02話
「悪くないわ」
ぴかぴかの執務机に顔を映しながら、マリシェ姫がふむふむとうなずいている。
君は家具の善し悪しなんかわからないだろ。ぴかぴかだから満足してるんだ。
俺が内心で溜息をついていると、今度は椅子の座り心地を試し始めた。脚を伸ばしたり曲げたりして、うんうんとうなずいている。
「なかなかね」
子供か。
いつもならここらへんで苦言を呈する俺だが、ぐっと我慢する。
マリシェ姫はもう大人なのだ。少なくとも、ロイツェンの法律では。
といってもまだ十五歳だから、日本人の俺から見れば未成年もいいところだ。小娘に過ぎない。
でもここはロイツェン。日本じゃない。
やりづらいな。
姫がロイツェン人である以上、ロイツェンの法律と慣習を尊重しなければならない。それがルールであると同時に、姫を一人の人間として尊重することにもなる。とても大事なことだ。
だけどなあ……。
姫は執務机と椅子が大層お気に召した御様子で、よしよしと笑みを浮かべていた。
「どう、先生? これならもう、私を子供扱いできないでしょ?」
どこからどう見ても、「お父さんの机と椅子を借りて大人ごっこしてる子供」です。
俺は本音をぐぐっと押し殺し、塾講師時代に培った先生スマイルで塗りつぶす。
「ええ、御立派になられましたね」
しかしマリシェ姫は即座に俺の嘘を見抜いた。
「先生、本当はそんなこと思ってないでしょ?」
バレてる。もうそこそこ長いつきあいになるから、さすがにごまかせないようだ。俺は苦笑し、正直に言った。
「執務机の置物みたいになってますよ、姫」
「ほらやっぱり!」
言わせたのは君だろ。
俺は遠い目をしてから、拗ねて机の上に顎を乗せている姫に言った。
「形ばかり整えても、立派な大公にはなれませんよ。姫はまだ見習いですし、机の前でふんぞり返っていても意味がありません」
「え、そう? でもほら、書類にサインしたりとか……」
新品のペンを持って、そわそわしている姫。
なるほど、確かにこれは実務経験を積ませてからでないと大公位継承は無理だな。
俺は姫の後見人であり、教官などで構成される顧問団の筆頭だ。なんでこんな偉い地位になってしまったのか自分でもよくわからないが、とにかく責任がある。
「姫、とりあえず執務室から出ましょうか。最初は挨拶回りからです」
「公女が挨拶回り!?」
「いやまあさすがに、相手の方が来てくれることは来てくれるんですが」
本当は君よりずっと偉いからね、みんな。
* * *
「ぐえー……」
挨拶回りを始めて三日。姫はぐっちゃりと潰れている。
「しんどい……」
「挨拶してるだけじゃないですか」
俺は予定表をめくりながらチェックを入れていく。
「財務と法務のお偉いさんにはだいたい会いましたね」
「これ、何の意味があるのよ……。もともと知ってる人ばっかりじゃない」
これだから子供は。いや、子供じゃなかった。
「いいですか、姫。彼らは今まで、大公を通して姫に接してきました。姫は公務をしていませんから、仕事上のつきあいではなかったんです」
社長令嬢と幹部社員たち、みたいな感じだろうか。彼らはあくまでも大公の命令にだけ従っていた。
だがこれからは違う。
「今後、姫は彼らを統率する立場になります。『主君の令嬢』ではなく、『新しい主君』になる為の通過儀礼ですよ」
「わかるような、わからないような……」
大人の世界はケジメでできています。
それがいいことなのかどうかは、姫が大公になってから考えて下さい。
「問題は次なんですよね。軍のお偉いさんたちに会わないと」
すると姫は机から顔を上げ、不思議そうな表情をする。
「軍ならハンナがいるでしょ? 彼女を通せば簡単そうだけど」
「むしろ逆です」
まあいいや、とにかく会ってもらおう。
その前に俺が先方に挨拶に行かないとな。
* * *
「紋章官殿」
「今日の私は紋章官ではありません。公女殿下の顧問です」
俺の言葉に、軍服を着たおっさんが黙り込む。渋い表情だ。
目の前のおっさんは将軍の一人で、陸軍の一師団を率いている。もちろん有力貴族だ。俺よりずっと金持ちだし、貴族の序列の中でもかなり偉い。
将軍は再び口を開いた。
「顧問殿、我々の胸中はおわかりでしょうな?」
「もちろんです」
俺は溜息をついてみせた。
「先日は公女殿下が先走り、大変な御迷惑をおかけしました」
「う、うむ……」
額の汗を拭う将軍。
「暗殺未遂の一件で、我々は株を落としておりましてな。あちこちから『公女殿下の危機に軍は何をしていたのか』と非難されております」
おや、この人はだいぶ率直に話すタイプだな。本音を言わない他の将軍たちとは違う。
俺は少し考え、こう応じた。
「私は文官ですので武官の立場は想像するしかないのですが、戦士たちの指揮官にとって何よりも必要なのは威信と信頼でしょう。それが傷つけられては、職務を全うできません。お困りでしょう」
俺の言葉に、将軍は驚いた顔をした。
「そう……その通りです。おっしゃる通りだ。おわかり頂けますか?」
ある程度はね。
「あなたがたは兵卒や下士官に対して命令する立場にあります。必要なら、敵の弾幕に向かって突撃を命じなければなりません。そのときに指揮官の威信が失われていれば、誰が命を危険に曝せますか?」
「まさにその通りです。我々軍人にとって、メンツは飾りではありません」
今は近代化目前、これからが本当の戦争の始まりだ。帝国主義の到来で、世界は一気にきな臭くなる。軍の威信は重要だ。
とはいえ、必要以上に軍隊がもてはやされる社会ってのも健全じゃない気はするので、程度の問題だな。
いずれにせよ、彼らの手綱はうまく握っておきたい。武力を持つ彼らにはクーデターという切り札がある。
将軍はしきりにうなずき、俺に笑顔を向けてきた。
「公女殿下がどのようなお考えをお持ちか心配でしたが、側近中の側近であるクロツハルト殿がそのようにお考えであれば安心です」
「もちろん公女殿下も、将軍たちのことは気にかけておいでです。悪いようにはなさらないでしょう」
本当は全く気にしてませんが、後でよく言って聞かせておきます。
「ではクロツハルト殿。公女殿下の軍師役として、今後もよろしくお願いしますぞ」
「軍師ではないのですが……」
軍事的な才能を期待されても困る。
そして翌日、この将軍は公女殿下のもとを訪れ、今後は大公と同様に公女の命にも従うことを約束した。あくまでも形式的なものだ。
将軍はまじめな顔で姫を見つめる。
「今後、姫のお言葉は大公殿下のお言葉として受け止めます。どうかそのお心づもりで。くれぐれもお頼み申し上げます」
「え、ええ。わかっているつもりよ。でも、何か間違えたらごめんなさい」
コクコクうなずいている姫。威厳は全くないが、責任の重さはよく理解しているようだ。
将軍はふと優しい表情になり、こう返した。
「我らも誠心誠意、殿下にお仕えいたします。ときにはお諫めすることもありましょうが、御寛恕のほどを」
「も……もちろんよ。よろしくね」
相手が歴戦の将軍なので、姫は完全に圧倒されている。
将軍は俺の方をチラリと見て、意味ありげに微笑んだ。それから立ち上がり、隙のない動作で敬礼する。
「では殿下、私は任務に戻ります」
「ええ、よろしくね」
よしよし、無事に終わったな。
俺の本当の役割は、こんな秘書みたいな業務ではない。姫の教師だ。
でも教師というのは、教えるばかりが仕事ではない。学習に適した状況を作るのも仕事だし、学習の難度を適切な水準に整えるのも仕事だ。
今のところ、うまくいってる気がする。
いきなり会わせるより、俺がワンクッション置いた方が双方の為だろう。
こうして俺が毎回お膳立てを全部済ませているので、姫はうなずいているだけでいい。だが彼女は毎回ぐったりしている。
「ぐえー……」
また情けない声をあげているな。
「姫、この程度で弱音を吐かれては困ります。大公が将兵にいちいち命令する必要はありませんが、誰かが将兵に命令しなければなりません。それをするのが将軍たちなんですよ。彼らの信頼と忠誠がなければ、大公にはなれません」
「人の上に立つ人の、そのまた上に立つってことね……」
お、わかってきたじゃないか。そういう自覚がちゃんと育ってるから、俺は君が好きなんだよ。
「では殿下、次は海軍の河川警備艇団司令との謁見を手配します」
「ぐえー」
また机に突っ伏す公女殿下だった。
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