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03 恋

 異郷に学ぶというのは孤独なものである。

 気心の知れた仲間がいても、勉学には己一人で立ち向かっていかねばならぬ。家族もおらぬ身ではその厳しさを慰めるかたもない。

 しかしながら、もし近くに麗しい女人がいて、ともに語らうことができたならばどれほど心安らぐことか。

 だから、私には石田幾三郎の気持ちがわずかだがわかった。けれど、私には妻がいる。妻を裏切ることなどできなかった。

 石田にも許嫁(いいなずけ)がいた。帰国した後に祝言を挙げることになっていると聞いている。

 だから、この日の石田の態度は少しばかり許せなかった。

 我らは御公儀の命によってイスギリに勉学のために派遣されたのだ。その費用は元は百姓が汗水垂らして作った米を売って得たもの。一文とて無駄にできようか。国のため、民のため、今は勉学に励むべき時なのだ。女人に心動かされるとはあってはならぬことではないか。

 だから、伯爵夫人が帰るのを石田が送ろうとしたのを、私は止めた。


貴婦人(レディ)を一人で家に帰すのは紳士(ゼントルマン)として忍びない」

 

 彼は毅然とした態度で言った。私は何も言い返せなかった。石田が勉学に関すること以外でこのような態度を見せることはこれまでなかった。


「イシダさんなら大丈夫でしょう」


 エイムズ夫人も言った。一刻足らずのティータイムの間に夫人は石田を信頼に足る男と見たのだ。確かに信頼に足る男ではあるが、これは果たしてと思ううちに、伯爵夫人と石田は暇の挨拶をしてエイムズ家を出て行ってしまった。

 隣の家までのわずかな距離を二人が歩くだけなのに、私は取り返しのつかないことになってしまったような気がした。






 祖父はここで一休みし、湯呑の水を飲んだ。

 恐らく、祖父は留学するのはいいが、異郷の者と恋に落ちてはならぬと言いたいのであろう。

 そんなことであれば、父の心配とさほど変わらない。

 きっと、この後、石田氏は伯爵夫人と恋に落ち、留学の目的を忘れ、落ちぶれてしまったのであろう。

 祖父に届けられる郵便物をこの部屋まで持ってくるが、その中に石田という名の送り主はいない。祖父に手紙をよこすのはたいていが知り合いの貴顕か、あるいは近づきになりたいという者ばかりである。

 石田は祖父に手紙をよこすこともできぬ境遇になってしまったのであろう。

 章子は思う。自分を含めこの国の女は平べったい顔で、伯爵夫人のような美貌は持ちえないから、西洋の男が相手にするわけはない。だから、異郷で恋に落ちるなどありえぬと。


「石田様はその後、どうなったのですか」


 祖父はその問いに対して、しばらく沈黙していた。

 ボーン、母屋の応接間の大きな振り子時計の音が五回聞こえた。


「もう五時か。あまり長話をすると、おきよが心配するな。今日のところはこのあたりにしておこう。そなたも学校の勉強があるのであろう」


 章子はありがとうございましたと言って部屋を出た。今日のところということだから、また数日後にでも続きを聞くことができよう。






 袷から単衣(ひとえ)へと衣が替わった頃、やっと章子は祖父の話の続きを聞くことができた。

 あの話の後、祖父は熱を出し医師の往診を数回受けることになった。重い肺炎なので遠方の親戚を呼んだほうがいいと父は医師に言われた。

 翌日には志寿岡(しずおか)の従兄弟や叔父叔母達が玄関をくぐった。

 病室に彼らが姿を見せた時、祖父はそれまで閉じていた目をかっと開けた。


「何事だ」


 朗々たる声に皆驚き慌てた。


「何をうろたえておるのか。天地がひっくりかえりでもしたか。見苦しいぞ」


 章子もこれにはさすがに驚いた。

 医師は驚きながらも、数日のうちに起き上がれるようになるであろうと言った。

 実際、その翌日には祖父は起き上がっておきよの作った粥を茶碗三杯食べていた。

 集まってきた親戚たちは人騒がせなと言いながらも、祖父の回復を喜んでいた。それに三月に出来た東興(とうきょう)駅を見ることができたのだからと笑い合ってもいた。

 とはいえ、遠からずその日が来ることはわかっていたから、いい予行演習であったと言って国に帰ったのだった。

 彼らが帰って数日後、帰宅した章子をまたもばあやが呼んだ。

 例のごとく、夏物の単衣をまとい病室に行くと、やはりおきよはおらず布団を重ねたものに背をもたれさせて上半身を起こしていた。


「学校はどうだ。楽しいか」


 珍しく祖父は章子の学校のことを訊いた。心なしか以前より声に張りがないように感じられた。


「はい。今日は音楽の時間に唱歌の練習をいたしました」

「ほお。聞かせておくれ」


 珍しいことだった。歌など口ずさむことなどまったくない祖父だった。だから、孫たちも祖父の前で唱歌さえ歌うことはなかった。

 章子は「埴生の宿」を歌った。その間、祖父は目を閉じていた。

 歌い終り、なんとか音を外さなかったとほっとしていると祖父は目をゆっくりと開けた。


「よい歌だな。(ことば)がよい。よくもまあイスギリの曲にかような典雅な詞をあてたもの」


 祖父はイスギリの曲だと知っていたらしい。


「さて、続きを話さねばな。これから先に話すこと、途中で疑問を尋ねることはまかりならぬ。また他の者に話してはならぬぞ」


 なぜかようなことをと思ったものの、章子ははいとうなずくことしかできなかった。






 私の予感通り、取り返しのつかぬことになった。

 石田はヴァッケンローダー伯爵夫人の虜となったのだ。

 ほんの一町も歩かぬうちに石田と伯爵夫人は互いの恋の情を知ってしまった。

 我らは午前中はそれぞれ家庭教師について勉強していたが、週に一度か二度、午後に海軍士官ラングの元に集まり共通の講義(物理や化学、数学等)を受けることがあった。

 あの茶会から一週間後、それに出席するため私と石田はともに汽車で向かったのだが、明らかに石田の顔色はよくなかった。まるで何かに憑かれたように目が血走り、頬がこけていた。船旅の間、血を吐くことはあったが、かようなありさまになどなったことはなかった。

 眠れているのかと尋ねると、ただうなずくばかりであった。

 ラングの家に行くと、集まった他の仲間も石田の顔色を危ぶんだ。父親が奥医師をしていて医学の知識もある者はひどく心配して私に医師に診せたほうがいいのではないかと耳打ちするほどだった。

 ラングもまた不審を覚え、ここへ戻って来てはと石田に言った。だが、石田は御心配には及びませんとラングの言葉を拒絶した。

 帰りの汽車の中で窓の外をまるで夢でも見ているかのような顔で眺めている石田に私は話しかけた。


「伯爵夫人とあれから会ったのか」

「会った」


 石田は正直な男であった。嘘をつくことなどできぬのだ。


「夫人の家に行ったのか」


 我らは午後の数時間は運動のため散歩をすることが多かった。石田とたまに近くの公園で出くわすこともあったが、この一週間はそういうことはなかった。


「いや」

「まさか、夫人が来たのか」


 退役軍人タッカー大佐が面会を許すとは思えなかった。


「あれは、来たと言うのだろうか」


 石田の声はどこかうわごとのようだった。

 どういう意味か訊こうとした時、汽車が駅に近づいたようで速度が遅くなった。

 我らは駅を出て下宿のある通りへと歩いた。石田は黙ったままだった。私は沈黙が怖かった。

 伯爵夫人と会ったという石田。だが夫人の家ではなく、タッカー家らしい。しかも来たと言うのだろうかと石田は言う。これはいかなる意味なのであろうか。来たのか、来ないのか、考えてもわからない。

 ことによると伯爵夫人への恋心が募って、夜も眠れぬことになり夫人の幻を見るようになったのかもしれぬ。とすれば、私の手に負えぬ話である。医者、それも心の医者の手に委ねるしかない。

 エイムズ家の屋根が見えてきた。

 私は思い切って言った。


「少しうちで休まないか。エイムズ夫人が昨日焼き菓子を作っていた」


 エイムズ医師が帰って来るまで石田を菓子で引き留めることができればと考えたのだ。エイムズ医師の勤める医院は隣町にあった。今日は昼間だけの勤務だから夕刻には戻るはずである。


「かたじけない。だが、お言葉に甘えるわけにはいかない」

「正直に言うが、おぬしの顔色の悪さは尋常ではない。もっと食べねばならぬ。エイムズ夫人の焼き菓子には干した果実や胡桃が入っていて滋養がある。私も下宿に移ってから少し肥えたのだ」


 石田は笑った。仕方ないという顔であった。


「わかった。だが一時間だけだ。今日の復習をせねばならぬ」

「ああ、それは私も同じだからな」


 一時間のうちにエイムズ医師が帰って来ることを祈り、私は石田とともにエイムズ家のドアを開けた。

 エイムズ夫人は石田の顔を見て一瞬驚いたものの、すぐに微笑んで歓迎の意を示した。当然のことながら、夫人は焼き菓子を勧めた。私たちはリビングで茶を飲むことにした。

 リゼットも同席したがったが、夕食が近いからと部屋に行かされた。

 夫人の焼き菓子は見事な出来栄えだった。石田もこれはうまいと言った。

 夫人の話では同じ分量の粉、砂糖、バター、玉子を混ぜて作るということだった。酒に漬け込まれた干した果実と香辛料はえもいわれぬ香りを焼き菓子に与えていた。イスギリは広大な植民地を世界に持つゆえに、果実と香辛料は世界各地のものが使われている。干した葡萄、無花果、檸檬、肉桂等の入った豊かな実りの焼き菓子はイスギリの人々にとっては誇りなのであろう。

 夫人は夕餉の支度があるので、二人でごゆっくりと言って台所へ下がった。

 私は汽車の中での問答の続きをすることにした。


「伯爵夫人は来たのか、まことに」


 石田は紅茶のカップを皿の上に置いた。


「わからぬのだ。夢のようで。だが、目覚めると、残り香があった」

「残り香とは」

「花の香りのような。あれはバラだったかもしれぬ。夫人の家の生垣に咲いていた」


 うわごとというよりはそれは夢の話のようであった。


「一体、おぬしは夢の話でもしておるのか」

「夢のようであった。だが、夢ではない。確かに、そこにカロリーネはいた」

「どうやって、おぬしの部屋に? 確か屋根裏であろう」

「わからぬ。いつの間にか窓の外にいて私を呼んだのだ、入れてくださいと」


 大工か鳶、あるいは軽業の芸人でもなければ三階ほどの高さのある屋根裏部屋の窓の外に立てるわけがない。信じられない話である。だが、石田は嘘は言わない男だった。


「で、入れたのか」

「夢かと思った。だから、どうぞと」

「入って来たのか」


 石田はうなずいた。

 それ以上のことを尋ねるのは憚られた。私にも遠慮というものがある。石田も話すつもりはなかろう。


「まるで、化け物のようだな。まともに家の入口から入らず窓からとは」


 ヴァッケンローダー夫人の容貌の美しさは人を通り越して化け物じみていた。だからつい私はそう口にしてしまった。だが、石田は衝撃を受けたらしい。石田の顔色が変わった。青い顔が紙のように白くなった。温かな紅茶の湯気が目の前に立っているというのに。


「化け物……」


 私には石田を脅かすつもりはなかったから、言い訳を口にした。


「この世の人とは思えぬ美しさだからな。まあ、物の喩えだ」

「いや、化け物かもしれぬ」


 石田はつぶやいた。


「鏡に映らなかったのだ」


 今度は私が衝撃を受ける番だった。





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