07話
パルネア王国とロイツェン公国の国境付近の海。
波の高い海の上を、一隻の帆船が東へ進んでいた。
それを追っているのは、二隻の帆船。いずれもグライフ帝国海軍の旗を掲げた高速戦艦だ。
「おいマーロフ、絶対に逃がすんじゃねえぞ」
眼帯をした端正な顔立ちの青年が乱暴に言うと、船長の服装をした荒くれ青年が振り返る。
「言われなくても逃がしゃしませんぜ、親分」
「親分じゃねえ、提督って呼びな。カルニーツァ提督だ」
カルニーツァと名乗った眼帯男は、コートを羽織って腕組みする。
「あの船にゃ、まず間違いなく例の獲物が乗ってる。ロイツェンへの亡命なんかさせるかよ」
「別に捕まえなくてもいいって、陛下はおっしゃってるんでしょ?」
「バカ野郎、逃がしたら海軍が笑い物になるだろうが。あの泥臭い陸の連中に笑われて、海の男の誇りが傷つかねえのかよ?」
カルニーツァ提督がじろりと睨むと、マーロフ船長は肩をすくめてみせた。
「そういうとこは私掠船時代と同じですな」
「てめえらだってそうだろうが。おら、とっとと追いつけ。女帝陛下をお守りするのは陸軍の芋野郎どもじゃねえ。俺たち栄光ある近衛海賊団だ、そうだろ?」
「はは、やっぱり海賊じゃねえですか」
マーロフ船長は肩を揺らして大笑いすると、雷鳴のような大声で水兵たちに命令する。
「野郎ども、横帆をしっかり張れ! ロープみてえに弛んでるヤツは海に叩き落とすぞ! 海兵隊、移乗戦闘の用意はできたか!」
きびきびと働く水兵たちの操船で、高速戦艦はみるみるうちに帆船に接近する。
カルニーツァ提督はペロリと舌なめずりをした。
「よぉし、いい子だ……。そのまま食わせろよ」
だがそのとき、マストの上の監視員から警報が発せられる。
「前方に所属不明の船影! 七つ……いや、八つです!」
「ちっ、ロイツェンの艦隊かよ」
カルニーツァ提督は舌打ちし、即座に命じた。
「野郎ども、ずらかれ!」
マーロフ船長が訊ねる。
「いいんですかい、親分?」
「だから親分じゃなくて提督だって言ってんだろうが。しょうがねえだろ、勝ち目がねえんだからよ」
カルニーツァ提督は望遠鏡を覗き、わざとらしく溜息をついた。
「ほら見ろ、やっぱりロイツェンの海防艦だ」
「強いんですか?」
「航続力を捨てて、沿海での戦闘に特化してるからな。装甲も火力も白兵戦闘員も、あっちの方が上だ。調べはついてる」
カルニーツァ提督の率いるこの艦隊は、わずか二隻。しかも速度を重視した軽装の高速戦艦だ。重武装の海防艦が八隻も相手では、名提督といえどもどうしようもなかった。
「あーあ、陛下が高速戦艦をあと十隻ぐらい作ってくれりゃ勝てたんだが……。まあしょうがねえ」
カルニーツァ提督は拗ねたように頭の後ろで手を組み、くるりと背を向けた。
「帰るぞ」
「でもあの……」
マーロフ船長がおずおずと言うので、カルニーツァ提督は肩越しに振り返った。
「なんだ?」
「併走しながら砲撃すりゃ、あの帆船を撃沈できるかも知れませんぜ? 逃がしたくないんでしょう?」
しかしカルニーツァ提督は手をヒラヒラ振って、提案を却下した。
「おいよせ、あの船には赤ん坊と七歳のガキも乗ってるんだ。異教徒とはいえ、姉貴んとこのチビどもと同じぐらいの子供を殺したくねえよ」
「はは、親分らしいですな」
「捕まえられなきゃ逃がせってのが陛下の御意向だしな。ほら、さっさと逃げろ。ここで拿捕でもされてみろ、空前絶後のアホとして歴史に残るぞ」
グライフ帝国海軍の高速戦艦は鮮やかに弧を描くと、そのまま西へと去っていった。
* * *
「ふむ、グライフの高速艦二隻か」
シュッテンバウム城で執務をしていたベルン大公は、海軍将校の報告にうなずいた。
「パルネアの港は全て、グライフ海軍が封鎖しているとの報告が入っている。逃亡してきた船は本当に民間の交易船かね?」
すると海軍将校は背筋を伸ばして奏上した。
「港の交易組合に照会したところ、船名などの詳細な記録がありました。パルネア船籍の交易船で間違いありません。賄賂か何かを使って、うまく脱出したようです。ただ……」
若い海軍将校が言いよどんだので、ベルン大公は小さくうなずいた。
「皆、退出しなさい。彼と私だけにしてくれ」
秘書官や侍女、それに衛兵たちが執務室を出る。
誰もいないことを確認してから、海軍将校はそっと報告した。
「乗客の中に、明らかに平民ではないと思われる方々がおられました。三十代らしい御婦人と幼い少女、それに男の赤ん坊です。御婦人がこれを大公殿下にと」
海軍将校が無言で差し出したのは、一枚の白いハンカチ。パルネア王室の紋章が金糸で刺繍された、絹のハンカチだった。
辺りに上品な甘酸っぱい香りが漂う。恐鳥除けの柑橘の香水だ。
この貴重な香水をロイツェン国外で持っているのは、かなりの資産家だけだ。もともと高価な上に、需要がないので個人で輸入するしかない。
ベルン大公はハンカチをじっと見つめていたが、やがてうなずいた。
「間違いなさそうだ。すぐに身柄を保護し、城内の安全な場所にお連れしなさい。まずは秘密裏に会おう」
「はっ」
海軍将校が敬礼して立ち去ると、ベルン大公は窓の外をじっと見つめる。
「少々意外だったが、随分とあからさまな手を使うのだな……。戦争への招待状のつもりかね? まあいい」
苦笑を漏らし、大公は立ち上がった。その苦笑が変化し、穏やかな微笑みに変わる。
「かの者に鍛えられし『恐鳥』の雛を舐めるなよ、女帝」




