34話
グライフ帝国に交渉の為に赴いていた「銀翼号」が帰国したとの報を受けて、マリシェ公女は椅子を蹴って立ち上がった。
「すぐに港に行くわ! シャロン、コレット、ついて来なさい!」
「は、はい!」
パルネア王女シャロンが慌てて立ち上がり、クロツハルト家家令のコレットもティーポットを置いた。
港には既に大勢の人々が集まっていて、航海を終えた軍艦を見守っている。
彼らは港に突然現れた公女殿下たちに驚き、次々に道を譲って頭を垂れた。
「ごめんね! ありがとう!」
頭を垂れる軍人や船乗りたちに手を振りながら、姫は岸壁に走る。
船からは外交官や兵士たちが続々と降りてくるが、クロツハルトの姿はない。彼らに会釈して労をねぎらいつつ、クロツハルトの姿を目で追うマリシェ。
やがて下船する者がいなくなった。
姫は不安になり、コレットに尋ねる。
「先生、この船に乗ってるのよね? 何かあった?」
「え、ええ……。当家に届いた手紙には、特に何も書かれていませんでした。『終わったので帰る』とだけ」
シャロン王女が寄り添ってくるので、マリシェは彼女の背中に手を回して慰める。
「大丈夫、先生は無事に役目を果たしてきたから」
ただ、何かがあったとしても姫にはわからない。この世界で船より早い連絡手段はないからだ。
「大丈夫……大丈夫のはず」
不安になったマリシェ姫は、渡し板を歩いて船内に入ろうとした。
そのとき、こんな会話が聞こえてくる。
「なあおい、本当にこの世界は丸いのかよ?」
「さっき数学で証明してみせただろ!? ていうか、丸くなかったら水平線は何なんだよ」
それを聞いた瞬間、マリシェは渡し板を蹴って船内に駆け上がった。
そこにいたのは紛れもなくマリシェの師、クロツハルトだった。隣にいるのは眼帯をしたグライフ人だ。
眼帯男が首を傾げる。
「確かに水平線が証拠だってのはわかる。水平線の向こうが世界の果てなら、水平線に隠れてる島は世界の果てに浮かんでることになるからな」
「だろ?」
この人たちは何を話してるんだろうと思っていると、眼帯男が叫び出した。
「それと『地図が歪んでる』ことが、どう関係するのかわからねえんだよ!」
「わかれよ! じゃあお前、その地図を丸い球に綺麗に貼れるか? しわができるだろ? それが歪みだよ。球体の表面を平面に書き写したら、絶対に歪みができるんだ」
どうやら地球が丸いという話を、このグライフ人にしているらしい。
クロツハルトは溜息をついて、こう言った。
「わからなくてもいいから、お前はまずロイツェンで微分と積分を勉強しろ。アホのままグライフに帰したら、俺がビュゼフ将軍に笑われる」
「アホって言うんじゃねえよ!? で、積分って何に使うんだ?」
眼帯男の問いに、クロツハルトはまた溜息をついた。
「積分は複雑な形の面積や体積を求めるのに使うんだ。地球は丸いんだから、司令官が地図を見るときには知っておいた方がいい。他にも山ほど使える」
「お、おう……。ついでに聞くけど、微分は?」
「航海の距離を求めるときに便利なんだよ。曲がりくねった曲線の長さを求めるのに使えるから。こっちも他にもいろいろあるけど、とりあえずそれだけでも十分だろ」
ものすごく投げやりに答えてから、クロツハルトはマリシェに気づいたようだ。普段通りの笑顔を見せる。
「ただいま帰りました、姫」
「う……うん」
なんて応えたらいいのかわからなくて、マリシェはこっくりうなずく。言いたいことがいっぱいあるのに、言葉が出てこなかった。
代わりに、別に聞きたくないことを聞いてしまう。
「そっちの方は?」
クロツハルトは心底どうでも良さそうな顔をして、苦笑してみせた。
「グライフ帝国の海軍駐在武官ですよ。予期せぬ戦争勃発を防ぐ為、陸海軍の上級軍人も大使館に駐在させることになったんです」
「聞いてない……」
「すみません、あちらを発つ直前に決まりましたので。でもこいつが仲裁に入ってくれなかったら、危ないところでした。カルニーツァ提督は命の恩人です」
クロツハルトが眼帯男の肩をポンポンと叩くと、カルニーツァと呼ばれた男が胸を張った。
「あのときの陛下は完全に思い詰めてたから、誰かが諫めないとな。だが、てめえの為じゃねえ。ディオーネ陛下の為さ」
「よし、じゃあディオーネ陛下の為に微分から学べ。グライフ海軍の提督が数学もできないようじゃ、ロイツェン海軍には永遠に勝てないぞ」
「いちいちうるせーよ! 見てろよ、まずはククってのから覚えてやるからな!」
よくわからないが、向こうでいろいろあったようだ。
後でたっぷり事情を聞くことにしたマリシェだが、今言うべきことは決まった。彼女は笑顔になり、恩師に言う。
「無事で良かった。お帰りなさい、先生!」
「はい。また明日から、一緒に勉強しましょう」
クロツハルトも笑顔で応えた。




