29話
ロイツェンを出航して一ヶ月ほどが過ぎ、俺はグライフ帝国最南端の港スツートニクに到着した。
最南端といっても真冬には凍ってしまう港だから、たぶん北海道よりだいぶ寒いと思う。今は夏だが、海を吹き抜ける風がひんやりと冷たくていい気持ちだ。
「ここから陸路ですか?」
下船した俺が現地のグライフ軍司令官に問うと、彼は敬礼したまま答えた。
「いえ、皇帝陛下があちらの離宮で数日前から閣下をお待ちです。ここでの交渉を希望しておられます」
おいおい、もう謁見か。どうしても国内の様子を見せたくないんだな。
ちょっと残念だったが、早く交渉を済ませれば早く帰れる。それはそれでありがたい。
俺は乗ってきた「銀翼号」に半舷休息を許可した。乗員が二交代で休息を取り、下船もできる状態だ。ただしすぐに船に戻れるよう、外泊などは禁止する。
何かあったらこいつに飛び乗って、一目散に逃げないといけないからな。
もっとも港にはグライフ海軍の軍船が多数停泊しているので、逃げられる気がしない。
俺は腹をくくることにして、グライフ帝国の文化について調査しておくことにした。ハンナと三十人の護衛をぞろぞろ連れて歩きながら、俺は町並みを見回す。
「直前の寄港地はどれも聖灯教の小国だったな」
「帝国に占領されてましたね。意外と活気がありましたが」
「ああ。それにこうして見ると、グライフ領に近づくにつれて文化的な影響を受けていた気がする」
交易などでつながりを持っていたせいか、文化面でも交流が進んでいたらしい。関所で封鎖できる陸路と違って、このへんの港には勝手に船がどんどん入ってくる。寄港地で会話した役人や商人たちは、みんなグライフ語もパルネア語もしゃべっていた。
だとすれば占領されたとしても、彼らにとっては大した問題ではないのかもしれない。
それにパルネアはパルネアで鬱陶しいからな。上から目線で偉そうにするし。
ちなみに帝国の国教はジャーム教で、ちょっとした意匠などにも文化の違いを感じる。こっちは幾何学模様が多い。
「この模様、数学が発達している可能性があるな……」
「模様だけでよくわかりますね、クロツハルト殿。でも数学なら怖くないですよ」
「とんでもない」
数学は戦争に直結している学問だし、政治や経済や科学技術にも直結している。数学が強い国は恐ろしい。気が滅入ってきた。
港の小高い丘の上には立派な離宮があった。でも離宮というか、ほぼ要塞だった。最前線の港だけあって、防御力がガチだ。大小さまざまの大砲だらけで、見てるだけで怖くなってくる。
「行くぞ」
俺は護衛や文官たちを従えて、グライフ軍の先導でぞろぞろと坂を登っていった。
女帝ってどんな人なんだろうな。
* * *
会談の為に通されたのは、意外にも小さな応接室だった。他の随行員は別室に待機しており、俺はたった一人でそわそわとソファに腰掛けている。
だがこの部屋、気に入らないな。壁に掛かっているタペストリーや調度品に、ロイツェン式の紋章術が使われている。ロイツェンの文化圏に属する者は、無意識のうちに心理的影響を受けてしまう。
紋章自体は誰もが目にするが、紋章術の存在や、どれがどの効果を持つかは国家機密だ。グライフ帝国はどうやら、ロイツェンのことをかなり深く研究しているらしい。
俺は紋章官なので、この部屋にどの紋章術が使われているか簡単にわかる。この世界で紋章官が外交官を務める理由のひとつがこれだ。
紋章は幾何学模様の飾りに紛れているが、そこだけ違和感があるのでよく目立つ。
使われているのは「妖華紋」だな。気持ちを高揚させ、慎重さを失わせる効果がある。ということは、俺が何かミスを犯すのを期待しているのかな。
でも俺はロイツェンの文化圏で育っていないので、こんなものは無意味だ。知らん顔をしておく。
俺の他に集まっているのは陸軍のビュゼフ将軍と、海軍のカルニーツァとかいう提督だ。海賊みたいな眼帯をしている。
後はジャーム教の神学顧問と外交官と法務官だという。全員、グライフ帝室直属のスタッフだ。
俺は側近の一人も連れてこられなかったので、これはどう考えてもフェアではない。ただこれは表向きは「有志によるクロツハルト卿の歓迎会」らしいので、俺としても文句をつけにくい。
だったらお前ら黙ってないで、少しは歓迎ムード出せよ。
嫌な感じだなと思っていると、何の前触れも無しに三十前ぐらいの美女がスッと入ってきた。
相手が何者かわからないが、俺は反射的に立ち上がる。
すると美女は静かに微笑んだ。
「はじめまして、クロツハルト邦爵。私がグライフ帝国皇帝、ディオーネ・クリーツェク・グライフです。正式な名乗りは父方の家系を全て読み上げるもので大変長くなります。私も全部は覚えていませんので、また後ほどにしましょう」
何ともあっけない名乗りだった。拍子抜けする。でも笑顔が意外と可愛らしい。
俺も急いで名乗らないといけないので、慌てて膝をついた。
「お初にお目にかかり、誠に恐縮です。ロイツェン公国紋章官のクロツハルト邦爵です。正式な名乗りは私も後ほど」
ディオーネは静かにうなずいた。
「このような形でお会いすることになり、大変申し訳ありません。我が国は謁見時の決まりが大変厳しく、思うように話ができないものですから。御理解頂けますか?」
「そうですか……。もちろんです。お気遣いに感謝いたします」
お国柄というのは色々だが、グライフ帝国では本音と建前をかなり厳密に使い分けるようだ。
そうでなければ、謁見前に歓迎会を装った非公式会談なんてやらないと思う。謁見時には交渉は全部終わって、単なるセレモニーという訳だ。
それならそれで、こっちも随行員たちを同席させたかった。卑怯だぞ。
するとディオーネは少し笑みを曇らせる。
「重ねて申し訳ありません。クロツハルト殿がお一人なのは、私がそのようにと強く望んだからです。同席している高官も同様で、クロツハルト殿に興味があり、自ら同席を望んだ者たちだけです。あくまでも非公式の会談ですので、一切の発言は記録には残しません。どうか御了承を」
柔らかい物腰で謝罪されると、怒る気持ちが嘘みたいに消えていく。
さっきからどうも一方的に不利な条件を強要されてるんだが、ここはグライフ側のホームグラウンドだ。俺に拒否権はない。あるとすれば即刻帰国することぐらいだが、何の為に来たのかわからなくなる。
しかしどういう訳か、あんまり腹は立たない。
ディオーネには不思議な人間的魅力があり、敵国の首脳なのに親近感を覚えてしまう。いやいや、それこそがこういう人たちの恐ろしいところだ。生まれついての支配者というべきか。
そんなことをグダグダ考えていると、あっちから話を切り出してきた。
「個人的にお伺いしたいことはたくさんありますが、まずは己の責務を遂行しましょう。本題からお願いします」
こうして俺にとってかなり不利な状態で、この世界の歴史を決める会談が始まった。




