20話
一方その頃、グライフ帝国陸軍ではちょっとした騒ぎが起きていた。
「第三十四憲兵隊のキルネフ二級憲兵官であります」
かつてクロツハルトを追い返した憲兵隊長が、首都の司令本部で緊張した表情で背筋を伸ばしている。
それを静かに見つめているのが、ビュゼフ将軍だった。
「ここに呼ばれた理由はわかっているかな、キルネフ二級憲兵官」
キルネフが黙ると、ビュゼフ将軍は彼を睨む。
「質問に答えたまえ」
「……わ、わかりません、閣下」
どうやらキルネフは憲兵隊を守ることを選択したようだ。ビュゼフ将軍は目を伏せる。
「私が憲兵隊にこれだけの強権を発動したことは、かつて一度もなかった。君たちとは仲良くやっていきたかったものでね。逆に言えば、今回の召集にはそれだけの重みがあるということだ」
キルネフは無言だが、表情が強ばっている。
ビュゼフ将軍の傍らに立っているのは、将軍の側近たちだけではない。情報部の高官も控えていた。
憲兵隊と情報部の不仲は陸軍では誰もが知っている。
ビュゼフ将軍は穏やかに言葉を続けた。
「君がロイツェン公国からの使者を独断で追い返したことが、少々問題視されている。場合によっては君を収監しなくてはならなくなる。もっと酷いことになるかもしれん」
この場合の「もっと酷いこと」というのは通常、懲罰部隊送りか強制労働だ。処刑もありえる。
「だが情報部の調査によれば、君は軍務に精励する忠実な軍人だ。模範的といってもいい。その模範的な君がどうしてこんなことをしたのか、教えてもらいたい。事情がわかればそれは斟酌しよう」
すかさず情報部の高官が口を挟む。
「貴官の行動は全て調査済みだ。言い逃れできると思うなよ」
ビュゼフ将軍は軽く手を挙げて、情報将校を制した。
「君らがそうやって厳しく接するから、ますます強硬に隠蔽するようになるのだよ。ここは私に任せなさい」
「はっ。申し訳ありません、閣下」
すぐに情報将校が敬礼して引き下がる。威圧と懐柔。この辺りの呼吸は慣れたものだ。
ビュゼフ将軍は世間話でもするかのように、こう語り出す。
「我が軍は現在、本国から遠く離れた異教徒の地で困難な任務にあたっている。パルネア王族の捜索、反抗勢力の鎮圧、占領統治の継続。身内で争っている場合ではない」
キルネフは無言のまま直立不動だったが、額に汗をかいていた。
ビュゼフ将軍はさらに言う。
「パルネアと同じ聖灯教国家であるロイツェンは、隣国で起きているこの戦争を快く思っていない。隙あらば介入してくるはずだ。大義名分を与えてはいかん」
憲兵隊にはわからないだろうが、南征軍の戦闘継続能力は枯渇しつつある。ロイツェンに攻め込む余裕はもうない。
「まだ今は戦争の時間だが、外交の時間は確実に近づいている。そのとき困るのは憲兵隊だ。部下が独断で外交官を追い返したとなれば、本国の憲兵総監の首が飛びかねん。だが今なら私が処理できる範囲内だ」
キルネフはまだ無言だが、動揺しているのがはっきりと見て取れた。組織の為なら口を閉ざす覚悟はあるが、その沈黙が組織に不利益になると言われれば動揺するようだ。
ビュゼフ将軍はそこで黙り、キルネフの反応を待つ。これ以上、何か言う必要はないと判断したからだ。
案の定、キルネフは口を開いた。
「……今回の件、どこまで処罰されますか?」
「心配するな、誰も処罰されんよ。特に君は絶対だ。外交官のクロツハルトと直接会っている重要人物だぞ。聞きたいことが山ほどある。その功績があれば処罰されないどころか、勲章のひとつも授与せねばなるまい」
表情を和らげてビュゼフ将軍が言うと、キルネフは敬礼する。
「全ての質問に偽りなく答えると誓います」
「よろしい。では最初の質問だ」
ビュゼフ将軍が身を乗り出した。
* * *
一方その頃、洋上ではカルニーツァ提督が歯ぎしりをしていた。
「ロイツェン人どもめ、河口だけでなく途中にも要塞を作ってやがるのか」
民間人に紛れて偵察してきた水兵が、首を縮めてうなずく。
「へ、へい。河から攻め込まれることはとっくに承知してるようで、橋の手前の両岸に砲台がズラッと」
「橋に大砲を並べて正面から撃ち合いつつ、左右からも撃ちまくるつもりだな」
そいつはやべえなとカルニーツァ提督は腕組みする。
攻撃側が強行突破しようとしても、橋の高さと橋脚の間隔は無視できないので速度を出せない。しかも帆船で河を遡上することになるので、風向きが良くてもかなりの低速になる。
「で、そんな要塞みたいな橋が複数あるって訳か」
カルニーツァ提督は眼帯を撫でながら、艦隊司令部の机に船長帽を放り投げる。
「やってらんねえ。ロイツェンの艦隊は油断なく沖合に展開してる。河口に侵入するだけでも一苦労なのに、そこからまた連戦なんか無理だろ」
陛下から預かった大事な船をこれ以上沈めてたまるかと、カルニーツァ提督は顔をしかめる。
「ロイツェン大公のベルンとかいうおっさんは、港で指揮を執ってるらしいな。対応が恐ろしく迅速だ」
通信網が未発達のこの世界では、報告と命令の時間差は距離に大きく左右される。難しい問題はトップの判断が必要だからだ。
だがロイツェンの最高指導者が最前線である港にいるので、艦隊も港湾守備隊も最小限のタイムラグで動くことができた。
「おまけに首都からの報告は川舟を使って素早く届く。首都には情報が集まるようにしてるはずだから、大公は首都を留守にしてても四方に目を光らせてる状態って訳だ」
カルニーツァ提督の読みは当たっており、公女の顧問であるクロツハルトがせっせと報告書を送っている。
だが一方で、大公から公女への指示はそれほど早くならない。河の流れを利用できないからだ。
それに気づいている側近が質問する。
「しかしそれなら、首都の守りは手薄なのでは?」
「そのはずなんだが、大公の娘が公務を代行してるそうだ。銃の名手で、暗殺団をまとめて返り討ちにした猛者なんだとよ」
「いい女海賊になりそうですな」
荒っぽいのが大好きな側近たちは、ロイツェンの姫君に何となく好感を抱く。
カルニーツァ提督はさらにこう言った。
「おまけにその荒っぽい公女には、流れ者の懐刀がいてな」
「ほう」
「『鉤爪のクロツハルト』っていう異名を持ってるらしい。公女を鍛え上げたのがそいつだっていうんだから、だいぶ危ねえヤツだろう。聞いた話じゃ、亡命してきた貴族で凄腕の軍師だとか」
クロツハルトの経歴の怪しさが、海賊たちの想像力を刺激する。荒くれ者の常として、そういう話はみんな好きだった。
「だがそうなると、海軍だけじゃロイツェン首都攻略は無理だな。ロイツェン艦隊を全滅させて、港を占領するぐらいか」
「しかし提督、それでは我々は陸軍の使いっぱしりになりませんか?」
ロイツェンの港を占領すれば、陸軍が弾薬や兵士を運べとうるさく言ってくるだろう。船の輸送力は馬車などとは桁違いだからだ。
カルニーツァ提督は髪をくしゃくしゃにして、低い声で呻く。
「しょうがねえだろ、俺たちは陛下の海賊なんだからよ。でもまあ安心しろ、ロイツェン攻略は割に合わねえ」
彼は船長帽を被り直す。
「ここに俺たちの艦隊がいることには意味がある。パルネアの港を封鎖して、ロイツェン軍の上陸を阻止してるからな。だが無理して艦隊を失ったら、それもできなくなる。最後まで生き残る海賊は、一番用心深い海賊だ」
カルニーツァ提督は冷徹な軍人だった。勝てない戦争はしない。
「ビュゼフのジジイに書面で連絡しろ。『ロイツェン海軍および港湾の兵力は極めて高く、多大なる損害なしには攻略不可能である』とな」
「い、いいんですか? 陸軍に弱みを見せて」
部下たちが動揺するが、カルニーツァ提督は肩をすくめてみせる。
「後々ややこしいことになったときに『だから言っただろ』って陸軍に言う為だよ。書面で残すのもその為だ。ちゃんと公文書にして控え取っとけ。陛下にも同じものをお送りしろ」
「承知しやした!」
部下たちが慌ただしく動き始めると、カルニーツァ提督は椅子に座って机の上に脚を投げ出す。腕組みをして堂々の態度だ。
しかし彼の口から出てきたのは、こんな言葉だった。
「なるほど、これが『ロイツェンの怪鳥』か……。こりゃ、ずらかる支度もしておかねえとな」
怖いもの知らずの提督の額には、じんわりと汗が浮いていた。




