16話
翌朝、俺たちは日の出と共に出立することになった。表向き、俺は「公女殿下からの書簡をビュゼフ将軍に早く届けたい」ことになっているからな。
怪しまれないよう、さっさと出ていこう。
俺は執拗に監視していた憲兵隊のキルネフ隊長に挨拶する。
「世話になった、キルネフ殿。両国の関係が良きものであるよう、努力しよう」
「はっ!」
無表情に敬礼する憲兵隊長。政治的な話題に触れると、とたんに役人っぽい無機質な対応になるな。
「さて、急いで本国に戻らねば」
村人たちが見守る中、俺は馬に乗ろうとした。
そのとき、ぽてっと何かが背中に当たる。地面に落ちたものを見ると、古くなった黒パンだ。
俺はそれを拾い上げ、無言で振り返った。
「今のは誰だ?」
その瞬間、ハンナたちロイツェン兵が銃を構える。銃口は村人たちに向けられていた。
ロイツェン兵が銃を構えたので、憲兵たちも反射的に銃を構える。
すぐに憲兵隊長がグライフ語で怒鳴った。
「やめんか! 外交官の前で揉め事を起こすな!」
よしよし。俺は左手でロイツェン兵を制した。
「よせ。パルネア人らしい不作法だ。『いつものこと(例の方法)』だ」
俺は冷笑しながら、黒パンを茂みに投げ捨てる。
それから馬に乗ると、ハンナたちを促した。
「行くぞ」
俺たちは無言の村人たちを残し、憲兵隊と共に街道に出る。
憲兵隊長に礼と挨拶をして、悠々とロイツェン領に戻ってきた。
「紋章官殿、尾行されている様子はありません」
護衛の近衛兵がそう言ったので、俺はようやく緊張を解く。ここまで来れば大丈夫だろう。
周囲に誰もいないことを確認した上で、俺は軍服の袖から例のヤツを取り出す。
「クロツハルト殿、黒パンなんかどうしたんですか?」
ハンナが不思議そうな顔をしたので、俺は彼女と馬を並べながら笑った。
「さっき村人が俺にぶつけた黒パンだよ」
「え、でもあれは茂みに投げ捨てたんじゃ……」
「あっちは俺が最初から持っていた黒パンだ。二つあったのを交換しただけさ」
黒パンは切れ込みが入っていて、糊で閉じてある。開くと中から紙片が出てきた。
「パルネアの教区大神官からの手紙だ」
夜のうちに村人の誰かが村を抜け出し、近くの街の教区大神官に連絡を取ってくれたんだろう。
ハンナはますます首を傾げる。
「でもこれ、どう見ても雑貨屋の帳簿の切れ端ですよ? 品名と数字しか書いてません」
「この数字は、パルネア派の教典の各章を意味している。章の最初の文字に対応しているんだ。品名は教典の各巻に対応してるから、教典を全部持っている人しか解読できない」
だから解読できるのはパルネア派の高位神官だけだ。
「これを持って帰って、パルネア派の大神殿で解読してもらおう。カルツ神官がつなぎを取ってくれる予定だ」
「はー……」
ハンナはまじまじと紙片を見つめて、それからハッと気づいたように問いかけてきた。
「もしかして、クロツハルト殿が投げた方の黒パンも?」
「その通り。ロイツェン国内のパルネア派神官たちからの紹介状だ。俺に協力するよう要請している。カルツ神官が書いてくれた」
聖灯教は初期に弾圧や迫害を受けているので、成立当初の宗派であるパルネア派には忍者顔負けのテクニックが残っている。さっきの「ふたつのパン」もそうだ。
「ハンナたちが銃を構えると、憲兵たちは反射的に銃を構えてハンナたちを警戒する。俺の方は見ないし、見るとしても俺の左手だ。左手で指揮をしていたからな。右手でパンをすり替えているのは気づかない」
これは俺のテクニックで、マジシャンのやり方を真似させてもらった。片手に注意を集め、反対側の手でこっそり何かする。
「憲兵たちが帰った後、村人たちは茂みからパンを探し出す。後は適当なタイミングで教区大神官に届けてくれるだろう」
「ほえー……」
ハンナはバカみたいな顔をして、ぽかんと口を開けている。それから目をキラキラさせて、俺に笑いかけた。
「クロツハルト殿、かっこいいです!」
「そうだろう、そうだろう」
俺もかっこいいと思ってるぞ。スパイ映画みたいだった。誰かに自慢したい。でも秘密にしないといけないから、自慢できないのが悔しい。
俺は馬を歩ませながら、ニヤリと笑う。
「だが一番かっこいいのは、これでパルネアとの間に情報の窓が開いたことだ。ここからパルネアの高位聖職者たちと連絡が取れる」
パルネアの街道は封鎖されているが、国境付近の村々は監視されていない。国境の山岳地帯は村人たちが里山として利用している。
そしてロイツェンの山岳猟兵隊にはパルネア派の信者が大勢いるので、事前の打ち合わせさえあれば山中で密書の交換ができるという。
具体的にどんな方法を使うのかは教えてもらえなかったが、たぶん地元民にしかわからないような場所に隠して取りに行くんだろう。
これでパルネア国内の様子がわかるぞ。
たった一本の細い細い糸だが、ロイツェン大公家とパルネア宗教界は情報の糸で結ばれた。
これが一万の兵よりも強力な力であることは、いずれ歴史が認めるだろう。……まあ、うまくいけばの話だけど。
俺はハンナたちに笑いかける。
「さあ帰ろう。ここから先は公女殿下の仕事だ」
「はい、クロツハルト殿!」
* * *
その頃、グライフ帝国軍の第三十四憲兵大隊の仮設司令部。
クロツハルトを追い返したキルネフ二級憲兵官が、上官の憲兵大隊長に報告していた。
「命令通り、ロイツェンの紋章官を追い返しました」
「それでいい。ロイツェンに邪魔されては困るというのが、上の判断だ」
大隊長はうなずいたが、キルネフは質問する。
「報告書はいかが致しましょうか?」
「記録は残すな。この憲兵大隊にも情報部の内通者がいる可能性がある。軍務日誌には『ロイツェン方面からの侵入者あり、規則に従って穏当に退去させた』だけでいい」
「はっ」
命令には絶対服従するキルネフは、何の疑問も抱かずに敬礼した。
大隊長は続けてこう命じる。
「ロイツェンからの問い合わせがあったときには、『そのときの小隊は進軍中で確認が取れない』と答えることになるだろう。貴官は部下に箝口令を敷け。近日中に別の小隊と入れ替える」
「はっ」
キルネフは敬礼して服従の意を示したが、ふと疑問を口にする。
「では村人たちはどうしましょうか?」
関係者は全員殺すのが確実だ。相手が外国人、しかも異教徒なら容赦する必要はない。それが彼らの「常識」だった。
しかし大隊長は面倒臭そうな顔をして、首を横に振る。
「この微妙な時期に、国境地帯で厄介事を抱えたくない。貴官が監視していたのなら問題ないだろう。ロイツェンに介入の口実を与えるな」
「はっ」
この件はこれで終わりだった。




