35話
俺は久しぶりにロイツェン首都の宮殿で書類整理に励みながら、大公と雑談していた。
「何度思い返しても、スツートニク港での一件は生きた心地がしませんでした」
まさか女帝ディオーネが、ロイツェンと戦争になることを覚悟した上で俺を殺そうとするとは思わなかった。
カルニーツァ提督が「陛下、ちょいと待ちな」と言って諫めてくれなかったら、俺は今ここにいないはずだ。
あの海賊提督の伊達男っぷりはなかなかのもので、さすがの女帝も心を動かされたらしい。彼がグライフ語でひそひそ説得していたのが何だったのか、今でも謎のままだ。
ただ、その後で彼から「この女たらし!」と叫ばれたことについては、完全な言いがかりだと思っている。
すると大公が苦笑した。
「女帝は、君を殺せばロイツェンの発展が大きく遅れることを見抜いていたのだろう。聡明な女性だ。少々落ち着きがない気はするが」
「あのとき以外は、とても落ち着いている人物だったんですが……」
俺が首を傾げると、大公はニヤニヤ笑う。
「敵国の女帝を惑わす色男、というところだな」
「御冗談を……」
カルニーツァ提督が女帝ディオーネに恋愛にも近い崇拝感情を抱いているので、そっち方面の冗談は嬉しくない。
「そういえばクロツハルト君、あの海賊提督はどうだ?」
「全然ダメです」
俺は溜息をつく。
「あの提督、戦上手なのに数学は全くダメなんですよ。やっと九九を覚えましたが、今は一次方程式でつまずいています」
俺はカルニーツァ提督用の数学問題集を見せる。表紙に日本語で書いた「かいぞくのさんすう」は、俺の皮肉だ。彼は気づいていない。
「グライフ帝国自体は数学が発達していますので、決して油断はできません。あのバカはもうどうしようもありませんが、彼の幕僚には今後どんどん優秀な士官が入ってくるでしょう」
「君が前に言っていた『弾道学』も、グライフ帝国との競争だな。海戦も大砲で撃ち合う時代だ。数学は今後ますます重要になる」
「そちらは誰かにお任せしますよ。私は数学が苦手でして」
俺が数学得意だったら、理学か工学の研究者としてロイツェンに貢献していたんだけどな。ロイツェンには優秀な数学者がいくらでもいるので、高校レベルの数学しか知らない俺に出番はない。
大公は執務机に肘をついて、少し考える仕草をした。
「カルニーツァ提督は軍隊の指揮官をする為に生まれてきたような男だ。その彼に専門的な知識を与えたら、手がつけられないことにならないかね?」
「彼は数学の履修には向いていませんが、数学の価値にいつまでも気づかないほどバカではありません。ここで私が教えなかったとしても時間の問題でしょう」
「危険だな」
「いえ、私が彼に教えることで、彼について多くを知ることができます。教育の基本は観察ですから。生徒に合った指導法を選ぶ為にも、観察は必須です」
俺はカルニーツァ提督のクセをよく把握している。
彼は奇襲の名手らしいが、実は真正面からの正攻法でもメチャクチャ強いという。最初は正攻法でガンガン攻め込み、自軍が息切れし始める前に奇襲で敵を崩す。
その結果、最初の攻勢を維持したまま、最後まで押し切って勝つそうだ。カルニーツァ提督は駆け引きをよく心得ていると、ロイツェン軍では分析している。強い訳だ。
彼に勉強を教えていると、やはり同じ傾向が見られた。
「難問に突き当たると、彼は最初は正攻法で解こうとしますが、それと並行して裏技で解く道を模索し始めます」
「実戦における彼の動きと同じだな」
「だから誤答を誘うような問題だと、かなりの確率でひっかかって自滅します。あれはもう癖ですね」
俺の元の世界だと、運転免許の筆記試験でつまずくタイプと見た。
だから実戦でも、拮抗しているときにわざと隙を作ってやると、すかさず乗ってくるだろう。
大公は深くうなずく。
「なるほど。『テキオシリ・オノレノオシリバ・ヒャクセンアヤウカラズ』というやつだな」
「ええと……だいたい合っています」
大公の日本語は無意味にどんどん上達してる。そして狙ったかのように覚え間違えて、俺の腹筋を殺しに来る。
すると大公は満足げにうなずき、こう言った。
「うむ。君がいればもう安心だな」
「何がですか」
「いや、マリシェに大公位を継がせようと思っている」
「今、なんと?」
早すぎるだろ。
だがベルン大公殿下はそわそわした口調で俺に言う。
「娘の成長ぶりをつぶさに見てきたが、もはや一人前だ。あれぐらいしっかりしているなら、さっさと大公位を継承させて本格的に経験を積ませた方がいい」
「それは早計です、御前」
「いやいや、君もいることだしな。もちろん私も補佐や助言をするから」
このおっさん、さっさと引退して余生を楽しむつもりでいるぞ。冗談じゃねえ。
「これから我が国はグライフ帝国と国力を競いつつ、パルネア王国の復興と同盟関係に力を注がねばなりません。非常に難しい局面です。御前のお力がなくては困ります」
「だからこそだよ、クロツハルト卿。かの帝国の女帝ディオーネはまだ若く、あと三十年は在位するだろう。一方、私はそんなに長くは続けられん。どこかで大公位をマリシェに譲らねばならない」
大公はまじめな顔で俺を見つめる。
「ならば早い方がいい。マリシェには君という頼もしい師がいて、私もまだまだ元気だ。すでに大公の重責が務まる者を、いつまでも待たせておく必要はない」
「務まるでしょうか……」
どうにも不安だ。しかし大公の考えは変わらなかった。
「来月、停戦条約の調印式がパルネアで行われる。ロイツェン、グライフ、パルネアの指導者が一堂に会する場だ。そこにマリシェを送り込みたい」
パルネアの代表者はシャロン王女だ。マクレーヌ王妃は長期の療養が必要だし、そもそも政治家でも軍人でもない。幼い息子と一緒に、静かに暮らしてもらう方がいいだろう。
「シャロン王女もマリシェにはよく懐いているようだし、私が行くより良いだろう。そうは思わないかね?」
「うーん、仰る通りのような気はするのですが……。御前、本当は御自身が引退なさりたいだけなのではありませんか?」
「私を見損なうな。もちろん引退したいだけに決まっている」
正直だな、この人。娘そっくりだ。
だが確かに今は、世代交代のチャンスかもしれない。
「ですが御前、私はまだ当分は公女殿下の家庭教師なんですね?」
「もちろんだとも。これからも末永く、いつまでも頼む」
いつまでやらせる気なんだ。
そう思ったが、俺も姫にはまだまだ教えたいことがたくさんある。
しょうがない。責任を果たそう。
「一命に代えましても」
俺は深々と礼をした。




