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04 鏡

 石田の話では、初めて伯爵夫人が訪ねて来た夜、壁にかかった小さな鏡の前にたまたま立った夫人の姿が鏡に映っていないように見えたということだった。見間違いかと思い、目をこすると夫人は石田の隣に座っていたという。これは幻ではないかと思ったが、触れれば、ちゃんと人の肌の感覚がある。恐らく自分の目がおかしかったのであろうと思い、以来確認はしていないという。

 ミャーロッパの鏡は我が国のものと違い、実に綺麗に姿を映す。我が国の鏡は曇って映りが悪くなれば、鏡研ぎに頼んで磨いてもらう必要がある。しかるにミャーロッパの鏡はその必要もない。

 そんな精巧な鏡に映らないとは尋常なことではないのに、なぜ女人をその後も部屋に入れたのだと尋ねると石田は恥ずかしながら伯爵夫人への恋慕の情を抑えきれなかったからだと言った。


「だが、今日、皆と久しぶりに会い学問に励むさまを見ていたら、己が恥かしくなった。しかも、自分のことをあれほど気にかけて心配してくれるのを見れば、ますます恥ずかしくなった。恋情にやつれるなど、見苦しい限り」


 私は安堵した。石田は己のすべきことを忘れてはいなかった。公方様のご期待に沿うため、国のため、我らには他国から進んだ政治や技術を学ばなければならぬという尊い務めが課せられているのだ。

 そこへエイムズ医師が帰宅した。

 私が言いだすまでもなく、医師は石田の顔色を見て驚き、診察しようと言った。石田はそこまでしてもらっては申し訳ないと言ったが、エイムズ夫人も出て来て遠慮せぬように言った。さすがに石田もあらがえず、医師の書斎に入り診察を受けた。

 四半時もせぬうちに、私は書斎に呼ばれた。

 医師はやや貧血の気があると言った。滋養のあるものを食べ、よく眠ればよくなるとも言った。

 それからと付け加えるように言った。


「首筋に何か生き物のつけたような咬み痕がある。部屋に鼠のような小動物がいて就寝中に咬んだのかもしれぬ。鼠は病を媒介することもあるから、気を付けるように」

 

 首筋の咬み痕などまったく気づかなかった。シャツの襟に隠れる部分にあったらしい。


「心当たりはあるのか」


 私の問いに石田はうつむき、ああと言った。

 いやはやタッカー大佐の屋根裏部屋のなんと劣悪なことかと、私は呆れた。前の住人がすぐに出てしまったのも(むべ)なるかな。


「下宿を替わったほうがいいのではないか」


 私の提案にエイムズ医師もうなずいた。勤務先の医院を訪れる患者の中に下宿人を置きたがっている者がいる、よければ紹介しようとも言った。

 石田はありがたいお言葉だがタッカー大佐に申し訳ないのでと言い、断った。

 遠慮も大概にせよと言ったが、石田はそういう男だった。変なところで義理堅いのだ。

 タッカー家に帰る石田を散歩がてら送った。


「すまぬ、心配をかけて」


 そう言いながら、石田のまなざしはヴァッケンローダー伯爵夫人の住まいの生垣のバラに向けられていた。

 バラにはいくつもの品種があるという。私にはわからないが、それは緋毛氈のような色の花びらが八重に咲いたもので、伯爵夫人の美貌を彷彿とさせた。


「己はなんと見苦しいことを」

「美しいバラには棘があるのだ。おぬしは夫人の棘に刺されただけだ。棘を抜けば傷はやがて癒える」


 その時の私は愚かにもそう思っていた。


「かたじけない。忘れるよ、この恋情を」


 石田はそう言うと、立ち止まり、夫人の住む家を振り返った。窓辺にはカーテンが下りて、灯りが漏れていないせいか、どこか寂し気な住まいに思われた。

 タッカー家に着くと、私はちょうどそこにいた大佐に告げた。石田を医者に診せたところ、体調がよくないので今よりも滋養のあるものを出して欲しいと。

 途端に大佐は不機嫌になった。当家ではそれなりの食事を出している、それなのに、これ以上滋養のあるものを出せとはなんという強欲者かと大佐は怒りをあらわにした。

 私はこれではよくなる病もよくならぬと思い、では明日荷物を取りに伺います、今夜は私のところに泊めますと言い、石田の手を引いて玄関を出た。

 石田はこれは礼を欠いているのではないかと言ったが、仲間がこのまま弱るのを見過ごすことはできなかった。それに軍人のくせに伯爵夫人の侵入を防げぬのだ。よほどエイムズ家のほうがいい。


「次の下宿が見つかるまでの話だ。エイムズ医師の言っていた下宿もある。とにかく身体が大事だ」


 私はそう言ってタッカー家の門から出た。石田は申し訳なさそうに振り返り、門の前で丁重に頭を下げた。

 私はそんな石田の後ろ姿を見た後、タッカー家の建物を見上げた。屋根裏部屋の窓と思しき窓を見た。そこまで上がるには近くに大きな木がないと無理だと思っていたが、木などなかった。どう考えても梯子を持ってくるしかない。一体、どうやって伯爵夫人はあそこまで登ったのか。

 わけがわからぬまま、私は石田とエイムズ家に戻った。






 三日もたつと、石田の顔色はだいぶよくなった。

 私の部屋の窓を伯爵夫人が叩くこともなかった。石田がここにいることを彼女は知らないのだろう。

 鼠の咬み傷も治ったらしく、石田は散歩の途中の公園で襟を(くつろ)げて見せてくれた。傷は薄くなっているようだった。ふとずいぶん口の大きな鼠だと思った。イスギリの鼠は大きいのかもしれぬ。


「それにしても大きな鼠だ」

「鼠じゃない」

「え?」

「これは、あの人だ。あの人の口吸いだ」


 あの人。ヴァッケンローダー伯爵夫人が? こんな咬み傷を作るほどに口吸いをするのか。

 衝撃だった。西洋の女はなんと恐ろしい口吸いをするのだ。


「痛かったであろう」

「いや、さほどは」


 西洋の女というのはわけがわからぬ。恋情ゆえに屋根裏部屋の外まで登り、咬み痕ができるほどの口吸いをするなどとは。化け物じみている。そういえば、鏡に映らなかったと言っていた。まことに化け物かもしれぬ。

 これは厄払いでもしたほうがいいのではないかと言おうとした時だった。


「おお、ここにいたか」


 日本語の声に我らは振り返った。

 川島様だった。西洋の紳士のように白いシャツにズボンを着た姿は以前に比べずっとさまになっていた。

 

「エイムズ家に参ると散歩に出たというので、探しに来たのだ。実は、少々困ったことになってな」


 探しに来るとは急ぎの用らしい。我らはすぐにその場にあったベンチに座って川島様の話を聞いた。






 川島様によると、イスギリの大臣じきじきの書面で、下宿をやめ、全員元の家に戻るようにとの命令が下ったのだという。

 ラングが留学生に脅されて下宿を許したが、これはよくない、健康を損ねる者も出たと訴えたということだった。

 石田は自分のせいだと言った。だが、川島様はそんなことはない、恐らく、ラングは留学生にかかる費用を私的に流用することができなくなったので、石田のことを問題視して大臣に訴え出たのだろうと言った。

 ラングが我らにかかる費用を流用しているのではないかという疑いは以前からあった。私もイスギリに来てからラングの生活が派手になっていると感じていた。着ている物が贅沢になり、何かと理由をつけてパーティを開き友人を呼んだ。


「大臣名の命令では我らも逆らうことはできぬ。だが、今度はそれぞれ希望の大学の講義を受けられるように交渉してみようと思う。前のように工学や医学、兵学の講師が全く来ないというのでは話にならぬからな」


 川島様はそう言い、すでに関係の方面に話をしているということだった。

 そうであった。皆と一緒に住んでいる頃は、文学や物理学、数学といった基礎的学問の講師は来たもののすでに愛戸(えど)で学んだ内容が多かった。当然、医学や法学、工学といった専門的な学問の講義は皆無に等しかった。佐津間の留学生のほうがよほど専門的な勉強をしていた。

 今は家庭教師にそれぞれ来てもらっているが、やはり大学の講義となれば質が違う。

 エイムズ一家との時間はそれなりに楽しかったが、我らは皆勉学にイスギリに来ているのだ。初心を忘れてはならなかった。

 川島様は事情を説明した後で、石田に向かって言った。


「タッカー家を出たそうだね」

「はい」

「あそこを下宿に決めたのは私だ。まことに申し訳ない」


 川島様の口調はいつになく弱かった。


「もう少し調べてから決めるべきであった。タッカー大佐という人は遠縁の若者を佐津間との(いくさ)で亡くしていたのだ」


 それには私も石田も驚いた。四年前の騒動は江戸でもかなり話題になった。私も友人達と大砲を町人のいる場所に向けたイスギリの野蛮な振舞に怒り、佐津間の攘夷を称賛したものだった。


「そういうことがあるとわかっていれば下宿に決めなかったのだ」

「畏れながら、ならば石田をあちらが断ればよかったのでは」


 川島様は私の言葉にうなずいた。


「そう思うのだが、人の気持ちとはわからぬもの。恨みを乗り越え許そうと思っても、人の心はそうたやすく変わるものでもあるまい。石田君にはまことに悪いことをした」

「さようなことはお気になさらないでください。タッカー家でのことは、嫌なことばかりではありませんでしたから。奥様の料理は心のこもったものでした。シーツもいつも清潔なものを使わせてもらいました」


 心がこもっていても量は少なくまずかったはずだし、庭に干したシーツを見たが古いものに見えた。石田はまことに人がいいと思った。

 川島様は忙しいらしく、公園を先に出て駅へ向かった。

 後で聞くと、他の留学生のところにも行き、事情を説明したらしい。ひとところに集めて話せばすむものをいちいち一人ずつそれぞれの事情を汲んで話をするというのは、まことに細やかな人であった。






 エイムズ家に戻り、夫人に数日のうちに下宿を退去することになったと伝えた。

 夫人は残念がり、それでは最後の夜はお別れのパーティをしましょうと言った。小学校から帰って来たリゼットはクッキーをたくさん作ると張り切っていた。リチャードは是非とも自分の在籍する大学に行くのがよいと勧めてくれた。

 まことに人情というのは洋の東西を問わぬもの。エイムズ家にしろ、タッカー家にしろ、我が国でも同じような話はいくらでもあること。愛情も憎悪も人の心は変わらぬものらしい。

 それはともかく、下宿を出る前日の夜、送別の宴が行なわれた。

 なんとパーティが始まる直前になってタッカー夫人がワインを持ってやって来た。主人の非礼を詫びたいということだった。我らは気にされることはない、ワインは喜んでいただくと夫人に言った。夫人は受け取ってもらえて嬉しいと言って帰宅した。タッカー大佐自身の気持ちはどうかわからぬが、夫人の気持ちはまことに尊いことだった。

 エイムズ夫人の料理はみごとなものだった。いつもティータイムに食べる果実の入ったプディングとは違った腸詰めの入ったプディングはまことに美味であった。名まえが「穴の中のヒキガエルトード・イン・ザ・ホール」というのはいただけぬが。

 タッカー夫人の持ってきたワインもいただいた。対岸のフロラン産のもので、リチャードが言うにはこれは上物だということだった。どうもワインに関してはイスギリ産は好まれぬようだった。

 石田もよく食べた。蒸した芋をつぶしてクリームと混ぜて味付けしたマッシュポテトが特に気に入ったようで、この芋は何という種類でどうやって作るのかと夫人に質問していた。夫人は種類を答えられずに困惑していた。エイムズ氏はもし気候に合うならお国に広めたらいいと話し、知り合いの農業の専門家に問い合わせようと言ってくれた。

 食事を終え、胡桃の入った焼き菓子を食べていると、下女がやって来て夫人に耳打ちした。夫人は少し遠慮がちに我らに声をかけた。


「ヴァッケンローダー伯爵夫人が皆さんにお別れの挨拶をしたいとおいでになったけれど、どうなさいますか」


 夫人には私から石田の恋慕のことを伝えていた。ただ石田には故国に許嫁がおり、勉学という使命もあるので、女人に心を惑わせるわけにはいかないとも伝えていたので、エイムズ夫人は石田の前で隣の伯爵夫人のことは口にしなかった。

 だが、さすがに下宿から引き払うことになったとあれば、挨拶くらいはさせてやりたいというのが人情なのであろう。

 確かに伯爵夫人から別れの挨拶があれば、石田の気持ちにもけじめがつくに違いない。石田もまだ彼女に別れを告げていないのだ。

 当の石田の顔を見ると、唇をぎゅっと引き締めていた。


「はい。私もお別れを告げねばなりません」


 石田の返事を受けて、夫人は下女に伯爵夫人を呼びにやらせた。

 夫人は生垣に咲いていた緋毛氈の色のバラの花束を美しい浅緑の薄紙で包んで持ってきていた。相変わらず美しいかんばせである。

 私と石田は立ち上がった。


「我らのために御足労くださり、まことに光栄の至りでございます」


 伯爵夫人に礼を欠かぬように私は言った。夫人は憂いを秘めた表情を隠さなかった。


「せっかくお近づきになれたのに、残念なことです。このバラは当家の庭に咲いたもの。餞別に差し上げます」

「ありがとうございます」


 石田は花束を受け取った。


「さようなら、お元気で」


 石田の言葉はそっけなく聞こえるかもしれぬが、その時の私には万感の思いのこもったものに感じられた。

 夫人は声を震わせて答えた。


「さようなら。あなたのお幸せを祈っています」


 エイムズ夫人はお茶を勧めたが、夫人はもう遅いのでと言い部屋を出た。

 ふと私は気になっていたことを思い出した。


「ちょっと失礼します」


 立ち上がり、先ほど夫人が出て行ったドアを開け廊下に出た。そこから玄関へ向かった。

 玄関近くの廊下の壁に小さな姿見が懸けられていたはずである。疑念を確かめることができるかもしれぬ。

 下女は私が来たのを不審げな顔で見た。が、夫人は私になど目もくれなかった。

 私は姿見の向かい側の壁に立った。この角度なら夫人の姿が見えるはずであった。

 小柄な下女の頭の上部が姿見に映った。夫人は下女より頭一つ大きいから頭だけでなく首も胸元も見えるはずである。

 私は息をのんで姿見を見つめた。

 果たして夫人は鏡に映るのであろうか。もし映らなかったとしたら……。

 次の瞬間、玄関横の小窓から目もくらむような白くまばゆい光が漏れたかと思うと、凄まじい雷鳴が鳴り響いた。

 あっと思った時には夫人は姿見の前を通り過ぎ、こちらに背を向けて開いたドアの手前に立って、稲光のする空を見つめていた。


「大丈夫ですか」


 私の背後から石田が駆けてきた。

 彼女を隣家まで送ろうとする石田を私は止めることができなかった。身動きができなかったのだ。






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