05話
「パァンッ」という乾いた火薬の炸裂音と共に、射撃場の下士官が旗を振る。
「命中! 白!」
軍装のマリシェ姫は火縄銃を構えていたが、俺を振り向いた。
「これ……面白いわ!」
「それは何よりです」
俺は下士官が運んできたスコアを見て、うんうんとうなずく。
「五発中、中央の黒丸に一発、白丸に二発、外れが二発。生まれて初めてとは思えません。天性の素質がおありですよ」
ここは重要なところなので、しっかり誉めておく。
真剣に取り組んだものを誉められれば、大抵の人は嬉しい。マリシェ姫も例外ではなかった。
「ふふふ、天性の素質? そう?」
「私が初めて五発撃ったときは、黒丸には一発も当たりませんでしたからね」
姫より短時間で狙いを定め、白丸に四発当てたことは黙っておく。
もっとも俺は学生時代にエアガンでだいぶ遊んでいたから、それを加味すると姫に素質があるのは嘘ではない。
「あの標的は突撃してくる敵歩兵を想定したものです。白丸に当てれば負傷で突撃は不可能、と判定しているそうです。姫は今、三人の敵を倒したのですよ」
「私が? ならこれは、誰かを守る力になるわね」
姫の顔がニヤけっぱなしだ。
闘争心旺盛な子だなあ。
「実戦では五発も撃つ前に敵が襲いかかってきますが、姫の腕前なら引きつけて撃てば確実に一人倒せます。それから抜刀して戦っても遅くはありませんから、剣だけで戦うよりずっと強いですよ」
「そうね、これ気に入ったわ。お父様にお願いして、猟銃を譲っていただこうかしら」
よしよし、ガッチリ食いついたな。
ではそろそろ、姫を罠に掛けるとするか。
「では姫、せっかくですから兵を率いてみませんか?」
「兵を? 私が率いるの?」
「大公になればロイツェン公国軍の全軍があなたの指揮下ですよ」
「それもそうね。それで、兵はどこ?」
今だ。
俺はすかさず紙を広げた。
「まずは机上の演習からです。今ここに、ロイツェンの近衛銃士隊五十人がいるとお考えください。彼らはよく訓練され、毎分三発の射撃を行うことができます。有効射程はおよそ百メルカルほどです」
「え? うん?」
とまどう姫を後目に、俺は紙に記した図を示す。
「一列十八人の横隊で、敵の長槍隊が前進してきます。横隊は八列確認できました。発見が遅れたため距離は二百メルカル、毎分百メルカルの速度で接近してきます。百メルカルになれば突撃してくるでしょう。その場合は遅くとも三十秒ほどで到達すると思われます」
「うん? ううん?」
「では姫、銃士隊にどのような命令を下されますか?」
「え? え?」
「射撃をお命じになられますか? それとも退却されますか?」
決断を求められ、うろたえるマリシェ姫。
「ど、どうしよう? えっと……何をすればいいの!?」
「敵の数を数えてみてはいかがでしょう」
「ええと……ペン貸して! 数がわからないわよ!」
俺は練兵場の時計を眺め、一分待った。
姫はようやく、敵の人数を求め終わったところだ。
「はい、敵が突撃してきました。配下の部隊は全滅です」
「ええええ!? ちょっと待ってよ! これからなのに!」
待ちましたよ?
俺は机上の紙面に数字を書き入れながら、姫に説明した。
「まず敵の人数は十八人が最低でも八列ですから、百四十四人以上います。こちらの三倍近いですね」
俺は紙面に「百四十四人」と記入する。姫のは計算が間違っていた。
「こちらはどう頑張っても二回しか射撃ができませんから、全部命中しても百人しか倒せません。実際にはそんなに撃てませんし当たりませんから、逃げた方が良さそうですね」
「ちょっと、今の時間でそんな判断できる訳ないでしょう!?」
「そうですね。判断できれば兵たちも死なずに済んだのですが」
俺がわざとらしく溜息をついてみせると、マリシェ姫はハッと気づいたように俺を見た。
「まさか、この計算の為に私を?」
「そうです。姫のような立場の方なら、剣よりも算術の方が強いのですよ」
だから九九覚えてください。
そう言いたいのをぐっとこらえ、彼女の表情を見つめる。
マリシェ姫はしばらく紙面をじっと見つめていたが、やがて根負けしたようにフッと笑った。
「あなた、面白い方ね」
「ありがとうございます」
誉められてる気はしないが、軽く受け流す。
マリシェ姫は火縄銃の銃口に棒を突っ込むと、溜まったススをガシガシ掃除しながら言った。
「なんだか面白くないけど、頑張って算術を覚えるわ」
面白いのか面白くないのか、どっちなんですか。
「いつか本当に五十人、いえ、もっと多くの兵を死なせてからでは遅いものね」
「ほう……」
思わず声が出てしまった。
マリシェ姫は銃に火薬と鉛玉を詰め込みながら、不思議そうに首を傾げる。
「なによ?」
「いえ……さすがは大公殿下の御息女であらせられると思いまして」
まだ若いのに、謙虚で素直だ。責任感もある。
これはもしかして、将来なかなかの名君になるのではないだろうか。
だとすれば、今までの家庭教師のやり方が間違っていただけなのかもしれない。
根拠がある訳ではないが、俺はその可能性に賭けてみたくなった。
「姫」
「なあに?」
パァンと景気良く火縄銃をぶっ放しながら、マリシェ姫が俺を見る。
俺は彼女に恭しく頭を垂れると、尊敬を込めて言った。
「姫の家庭教師役、どうかこのクロツめにお任せください。今までの家庭教師とは違うところを御覧に入れましょう」
「え、なに、そんなこと?」
マリシェ姫は笑うと、硝煙を手で払いながら応じる。
「あなたの講義、なんだか面白いわ。変な呪文みたいなものを覚えさせたかと思えば、今度は銃の撃ち方を教えてくれたりするんだもの。これだけでも、今までの家庭教師とは全然違う」
そう言って、彼女は少し不安そうな表情で俺を見つめる。
「私、期待していいの?」
この問いかけは、とても重い。教師と生徒の信頼関係に関わる問いかけだからだ。
でもこの問いかけの答えは、いつだってひとつしかない。
だから俺は覚悟を決めて、にっこり笑う。
「全身全霊をもって、あなたの御期待に応えます」
言っちゃったよ、俺。
こうしてマリシェ姫は九九の暗記に本腰を入れるようになり、そしてあっという間にマスターしてしまった。
興味が向いた瞬間、記憶力と理解力に物凄いブーストがかかるタイプのようだ。
ただ少し問題もあった。
「クロツ様、姫の部屋から日夜怪しげな呪文が聞こえてくるのですが……」
そう言ってきたのは、大公家の侍従長だ。
老齢の忠臣は不安そうな表情で俺を見つめる。
「クロツ様の御講義は、まさか妖術の類ではありますまいな?」
九九だっての。
俺は苦笑いし、こう返すしかなかった。
「姫は今、算術の基礎を習得中なのです。これがうまくいけば、財務や軍務で絶大な力を発揮するでしょう」
「あの呪文がですか?」
だから九九だってば。
そうこうするうちに、娘の奇行を心配した大公がマリシェ姫を呼び出す。
俺はその場にいなかったので知らないが、どうやら彼女は覚えた九九を披露したらしい。
『一見遠回りだが、これは良い訓練法だ。軍人や役人の教育に試験的に採用せよ』
大公はそのように述べ、こうして九九がロイツェンに普及していくこととなったそうだ。
定着するかどうかは、まだ何ともいえない。
それはいいんだが、公式名称が「クロツ算」になったのは居心地が悪すぎる。俺が考えた訳じゃないのに。
せめて「ニホン算」にしてくれれば、俺も罪悪感を覚えずに済んだんだけどな……。