10話
パルネア王国から亡命してきた七歳のシャロン王女は、ロイツェンの首都で少しずつ笑顔を取り戻していた。
「この赤い水に生けた切り花の茎や葉を、よく見てね」
マリシェ姫が得意げな顔で切り花を見せると、シャロン王女が目を輝かせる。
「わあ、赤い色がついてます! マリシェ姉様、これはどうして?」
「ふふ、それはね……。えと、切られた花も水を吸ってて、水の通り道が赤く染まっているからね」
思い出しながらではあるが、ちゃんと説明するマリシェ姫。
しかしシャロン姫の好奇心は止まらない。
「マリシェ姉様、お花はどうやって水を吸うの?」
「えっ?」
「お口もついてないのに、どうやって?」
一瞬動きが止まる姫。彼女はにっこり笑って、シャロン王女の頭を撫でた。
「じゃあ、それがわかるいいものを見せてあげるわ。ちょっと待ってて」
来るぞ来るぞ。
俺のところにやってきたマリシェ姫が、目をカッと見開いて俺に詰め寄ってくる。
「先生、どうして!?」
「毛細管現象ですよ、教えたでしょう? ほら、これ」
俺はちり紙を手渡す。これが一番簡単だ。
毛細管現象以外の方法、要するに大木が何十メートルも上に水を運ぶ仕組みについては説明を省く。というか、俺の世界でもまだ結論が出ていなかった気がする。
ちり紙をしっかり握りしめ、力強くうなずくマリシェ姫。
「ありがとう、先生!」
だだだだだとシャロン姫のとこまで戻ったマリシェ姫は、優雅なお姉さんのふりを再開する。
「この紙を、色水にほんの少し触れさせるわね」
薄いちり紙が色水を吸い上げ、みるみるうちに下から上へと染まっていく。
「ほら、これは見たことがあるでしょう」
「は、はい」
「ちり紙が赤く染まっているのは、色水がここまで染みてきたからね。これと同じように、草花は水を吸い上げるの」
表面張力の話は省きましたか、姫。シャロン王女の理解が追いつかないと考えたのか、それとも覚えてなかったのか。
後日確認しておこうと思い、俺はそっとメモを取った。
シャロン姫は目を輝かせ、マリシェ姫を称える。
「すごい! マリシェ姉様って学者みたいです!」
「ふふふ、それは褒めすぎよ」
にっこり笑うマリシェ姫だが、口元が緩みまくっている。
姫は最近、こうやって毎日のようにシャロン王女に勉強を教えていた。シャロン王女もマリシェ姫にすっかりなつき、実の姉妹のように親しくなっている。
俺にはわからないが、やはり王族同士というのが親近感を抱かせるのだろう。
シャロン王女は乳母や侍女たちと共に逃げてきたので、本当はひとりぼっちではない。彼女はもともと、両親や兄弟とはほとんど一緒に過ごしておらず、乳母たちに世話されて大きくなった。
だから乳母たちがいれば、彼女の最低限の家庭環境は守られていることになる。家族と離れていても、そこまで寂しくはないようだ。
とはいえ、乳母たちとは主従の身分差が存在する。身分の区別が厳格なパルネアでは、決して対等な立場ではない。
だからどうしても、王族の友人も必要になる。
マリシェ姫はシャロン姫にとって、良いお姉さんになっているようだった。
それと同時に、これはマリシェ姫にとっても良い影響を及ぼしている。シャロン姫の前で「優しく聡明なお姉さん」であろうと、必死に努力しているからだ。
俺が過去に教えた知識を復習し、今度はシャロン姫に教えてあげている。
そして知識を他人に教えるには、教える内容の何倍もの知識が必要になる。
あやふやな理解では相手に教えられないし、相手の理解度や興味に応じて教え方を工夫しないといけないからだ。さっきみたいに質問されることもある。
だから姫は毎晩涙ぐましい努力をして、必死に勉強していた。
「教えることで学んでいるんだな」
そうつぶやいた俺は、ハッと気づく。
それは俺も同じことだ。俺はマリシェ姫の家庭教師になったとき、ロイツェン語の書物を読み漁って必死に勉強した。
それにマリシェ姫との授業を通して、多くの経験を積んだ。
思えば俺も、姫のおかげで成長させてもらっている。
今更ではあるが、彼女に感謝しないといけないな。こんなに良い生徒に恵まれた俺は幸せ者だ。
よし、可愛い生徒の為に俺も頑張るか。
俺は二人の姫を後に残し、執務室に戻ってロイツェン防衛の為の策を練ることにした。
「普通に考えれば、こっちの手の内はグライフにはバレバレのはずなんだよな」
ロイツェンはパルネアに「草」を送り込んで、何代にも渡って情報を収集してきた。
だがおそらく、パルネアも同じことをロイツェンにしていただろう。グライフだってロイツェンにスパイを潜入させている可能性は高い。
「うーん……」
こちらの手の内はどれぐらい読まれているのか。そして「手の内が読まれていることにロイツェン側がどれぐらい気づいている」と、グライフ側は推測しているのか。
こんなもん、誰にもわかりっこない。
そして問題なのは、お互いによくわからないので事態がどう動くのかさっぱりわからない点だ。
シャロン王女にはまだ秘密だが、パルネア王戦死の報がベルン大公経由で俺のところに来ている。一族郎党で宮殿に立てこもり、壮絶な討ち死にを遂げたという。
だが同時に、パルネア王が領内に潜伏して兵力を結集し、大反攻を計画しているという噂もある。
どちらがより真実に近いのか、ベルン大公にもわからないそうだ。
この件について、グライフ陸軍が一番正確な情報を握っているだろう。海軍はわからない。仲が悪いらしいからな。
一方、パルネア貴族たちは正確な情報を知らないはずだ。彼らがどの情報を信じてどう動くのか、グライフ陸軍にも読めない。
そうなってくると、正確な情報を握っているはずのグライフ陸軍にも今後の展開はわからなくなってくる。
「確実なことは何だ……? グライフ陸軍がパルネアを完全掌握していないということか?」
それは間違いないだろう。他にもパルネア王が降伏したという噂もあるが、シャロン王女の持参した親書を見る限り、パルネア王は死ぬ覚悟だ。「パルネア王が降伏した」というのは、グライフ陸軍の流したデマである可能性が高い。
となるとやはり、グライフ陸軍はまだパルネアを征服できていない。占領統治に気が抜けない状態のはずだ。
あとたぶん、グライフ陸軍は火薬の補給で困っていることだろう。パルネアには火薬の備蓄がろくすっぽないから、占領しても徴発する火薬はない。
本国から輸送するにしても、まだ兵站の概念が乏しい世界だ。
では海軍はどうだろう。
グライフ海軍はパルネア海軍を三度の海戦でことごとく打ち破り、パルネアの古めかしい軍船をほとんど沈めてしまった。
最初の海戦でパルネア艦隊は半数が撃沈あるいは拿捕されたが、グライフ側の損害は沈没一隻と中破四隻だったという。だから後の二回は消化試合みたいなもんだったはずだ。
しかしシャロン王女たちは港を出航し、ロイツェンまで逃げおおせた。
洋上はグライフ海軍が封鎖していたが、港にはグライフ陸軍の姿はなく、上陸した海軍陸戦隊だけだったらしい。彼らは人数が多くない。
つまり陸軍は港まで侵攻していなかった。
海軍からの補給を受けられるのなら陸軍は真っ先に港を押さえるはずだから、やっぱり仲が悪いのは本当なんだろう。
どちらにしても、海側はベルン大公が何とかしてくれるはずだ。
俺たちは陸を警戒すればいい。そして今のところ、国境地帯に不穏な動きはない。
そして俺が何かするまでもなく、ロイツェン陸軍の意気込みは相当なものだ。「今度こそ大公家をお守りするのだ」という号令のもと、退役兵の再召集などで兵力を大動員している。
ロイツェン側の防備は着々と整いつつあった。時間が経てば経つほど、グライフ帝国のロイツェン侵攻は難しくなる。軍事的には膠着しそうだな。
そうなってくると外交での決着、つまり「グライフ帝国のパルネア占領」をロイツェンに認めさせることで幕引きを図ることになる。
だがもちろん、ロイツェンがそれをすんなり認めるはずもない。ロイツェンには、パルネアの王族が亡命してきている。
シャロン王女たちの存在が、ロイツェンとグライフの紛争の火種になるのは確実だった。考えすぎかも知れないが、グライフ側がわざとシャロン王女たちを逃がした可能性もある。
だとすれば、どのタイミングで仕掛けてくるのか。
「ダメだ、全然わからん……。くそっ、歴史の教科書を読んでいた中学生の俺を殴りたい」
あの頃の俺は「なんでこんな簡単なことがわからないのかなあ?」とか、「そりゃこうなるに決まってるじゃん」とか、生意気なことばかり言っていたものだ。
こんなもんわかるか。正確な情報が揃ってないんだから。
とにかく今、ロイツェンは国全体ができることを全力でやっている。
俺も公女殿下の顧問として、できることをやろう。
まずは生物の授業の補講だな。姫のあの調子だとたぶん、明日はもっと凄い実験を披露しようとするはずだ。
俺は溜息をつき、書庫から植物図鑑を探してくることにした。