31話
俺は応接室から出て、ロイツェンのみんなが待つ部屋に戻る。
「クロツハルト殿!?」
「閣下、よくぞ御無事で!」
「おいソファを空けてくれ、クロツハルト様をこちらに!」
「水をお持ちしろ!」
ハンナやその他のメンバーが大騒ぎして、俺をソファに座らせる。
なんだなんだ、俺は重傷兵か何かか。
真っ先に口を開いたのは、やはりハンナだった。
「クロツハルト殿がなかなかお戻りにならないので、まさかと思って心配していました」
ハンナはうっすら涙目になっている。心配しすぎだろ。
しかし他の兵士や外交官も口々に同じことを言い出した。
「あの女帝がクロツハルト様を狙っていることは、自分たちも理解しているつもりです」
「そうです。閣下はロイツェンにとって不可欠の人材ですから」
君たちちょっと落ち着きたまえ。俺はただの紋章官で、副業は公女殿下の家庭教師だ。
確かに今回は重要な役割を持っているが、俺がいなくてもロイツェンは滅びない。
俺は差し出された水を一口飲んでから、ほっとした気持ちで笑う。
「心配するな、みんな。話はまとめてきた。事前の打ち合わせ通りだ」
その瞬間、一同が驚いた表情になる。
「おお……。さすがはクロツハルト殿」
「たった一人でグライフの女帝に……?」
「軍人顔負けの胆力ですな」
いや、みんなが思ってるほどあの人怖くないから。ちゃんと話ができる相手だった。
「例の条件で停戦協定を結ぶように呑ませてきた。すぐに書類を用意してくれ。パルネア王室の件はわかってるな?」
「はい、閣下。我々は『何も知りません』ので」
グライフ帝国はパルネア王室の代表者はマクレーヌ王妃だと思っているだろう。国王も王太子も戦死しているからだ。他に成人している王子や王女はいない。
だが実際のところは、王妃は最愛の息子を失った悲しみで公務ができない状態に陥っている。俺も面会したが、あれはちょっと無理だろう。
なお、夫の死は割とどうでもいいらしい。夫婦仲は冷え切っていたようだ。
そのせいで、パルネアの宮廷では「ケルン王子の本当の父親は誰なのか?」でいろいろと噂が立っていたという。気の毒に。
王妃が無理なら、後は七歳のシャロン王女しかいない。弟のケルン王子はまだ乳児だ。
そうなると必然的に、ロイツェン大公が後見人として出張ってくる。結局、グライフ帝国はロイツェン公国と交渉することになる。
詐欺としか言いようがないが、外交官は愛国心あふれる詐欺師だ。俺はちゃんと最初に宣言している。
さて、ばれないうちに急いで文書に署名してもらおう。
「この宮殿内には精神に作用する魔術がかかっている。グライフはありとあらゆる方法でこちらの足下をすくいに来るぞ。常に二人で行動し、互いの言動を確認しろ。慎重にな」
紋章術の詳細は紋章官以外には秘密なので、こう説明するしかない。
後は他の者に任せることにして、俺はソファに体を沈める。やれやれ、ひとまずは安心だ。
するとハンナが俺の前で直立不動のまま敬礼した。三十人の近衛兵も敬礼する。文官たちも無言でそれに倣ったので、全員が俺に敬礼する。
「クロツハルト殿、お疲れ様でした」
ハンナが泣きそうな顔で言うので、俺は冗談っぽく笑顔で敬礼を返す。
「ありがとう」
ちょっと照れくさいけど、悪くない気分だな。
* * *
一方その頃、女帝ディオーネの執務室をビュゼフ将軍が訪問していた。
ディオーネは将軍にソファを勧めつつ、彼の苦労をねぎらう。
「ロイツェンの『鉤爪』は、噂以上でした。あなたも苦労なさったことでしょう」
「我が身の至らなさを恥じるばかりです。私ではとても彼には太刀打ちできませんでした」
ディオーネは机上の報告書に目を向ける。
「私は軍人ではありませんので理解が難しいのですが、彼の何がそれほどに手強かったのですか? 軍人として優秀なのですか?」
「彼は軍人ではありません。戦場で兵を指揮する能力はないでしょう。しかし戦場の外で兵を指揮する能力があります」
「どういう意味ですか?」
内政には卓越した手腕を発揮しているディオーネだが、軍人としての教育は受けてこなかったので首を傾げる。
ビュゼフ将軍は言葉を慎重に選んでいる様子で答える。
「我が国の古い兵法書には『兵士は敵兵を見よ、士官は敵軍を見よ、将帥は敵国を見よ』と書かれております」
そう前置きした上で、彼はこう続けた。
「しかしクロツハルト卿が見ていたのはそれよりもっと上の階梯、おそらくは関係諸国全てでした」
「まるで宰相ですね。ただの紋章官や家庭教師ではなさそうです」
ディオーネはそう答え、しみじみと述べる。
「扱う事象が大きくなるにつれ、不確定要素は増えます。ひとつひとつの要素を検討していれば時間が足りません。正確に読み解くのは、人間にできることではありませんよ?」
「仰せの通りです。彼の読みも采配も正確過ぎました。我が軍の情報が全て漏れていたとしても、できることではありません。それにロイツェンが水面下で動き始めた時期が早すぎます」
グライフ軍の次の作戦がわかったとしても、その作戦によってパルネア人がどう反応するか、それにグライフ軍がどう対応するか。考えるべきことは無数に枝分かれし、あっという間に人間の思考力では追いつかなくなってしまう。長期的な予測を立てるのは極めて難しい。
だがディオーネは少し考え、納得したようにうなずいた。
「だとすれば、『こうなることが最初からわかっていた』という可能性はどうでしょうか。経験を積んだり歴史を学ぶことで、人は未来を予測できるようになります。あなたのように」
「恐縮です。しかし彼はまだ若く、軍務経験もありません。ありえるとすれば歴史の方でしょうか。彼は公女の家庭教師です」
「そうでしょうね」
女帝は報告書を手に取る。
「ただ不思議なのは、我が帝国が他国を征服したことは、過去に一度もないということです。おそらく他の国でもないでしょう」
グライフ連合王国が内紛を経てグライフ帝国になったときも、ジャーム教圏内でのトップ争いに過ぎなかった。征服した訳ではない。
パルネア帝国は分裂しただけだし、この世界に「異教徒による他国征服」という事実は存在していなかった。
さすがに「クロツハルト卿は異世界からやってきた人間である」などとは想像もできず、ディオーネは沈黙する。
するとビュゼフ将軍が思い詰めた様子で口を開いた。
「陛下。クロツハルト卿は危険です」
「私もそう思います」
「であれば、ここで彼を亡き者にするのが帝国にとって最善の選択ではないでしょうか」
ディオーネは驚いた表情をする。
「あなたの口からそのような言葉が出るとは、思ってもみませんでした。本気で言っているのですか?」
「私個人としては、クロツハルト卿には好感を抱いております。私が彼の立場ならロイツェン軍でグライフ軍に総攻撃をかけ、完全に叩き潰していたでしょう。ですが彼がそれをしなかったおかげで、私はまだ生きております」
ビュゼフ将軍は辛そうな表情をしながら、言葉を続ける。
「ですが彼をこのままロイツェンに帰せば、いずれロイツェンは大陸に覇を唱える大国に成長する可能性があります。我が国が全く警戒していなかったマリシェ公女を、クロツハルト卿はたった一年で恐ろしいやり手に育て上げました。彼の手腕は本物です」
「ビュゼフ将軍。外交官を謀殺すれば、ロイツェンとは決定的な敵対関係になります。そのことは理解していますね?」
ディオーネの問いにも、ビュゼフ将軍の決意は揺らぐことがなかった。
「承知しております。ですが、今なら総力戦に持ち込めば勝てます。我が南征軍は健在。パルネアは壊滅し、ロイツェンには援軍を求める相手がおりません」
「ただ、苦戦は必至です。そのことは攻略目標の選定時にあなたが言ったのですよ?」
「はい。それでもロイツェンに勝てるとしたら、今この瞬間しかございません」
きっぱりと言い切るビュゼフ将軍は、ぐっと拳を握りしめた。
「一年でこれだけの変化を起こせる者が、若き公女の隣にいるのです。公女が大公を継いだ後、数十年に亘ってロイツェンが発展していけば、もはやグライフ帝国に勝ち目はありますまい」
ディオーネは静かに溜息をつく。
「あなたがどんな思いでその提案をしたのかはわかりませんが、今あなたがとても辛い気持ちなのは見ればわかります。帝国の為を思い、心を鬼にしているのですね」
「……はい。このような卑劣な提案をせねばならないことを、軍人として恥じております」
女帝はもう一度溜息をついた。
「わかりました。あなたの言葉、胸に刻んでおきます。ただし軽率に判断できることではありません。少し時間を下さい」
ディオーネがそう言うと、ビュゼフ将軍は無言で頭を下げた。




