35話
俺たちは山荘から遠く離れた森の中で、じっと朝を待っていた。
ここはもう、村人たちが立ち寄る里山ではない。もっと森の奥深く、鬱蒼と木々が生い茂る原生林だ。
「クロツハルト殿が逃げろっていうから、砦でもあるのかと思ったのに」
姫がそんなことを言いながら、持参した柑橘の香水をうなじにつけている。
「私、リスじゃなくてよ?」
そう、ここは木の上。
俺たちは深い森の奥で、広葉樹の巨木の枝に仲良く四人で並んでいるのだった。
高さは……どれぐらいだろう。十メートルぐらいは確実に登ったはずなので、落ちたら命に関わると思う。
もちろん落ちるのは困るので、俺たちは巨木の幹に丈夫な命綱をつけて、それを各自の腰に結びつけている。
生い茂った枝々が雨よけになり、濡れることもない。太い枝は安定感もあり、座っているだけなら不都合はなかった。
不満といえば真っ暗なことぐらいだが、今明かりをつける訳にはいかない。
こんな高さだと一発でバレる。
ハンナが暗闇の中、手探りで銃の点検と整備を終えていた。
「何もかもズブ濡れで、かろうじて撃てるのはこの一挺だけです。もう一挺は、明るくなってから掃除しないと撃てません」
「じゃあ、撃てる方はお前が持っててくれ。それが一番役に立つ」
「わかりました。でもここだと、包囲されて下から射撃されると確実に死にますね……」
リスと違って、俺たちは身軽に跳べないからね。
「とはいえ、ここじゃないと危ないからな」
「そうですね……」
ハンナが肩をすくめると、話題を変えた。
「ところでクロツハルト殿、どうしてシュナイツァー家秘伝の『水火縄』をご存じだったんですか?」
「秘伝っていうほど大したもんじゃないだろ、あれは」
ちょうどいい、今度こそ生石灰と水の反応について授業をするチャンスだ。
「世の中には様々な化学反応があって……」
「遠くに松明が見えました。たぶん敵です」
授業の邪魔すんなよ、刺客ども!
俺はイラッとしたが、今は刺客たちを全滅させるのが先だ。
コレットが不思議そうに尋ねてくる。
「旦那様は何を考えておられるのですか?」
「ああ、残りの刺客を片づけようと思っててな。山狩りしても刺客を全滅させることはできない。必ず何人か残る。そしてそいつらは姫を狙ってくるはずだ」
敵がどういう組織なのか全くわからないが、これだけ戦力を失った以上、次の襲撃はもう不可能だろう。
だとすれば生き残りは捨て身になって仕掛けてくる。
暗殺者も信用商売。それは彼らがサラリーマンでもフリーランスでも変わらない。
「だから姫には囮になってもらった」
「囮!? 私を守りなさいよ!?」
「姫を守るために、姫を囮にしたんですよ。どうせ山荘に戻っても、人だらけで何がなんだかわかりませんからね」
今の山荘はおそらく、極度の混乱状態だ。刺客たちが救援の兵士のふりをすれば、姫の寝室まで簡単に接近できるだろう。
「お、雨が止んだな」
雲が薄れて、東の空が少し青みを帯びてきた。周囲の様子が少しずつ見えてくる。
そのとき、銃声が轟いた。
「わっ!?」
「ひゃっ!?」
ただの威嚇射撃だったが、銃で撃たれた経験のない姫とコレットが悲鳴をあげる。
待ちくたびれていた俺はうとうとしていたので、悲鳴をあげずに済んだ。危なかった。
ほっとする暇もなく、下から声が聞こえてくる。
「そこにいるのはわかっているぞ!」
ロイツェン語だ。
ハンナが手鏡を取り出し、鬱蒼と茂った葉の陰から下を覗く。
「驚いた……。ギルベルム卿です。あとシュバール人の護衛が四人」
「まじかよ」
陰謀の張本人がなんでこんなとこに?
影武者とかじゃないの?
するとマリシェ姫が薄明かりの中で胸を張る。
「ロイツェンの臣民で大公家に弓弾こうなどとする者なんて、そうそういないってば。たぶん家臣たちにも相談できなかったから、本人が出張ってきてるんでしょ」
「なるほど、仮説としては魅力的です」
俺がうなずくと、姫は「にへへ」と嬉しそうに笑う。
しかしそうなると、あの青年貴族の手下は金で雇った連中ぐらいか。
それで暗殺成功させたとしても、国内をまとめられるのかな。絶対無理だろ。
たぶん「謀反人を討って大公国の秩序を回復するのだ」みたいな流れで、全貴族からボコボコにされると思う。
だから彼はどのみち破滅しか待っていない。
バカだ、バカ。
そんなことを考えて溜息をついていたら、また銃声がした。
「出てこい、卑怯者! 尋常に勝負しろ!」
「暗殺を企むヤツに卑怯とか言われたくないなあ……」
俺は小さな声でつぶやき、東の空を見る。
撃ち合いをしてもいいが、こちらは木の上から動けない。
発砲して居場所がバレたら、集中砲火で蜂の巣にされてしまう。
だから撃ち合いはせず、もっと楽な方法で決着をつけるつもりだ。
「そろそろです。みんな、絶対にここから落ちないように」
山の稜線を輝かせて、朝日が昇る。
森の木々の間を縫って、光が射し込んできた。
朝が来たようだ。
恐怖の夜を終わらせてくれる朝だ。
ただしそれは恐怖の夜以上の、「恐怖の朝」だった。
「グルッ、グルロロロ……」
鶏が喉を鳴らしているような音がする。ただし音はかなり大きい。
「グルッ、グルッ、グルロロッ……」
「グルッ……」
音がどんどん増えていく。
下の方でギルベルム卿がうろたえている。
「なっ、何だ? 何の声だ?」
「わかりません。聞いたこともない……」
シュバール人の誰かが答えている。
そりゃあ、シュバール人にはわからないだろう。
そして完全に朝が来た。
「グロロロロロロロロロロ!」
「グロロロロロッ! グロロッ!」
「グルッ、グロロロロロロロ!」
あちこちから鳥の鳴き声が聞こえてくる。茂みを蹴る音。何かが羽ばたく音。
そして発砲音が一発と、弓の弦音。
「うわああぁ~っ!?」
「くっ、来るなバケモノ!」
俺がそっと下を覗くと、予想通りの展開になっていた。




