36話
この森には恐鳥が棲んでいる。
ハシビロコウとダチョウを悪夢的に合体させて巨大化させたような外見を持つ、凶悪な捕食者だ。
そしてまさに今、数羽の恐鳥が刺客たちに襲いかかっているところだった
。
生態系の頂点にいる捕食者だから数は少なく、一度に数羽も現れることは滅多にないのだが、夜明け前にギルベルムたちが騒ぎ過ぎたからな。
近くにいたのが全部集まってきたんだろう。
「ひっ、ひいいぃっ! ギルベルム殿、こいつは何なんだ!?」
「しっ、知らん!」
「アジョヤアァッ」
「ヴァシュケ、アジョヤーッ!」
刺客たちは短弓やナイフで応戦しているが、恐鳥たちの猛烈なキックでみるみるうちに倒れていく。
暗殺者の武器は隠匿性を重視し、威力は人間を殺せる程度しかない。体高が四メートル以上ある恐鳥が相手では、全くの威力不足だ。
俺がいた世界にも恐鳥類がいて、一時期は生態系の頂点に君臨していたそうだが、ロイツェンの恐鳥はそれよりも更にでかい。
迫力がありすぎる。
そんな恐鳥の巨大な鉤爪キックが当たると、刺客たちはボーリングのピンみたいに吹っ飛ぶ。一撃でノックアウトだ。
やがてみんな動かなくなった。
恐鳥ってキックも凄いんだな。巨体の俊足だから当然か。
「くるなっ! くるなああぁっ!」
意外なことに、ギルベルム卿はまだ健在だった。
弾を撃ち終えた銃を振り回して威嚇している。銃から漂う硝煙の臭いが、恐鳥たちを遠ざけているらしい。
なるほど、ああいう効果もあった訳か。
すると背後から、コレットがおそるおそる声をかけた。
「あの、旦那様。どうして私たちはここに来る途中、恐鳥に襲われなかったのですか?」
「恐鳥は鳥目だから、夜は狩りができないんだよ」
俺はごくシンプルに答え、それからもう少し補足した。
「それと、姫の使ってる柑橘の香水。あれは恐鳥が一番嫌う匂いだと伝えられていて、古い貴族はみんな持ってる。多少効果はあったようだな。匂いは本能に訴える力が強い」
人間でいえば、パンに魚の腐敗臭が染み着いているようなものだろう。食べられなくはないが、他に食べるものがあるならそっちがいい。
おかげで今のところ、我々を狙ってくる恐鳥はいない。
俺たちは、ここに恐鳥が生息していることを知っていた。そして恐鳥の生態についても、いろいろ知っている。
一方、彼らは何も知らなかった。
だから彼らはこれから死ぬ。
「姫もコレットも、それとハンナも、よく覚えておいてください。たったひとつの知識で、生死が分かれることもあるんです」
眼下ではとうとう、ギルベルム卿が恐鳥のキックを受けて崩れ落ちたところだ。大腿骨をやられたな。
「ひいいいぃ! だっ、誰か! 誰か助けてくれ!」
助けてやれるもんなら助けてやりたいが、さすがに恐鳥が多すぎる。それに公女暗殺計画の首謀者を助けても、どうせまた後で処刑だしな……。
俺は双方の身分なども考えた末に、ギルベルム卿に伝える。
「謀反人といえども、貴公もロイツェン貴族。公女殿下の御前だ、立派な最期を遂げられよ」
「悪魔か貴様ああぁっ!」
子供を殺そうとしたお前の方が悪魔だろ。
それから彼は恐鳥の巨大なクチバシにくわえられ、振り回された挙げ句に地面に何度も叩きつけられる。
他の刺客たちも同様の運命をたどった。
耳を覆いたくなるような断末魔の悲鳴と破壊音が、しばらく続く。
「クロツハルト殿、下はどうなって……」
「姫、たぶん見ない方がいいです」
俺も見ないから。
すぐに静かになったのでおそるおそる下を覗くと、ギルベルム卿も暗殺者たちも綺麗さっぱり消えていた。彼らの武器や帽子が少し転がっているだけだ。
恐鳥たちはうずくまり、巨大なクチバシで羽根をつくろったりしている。
彼らの朝食が終わったらしい。
たまに木の上を見上げてくる恐鳥がいるが、匂いを嗅ぐと顔を背けてしまう。
俺は木の幹や枝にしがみついている三人に、ほっとして笑いかける。
「終わりましたよ。もう刺客はいません」
「そう……。ちょっとかわいそうな最期だったけど、自業自得よね」
姫が胸の前で小さく印を切り、聖灯教の祈りを捧げる。
「ギルベルム、あなたの罪を赦します。あなたの魂の火が、聖灯とならんことを」
俺はそんな彼女の仕草に、君主の威厳を感じ取っていた。
この子はいずれ、立派な大公になる。
「それはそれとして、ですが……」
俺は大変言いにくいことを一同に言わねばならなかった。
「他に方法がないので恐鳥を利用して刺客たちを殲滅しましたが、この森にはあちこちに恐鳥がいます。足下にも……おおよそ五羽ぐらいいますね」
「そうね」
マリシェ姫がうなずいたので、俺もうなずく。
「ですので我々は日没まで、ここから動けません」
姫とコレットが目を丸くする。
「ちょっ!? どういうことよ!?」
「お、降りたいです……」
コレットは小刻みに震えているが、もしかしてトイレに行きたい系のあれですか。
ハンナが小さく溜息をついた。
「銃で恐鳥を追い払ってもいいんですが、逆に遠くの恐鳥を呼び寄せてしまうかも知れません。こちらの銃は二挺しかありませんし、交戦は無謀です」
「じゃ、じゃあ香水はどう? これは嫌いなんでしょ?」
それは俺が答えよう。
「匂いが大嫌いでも、空腹なら我慢して食べてくれますよ。下にいる連中は満腹ですからおとなしいですが、帰り道に違う個体に出会ったらまずいです。夜まで待った方が確実ですね」
「そんなぁ……」
徹夜の逃避行でげっそりとやつれた姫が、情けない顔で幹から手を離す。命綱がついているので落ちはしないが、少し気の毒だった。
せめて俺にできる方法で、姫を楽しませないと。
俺も疲れ果てていたが、精一杯の笑顔を作って姫に明るく言う。
「いい機会です、日没まで恐鳥の授業でもしましょうか」
「なんでそうなるのよ!?」
だって俺は、君の先生だから。




