていたが、石田君は文部省に勤め我が国の教育に大いに貢献していた。実に惜しい男であった」

「まことに」


 祖父はうなずいた。






 章子は川島魁山を玄関まで見送った後、祖父のいる病室に戻った。

 祖父はまだ床から身体を起こしていた。


「少し横になられてはいかがでしょうか」

「横になる前に、ちといいか」


 祖父は章子を手招きした。章子は枕元に座った。


「石田は生きておる」


 章子ははっとした。

 どういうことか尋ねようとした時だった。荒々しい足音が廊下から聞こえてきた。


「父上、大変です」

「何を慌てておる、見苦しいぞ。それでも直参の家の(あるじ)か」


 部屋の障子を荒々しく開けた四十三になる息子を祖父は叱った。


「これが慌てずにいられましょうか」


 父は手に號外と書かれた新聞を持っていた。


「ナストリアの皇太子夫妻が暴漢に暗殺されたのです」

 

 それが何を意味するのか、まだ章子には理解できなかった。 

 祖父は新聞を父からひったくるように奪い取って読み始めた。






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