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09話

 グライフ帝国のパルネア侵攻から半月ほど。

 パルネア王国に侵攻したグライフ帝国軍の動向については、なかなか情報が入ってこなくなった。パルネア内部の情報提供者たちが安全のために避難してしまったのと、人の出入りが制限されてしまったせいだ。

 おかげで俺たちは今、手探りの状態で次の一手を模索している。



「戦略ゲームなら偵察ユニットを送り出すだけで、必要な情報はだいたい手に入るんだけどな……」

 そんなことをつぶやきながら、俺は兵力の配備状況を確認する。俺は兵の指揮なんてできないしさせてもらえないが、姫の補佐として資料には目を通しておく。



「どうにも情報が足りないな」

 独り言が多いなとは自覚しつつ、俺は頭を掻く。

 隣室ではマリシェ姫が、射撃教官のハンナから「軍隊」について教わっているところだ。

 兵士や士官の日常、新兵の訓練、退役後の生活。お姫様には絶対わからないような裏の事情を、ハンナから赤裸々に語ってもらっている。



 成人した公女ともなれば、ロイツェンでは軍の指揮権を持っているのが当たり前だ。

 特に今回は大公不在の隙を作ることで、グライフ帝国の侵攻ルートを限定しようとしている。グライフ側は大公のいない場所を狙ってくるだろうから、そこを守っているマリシェ姫が矢面に立つことになる。

 軍についての理解を深めるのは急務だった。



 ハンナがいてくれて助かったと思いながら書類整理をしていると、侍従が訪問客を報せてくる。

「クロツハルト様。公女殿下との謁見を求めている幼少の御婦人が」

 手渡された紹介状には、ベルン大公の紋章。

 例の人物か。

「お通ししてくれ。姫には私が伝えておく」

「承知いたしました」

 さあ、面倒くさいことになってきたぞ。



   *   *   *



「シ……シャロン・ユオ・モティスト・キャラルーニャ・レッテ・ディタータ・ド・パルネアです」

 恐ろしく長い名前を名乗ったのは、小学校低学年ぐらいの少女だ。お人形さんみたいで可愛いが、表情には全く覇気がなかった。

 この子がパルネア王の長女、シャロン王女か。確かまだ七歳。



 家督は十八歳の長男が継ぐ予定だが、その兄はロイツェンに来ていない。もし国王と王太子に何かあった場合は、シャロン王女が次期国王になる。

 非常に重要な……そしてロイツェンにとっては極めて危険な人物だった。たった七歳なのに。



 シャロン王女は親書をマリシェ公女に手渡す。

「お父さ……こくおうへいかより、しんしょをたまわっ……あずかってまいりました」

「遠路はるばる御足労を感謝します。拝読いたします、シャロン殿下」

 同じ子供とはいえ、マリシェ姫は中学生ぐらいなので、きちんと応対する。少しぎこちないが、まあ合格だろう。



 だから姫が「拝読します」と言った割に、なぜか親書が俺の前に来ていることは不問とする。やれやれ。

 ざっと読んだところ、パルネア王は「たとえ死すとも異教徒には屈せず」、「王族の誇りにかけて一族総出で迎え撃ち」、「聖灯教に殉じる」らしい。

 うーん……。俺は庶民出身なので、こんな幼い子を残して死ぬなよと思ってしまうな。



 とはいえ、王様には王様の立場がある。俺にはわからない苦労や覚悟があるんだろう。

 内容的にはそんなに難しいことは書いてなかったので、俺は姫に書面を見せる。

「そう……」

 姫は最大限の自制心で、それだけ答えた。でも顔色が良くない。普段の言動からはわかりづらいが、この子はとても心優しい。相当ショックを受けているんだろう。



 それっきり、その場は沈黙に包まれてしまう。シャロン王女はさっきからずっと黙っているから、マリシェ公女が黙ってしまえば会話する者がいない。気まずい。

 こういう場合、俺が何か言った方がいいのかな。立場的には姫の顧問なんだから、ここで発言しても非礼にはならないだろう。

 とはいえ、俺の生徒はもう一人前だ。あれこれ指示する必要はない。



「殿下。シャロン殿下の母君であるマクレーヌ王妃は、弟君のケルン王子と共にシュッテンバウム城に滞在しておられます。マクレーヌ様の心労がひどく、首都までの長旅は難しいとのことでした」

「ええ、それも聞いているわ……」

 俺は話のきっかけを作っただけだが、姫は自分の立場を思い出したようだ。姫はシャロン王女に向き直る。



「シャロン殿下。我が父ベルン大公より、私が殿下をお守りするよう命じられております。ここを自分の城だと思って、まずは旅の疲れを癒して下さい」

「……はい」

 うなだれ気味に、小さくうなずくシャロン姫。スカートの裾をきゅっと握っており、その姿は今にも消えてしまいそうだった。



 するとマリシェ姫がにっこり笑う。

「とにかくおもてなしをしましょう。先生、お茶の支度をお願い」

 なんで俺が。俺は大公家の家臣だけど、君のお世話をする使用人じゃないぞ。

 そう思ったが、姫の何か企んでいる笑顔で俺は事情を察した。



 ああ、そうか。もしかしてあれをやるつもりなのか。

「承知いたしました、姫」

 俺は澄ました顔でわざとらしく頭を下げ、紅茶の準備を始めた。

 でも、そううまくいくかな?



 俺は別室で紅茶の支度をして、侍女たちと共に戻ってくる。

 シャロン王女はソファに座っていたが、ふかふかのソファに埋もれてやっぱり今にも消えてしまいそうだった。

 そりゃそうだろう。父と兄は本国で戦闘中、母と弟は異国の港で療養中。そして自分は異国の首都で変なお姫様と謁見中だ。俺だったら泣いている。



「ボヌフォワーヌの特級でございます、姫。茶請けにはカルサの金平糖を用意させました」

「あらそう、うふふ」

 前にこれをやったときと同じ茶葉と茶菓子なので、俺がきちんと準備していることが姫にも伝わったようだ。



 どうするのかなと思って見ていると、マリシェ姫はシャロン姫にこんなことを言い出した。

「シャロン殿下。この紅茶の真っ赤な色、まるで血のようですわね」

 言いたいことはわかるんだけど、ボヌフォワーヌ産の紅茶はどちらかというと黒っぽい。文学の補講が必要だな。



 しかし心が弱りきっているシャロン姫は怯えてしまったらしく、マリシェ姫の顔を見てビクッと震えた。七歳の女の子相手に酷いことするなあ。

 マリシェ姫はスプーンを取り、ピンク色の金平糖を一粒すくう。

「この可愛らしい金平糖は、まるであなたのようね。シャロン殿下」

 悪役ムーブでもったい付けてるのはたぶん、紅茶が冷めるの待ってるんだな。意外と慎重だ。



 マリシェ姫は優雅な仕草で金平糖を運び、紅茶の上に持っていく。

「この煮えたぎる血の海に、あなたのような砂糖菓子を一粒落としたらどうなるかしら?」

 口調変わってますよ、姫。

 シャロン姫は困惑半分、怯え半分といったところだ。初対面なのに、目の前の変なお姉さんがグフグフ笑ってれば無理もない。



「溶けてしまうかしらね? ええ、きっと溶けてしまうわね……」

 俺は無言で姫の三文芝居を眺めながら、心の中で「大根役者、大根役者……」とつぶやき続ける。

 すっかり怯えてしまったシャロン姫の目の前で、マリシェ姫はようやく金平糖を紅茶に落とした。



「あなたもきっと、こうなるわよ……」

 口調は優雅だけど、スプーンで紅茶を混ぜる仕草が完全に理科実験のそれじゃないですか。ビーカーと撹拌棒みたいになってるぞ、おい。

 軽く混ぜた後、マリシェ姫はスプーンで「それ」をすくい上げた。



「ほら、これ!」

 にっこり笑うマリシェ姫のスプーンには、さっきの金平糖がそのままの姿で残っていた。

「あっ……!?」

 シャロン姫が驚いたような声を上げる。

「溶けてない……」



「でしょ!? でしょ!?」

 さっきまでの演技を全て放り出して、マリシェ姫は得意げに笑ってみせた。

「魔法みたいでしょ?」

「は、はい」

 シャロン姫がこっくりうなずくと、マリシェ姫はこう言う。



「あなたもこの砂糖菓子と同じよ。煮えたぎる血の海に投げ込まれたって、絶対に守りきってみせるわ。このマリシェ・ルドリア・フォーンハウト・ロイツェンがね!」

 紅茶でびちょびちょになった金平糖をパクリと食べて、マリシェ姫はウィンクで決めてみせた。



 決めてみせたのはいいんだが、さすがにこれぐらいでシャロン姫の心の傷が癒えるはずはない。また黙ってしまうシャロン姫。

 微妙な空気が漂い、マリシェ姫がきょろきょろと左右を見回す。

 それから小さく咳払いして、よりにもよって手品の解説を始めた。



「い、今のはね? 溶けなくなるまで紅茶にお砂糖を入れまくったの。もうお砂糖は溶けないから、お砂糖である金平糖を入れても溶けないって訳ね」

 無言。シャロン王女の無言の視線と、申し訳程度のうなずきがつらい。

 マリシェ姫はどんどん追いつめられていく。



「と……溶けなくなった状態を『飽和』って言ってね。その状態のお水のことを『飽和水溶液』って言うのよ? か、化学よね」

 七歳の子に何を言ってるんだ、君は。

「飽和する量は水の熱さで変わってきて、熱いほどよく溶けるの。だから少しおしゃべりして、冷めるのを待ってたのよ。本当に溶けちゃったら気まずいもの」

 今も十分気まずいですよ、姫。



 やがて姫の飽和水溶液トークのネタが尽き、辺りは完全な沈黙に覆われる。

「あ、あー……」

 完全に沈黙してしまったシャロン姫の前で、打つ手を失ったマリシェ姫。よく頑張ったがここまでか。

 間が持たなくなり、姫はティーカップに口をつけて紅茶を飲んだ。



「あっま!?」

 それを見た瞬間に俺は思わず吹き出してしまったが、俺は絶対悪くないと思う。後ろで侍女たちも吹いてるもん。

「姫。砂糖の飽和水溶液なんですから、甘いに決まってるでしょう?」

「忘れてただけよ! 甘くておいしいわよ!」

 鼻水出てますよ、姫。



 俺は溜息をつき、シャロン王女に向き直って謝罪した。

「申し訳ありません、王女殿下。うちの姫は本当に良い方なのですが、御覧の通りでして」

「こら! 主君に向かってバカとは何よ、バカとは!」

「言ってないでしょう!?」

「言ってる! 先生のバカ!」

「師に向かってバカとは何ですか、バカとは」



 ぷんすか怒ってみせるマリシェ姫だが、この辺りはもう以心伝心だ。彼女が本気で怒っていないことぐらい、俺もわかっている。

 あっけに取られているシャロン王女に、俺は改めて向き直る。さらに腰を落として視線を合わせた。

「マリシェ姫は物心つく前に母君を亡くされ、兄弟はおられません。それだけに家族のいない寂しさはよくご存じですし、シャロン様を妹のように思われたのだと思います」



 俺はにっこり微笑みかける。

「姫は少々残念なところもありますが、本当に心のまっすぐな方です。必ずや、シャロン様のお力になってくれましょう」

「バカバカ言うな!」

「言ってませんが……」



 俺は肩をすくめてみせると、シャロン王女に笑いかける。

 するとシャロン王女はちょっとだけ照れくさそうに笑うと、小さくうなずいたのだった。

 本当に微かな、小さな笑み。

 でもそれは他のロイツェン人の誰にも引き出すことのできなかった笑みだ。マリシェ姫だからできた。



 俺は教え子の方を振り向くと、今度は心からの笑顔を浮かべた。

「本当に立派になられましたね、姫」

「え? あ、うん」

 マリシェ姫はよくわからないという顔をしつつ、とりあえずうなずいてくれたのだった。

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